どうしても譲れない
いつからか毎朝起きて部屋を見渡す癖がついた。泥のように眠った日の朝は特に念入りに確認する。
壁紙の無い素朴な木目の板壁、ベッドサイドにある読みかけの本と籠に入った作りかけの刺繍、壁に設置した自慢の姿身鏡、そして自分が着ている夜着へと目を移す。
いつもと変わらぬ光景にほっと胸を撫で下ろして心地着く。
ベッドから下りて向かったのはドア続きの衣装部屋。ウォークインクローゼットではなく、完全に一部屋を使っている贅沢な室内にはわたしの好きな物が詰まっている。
ドアの右壁側には色とりどりのドレスが整然と並び、ともすればここは小さなサロンかと見間違えるほど。
左手の壁一面には棚が設置され、コルセットやパニエ、肌着一式に靴まで、こまごまとした衣類がきっちり収納されている。イヤリングやネックレス等の貴金属も然り。
中央には丸テーブルと一脚の椅子。時折この椅子に座りドレス達を前にうっとりと眺めては自身の幸運さに浸る。
今日も素敵な現実は続いていると安堵して、早速自らの気分を考慮しながら色とりどりのドレスを選定し始める。
(昨日は黄色のフリフリ、一昨日はシックなワインレッド、その前はこっちの白?あれ?こっちだったっけ?……まぁいいや。うーん……今日は水色の気分だな)
「おはようございます、レミニーナ様」
私室の扉をノックする音と声に、「おはよう!」と声を張って返事すると側仕えのキャシーが扉を開ける音がした。
令嬢にあるまじき声量は、お母様が生きていたら『はしたないっ!』と注意されてしまうだろうが、こうでもしないと衣装部屋からではキャシーまで声が届かないから致し方ない。
いつもの事と心得ているキャシーはすぐに開けっ放しの衣装部屋のドアから顔を覗かせた。
「おはようキャシー。今日はこれにするわ」
「かしこまりました。では、ヒールは白になさいますか?それともこちらの濃紺でしょうか?」
「うーん……濃紺がいいかな。それとネックレスはこのパールにするわ。今日の予定は無いからイヤリングは無しね」
「かしこまりました」
こうして今日のコーデが決まるとその場でキャシーの手を借りて着替える。
転生前、女子力の欠片もなかった私の髪形はずっとショートボブだった。けれどこの時代は長い髪が女性の基本。ドライヤーもコテもパーマも無いけど、今のわたしは西洋人らしい明るい髪色で天パーのゆるふわヘアー。
髪留めはあっても髪ゴムが無いこの時代は自分で髪を一つに束ねることすら難しい。……わたし不器用なのよ。組紐やリボンで髪を結ぶとかムズいのよ……。なので髪型はいつもキャシーに丸っとおまかせ。
「出来ました。これでどうですか?」
「ありがとう。ドレスの雰囲気にピッタリだわ」
丸テーブルに置いてある重い手鏡で出来上がった髪型をチェックする。普段着用の飾りが控えめな質素な水色のドレスに、サイドを緩く編み込んだハーフアップの髪型で清楚目なコーデに仕上がる。流石キャシー、わたしの好みを熟知している。
そうして衣装部屋から出ると、部屋にある姿見鏡の前に立ち、全身をくまなくチェックする。
「うん、良い感じ」とOKを出すとキャシーは朝食を取りに部屋を出た。キャシーが戻るまで手持ち無沙汰なわたしはベッドサイドに置いてある籠を取るとソファに座った。
「レミニーナ、起きてるかい?」
声の主はルーベルト兄様。
「はい。起きてます。どうぞ」
どうぞと言う前に扉は開いた。
「おはようニーナ。ああ、今日も可愛いね」
「…………またですか」
挨拶をしながら入室した兄は真っ直ぐに姿見鏡の前に立つ。
『今日も可愛いね』なんて言葉はシスコンだから、というわけではない。我が家で唯一の大きな姿見鏡。それが私の部屋にあるから兄が私の部屋に来たのだ。その為に『可愛いね』なんて思ってもいないおべっかを言う。
というのも、この時代では鏡すら贅沢品。
市井の人達でも頑張れば手の平サイズの手鏡くらいなら買える。顔全体が映るサイズの鏡となると貴族間では当然だが一般庶民の稼ぎではそう簡単には買えない。一生に一度の嫁入り道具に鏡台を買ってもらえたら飛び上がって喜ぶだろう。それくらいに庶民からすれば贅沢な物。
なのに、この時代の鏡は質が悪過ぎる。転生前は100均でも手軽に買えた鏡なんてものはない。
ここでの鏡は、全体が濁った灰色に近い色のもので覗き込むとかろうじて自分の顔がわかる程度のぼんやりとした鏡が主流だった。当然綺麗な色のドレスも鏡の中では濁った色になってしまう。明るい昼間に鏡を見ても、寝不足で出来た眼の下の隈すら確認出来ない精度。
正直、何処かの森の中にある綺麗な泉や川に顔を映したほうがよほどくっきりはっきりと見えるだろう。そんな精度の鏡しか存在しない。鏡台も同様。精度は同じでも鏡が大きいというだけで値段は段違いになる。
そんな時代に転生した私。
幸運にも子爵家の令嬢として生まれ、幼い頃から当然のように鏡は身近にあった。けれど、記憶にある前世の鏡と違いすぎるのがどうしても解せなかった。
前世で中世の世界感に憧れていた私は、自分がドレスを着た姿を確認出来るように等身大サイズの姿見鏡がどうしても欲しかった。しかもそんじょそこらの鏡でなく、精度の良い、顔にある小さな黒子もはっきり見えるようなレベルの鏡が欲しかった。
そんな私が16歳の誕生日プレゼントにお父様に頼んだのがこの部屋にある姿見鏡だ。この国では少女が成人となる年齢。
社交界デビューの年なのだ。
デビューをしたら夜会にバンバン参加出来るのだ。
夜会に行けば沢山の煌めくドレス達を拝めるのだ!
そのデビューの為に『最高級の精度で壁のように大きな鏡が欲しい』と煩いくらいに言い続けて買ってもらった鏡。それでも、100均の鏡には劣る精度だが、色も輪郭もぼやけずに見える及第点ギリギリの大きな鏡をようやく手に入れたのだ。
……まぁ、実際には一般的なドアよりひと回り小さいサイズの姿見鏡だけどね。
幼いながらに毎年のように誕生日プレゼントは『大きな鏡が欲しい』『綺麗に映る鏡が欲しい』と言っていた。けれど、小さな手鏡が大きな手鏡に、大きな手鏡が鏡台に、鏡台が大きめな鏡の鏡台に、と年々大きくなる程度で鏡の質は一向に変わらなかった。
10歳を過ぎて『姿見鏡』という言葉が存在しないと知った。
それでも諦めきれないわたしは12歳を過ぎると父に鏡を作ってる工房を教えてもらい、自ら工房に足繁く通うようになった。工房の職人さん達に顔を覚えてもらうと、今度は手土産を持って通った。そうして4年弱も通い詰め、理想の鏡が欲しいと言っては親方を口説いて、鏡の精度向上に色々と口を出しまくった。
そうして念願叶って社交界デビュー前にはどうにかそれなりに納得のいく精度の大きな鏡を作ってもらえた。
本当ならこの姿見鏡を衣装部屋の奥に設置するつもりだった。
けれど、完成して邸に運ばれてきた特注の鏡を見た兄や弟までもがこの鏡を欲しがった。
「これはレミニーナへの誕生日プレゼントだ。簡単に買えるものじゃない!」
と激怒した父に頼まれたのが"姿見鏡の共有"だった。私の鏡だから部屋に置くのは当然。だけど、たまにでいいから兄弟にも使わせてやれと言われてしまった。そのせいで衣装部屋に設置出来なくなり、部屋の扉に近い位置に置く羽目になった。
確かに贅沢品らしくかなり値が張った。それなりのドレス○着は買える金額だ。わたしが工房に通い詰め、デビューとなる16歳という記念すべき年の誕生日だから買ってもらえたのだ。
そんな経緯から、以前よりも兄弟がわたしの部屋に訪れる頻度が増えた。加えて二ヶ月前に兄は正式な婚約をしたばかり。
「今日はビアンカ様とお出掛けですか?」
「ああ、昼から出掛ける。―――何か土産を買って来るよ」
婚約者のビアンカ様とデートする日は決まって姿見鏡の前で自分をチェックしまくる兄。
良くも悪くも、姿見鏡のお陰で兄との会話が増えたのは確かだ。そしてその一言で、出発直前にまた兄が部屋を訪ねて来るだろう事が明白になる。
「ニーナ、これで大丈夫か?」
ひとしきり自分の姿を確認したルーベルト兄様は私へと振り返る。
兄の姿を上から下まで一見する。
「バッチリです。格好良いですよ兄様」
「なら大丈夫だな」
これまではわたしの意見なんてあまり気にしなかった兄だが、ビアンカ様と婚約してからは一応女性の目を気にするようになったようだ。
たまに、え?そのシャツにそのネクタイなのっ?と思った時にはわたしはすぐ顔に出てしまうようで、「大丈夫ですよ」と適当に頷いても「どこが変かはっきり言え」と渋い顔をされる。
さすが聡明なお兄様。妹の表情の変化に機敏ですね。
「ああ、それと言い忘れていたが今後はお前と夜会に出掛けられないからな」
「えっ!? ――――そうですか……」
突然の宣告に驚いたけど、それは納得するしかなかった。
昨年わたしが社交界デビューをしてからというもの、招待された夜会は喜んで兄と一緒に参加していた。デビュー直後にいきなり一人で夜会に行く勇気は無かったので兄にダメ元で頼むと文句を言いながらもパートナー役を引き受けてくれた。
それからは当然のように毎回頼んでいて、兄が友人から誘われた夜会にもわたしを連れて行ってくれるようになったのだ。
それが今後は無理だと言う。その理由は勿論ビアンカ様だ。婚約したのだから今後兄はビアンカ様と夜会に行くのだろう。社交界シーズンを前にそう告げられた妹としては納得するしかない。
わたしはビアンカ様を嫌いではない。寧ろ、同性として憧れるくらいに優しくて気配り上手な方だ。だからビアンカ様の気に障ることはしたくない。そう分かっていても兄と夜会に行けなくなるのは正直言えば残念だ。
「……でしたら、これからは一人」
「それでだな、俺の代わりにパートナーになってくれる奴を見つけておいた」
「…………え?」
お兄様、今なんとおっしゃいましたか?
代わりのパートナー?
「ビアンカや周りの奴らが煩く言うから俺の代わりを探したんだよ。お前は令嬢達のドレスを見ていたいのだろう?」
「…………はい」
「だから代わりを見つけたから」
いや、だからって何?
そりゃ社交の場である夜会だけど、ぶっちゃけ私の社交性ほぼゼロだけど、昨年はずっと兄様の陰に隠れていたけど、ドレスを眺めることは一人でも出来るよ? そりゃ多少は挨拶しなきゃいけないのはわかるけど、今まで挨拶はお兄様に任せっきりだったけど、いきなり兄様の代わりとか無理でしょ?
「……あの、そんなことしなくても夜会なら私一人で」
「ダメだ。お前は一人で夜会に行くな。ビアンカが心配するからな」
「ビアンカ様が?どうして?」
「……大事な義妹を危険な目に合わせたくないらしい」
「…………危険な目?」
昨年デビューしてから兄様とあちこちの夜会に行ったけど危険な目なんてあったことないよ?
「だから明日は空けておけよ」
「は、い……って、明日? ちょ、兄様っ!」
言うだけ言った兄は話は終わったと私の部屋から出て行ってしまった。
翌日。昼を回った頃、邸前に一台の馬車が停まった。それをわたしは自室の窓からこっそりと見ていた。
(嘘……本当に来たの?)
私の夜会のパートナー候補。
折りしも、今は社交界シーズン直前。
四日後には親友のアメリアの紹介で、公爵家主催の夜会に参加する予定がある。
この夜会だけは是が非でも参加したいっ!
その為には兄の提案を受けるしかないのだが…。
折角の公爵様主催の夜会。貴族のトップクラスの素晴らしいドレス達を、パートナーの目を気にしながら見る羽目になるなんて……。
(……それでも不参加よりはマシ)
必死にそう自分に言い聞かせて馬車から降りる兄の知人と思わしき姿を盗み見る。