覚と一つ目と猫
自分でもまだそれが恋愛での意味で大事なのかはわからない。どちらかと言えば、家族や兄弟に対する感覚に似ている気もする。それでもあの時の奏悟は焦りもあって、らしくなく彼女を抱きしめた。
わざと顔を耳元に寄せ、己を意識させる。自分でも卑怯な手段だと頭の隅ではわかっていた。けれども、あの時は止められなかったのだ。
青いなと、冷静に考えれば判断できる。まだまだ、父親には及ばない。己を律し、物事を見定めなければ。
心の中で気合を入れる。そうして、約束通り、一成の数学を見ていった。
「あ、一成、そこ間違ってる」
「うるせぇ」
教えてあげたのに、酷い返しである。奏悟は自分の宿題も進めようとペンを走らせる。
暫く二人でペンを走らせていると、チリッ、チリリンッと鈴の鳴る音が聞こえた。
「なんだ……?」
一成が訝しんでいると、外からにゃーご、にゃーごと聞こえてくる。
「近所の飼い猫のメロンちゃんだね」
「外に放してたら車に轢かれて死ぬぞ」
「まぁ、メロンちゃんは賢い子だから……冷たいけど、例え轢かれても悪いのは放し飼いにした飼い主だからねぇ」
ふにゃああ。なぁあああん。
チリッ、チリリッ。
……なぁうん。
そんなことを言いつつ宿題を進めていると、いつの間にか鈴の音と猫の鳴き声が聞こえなくなる。きっと近所の野良猫の集会へと行ったのだろう。
鈴の音といえば、先程、杏香が庭で聞いたと言っていたのを奏悟は思い出した。あの時は咄嗟に猫の首輪の鈴だと言ったが、もう一つ思い当たるものがあった。
あの庭は昔から造形が変わっていない。それは変わってはならない理由があるから。
あの場は、特に芝生の場所は、迎え入れる場所なのだ。
奏悟も父親からそれとなく聞いただけなので詳しくは知らない。ただ、鈴の音が鳴る時は神の座に連なるものが降りる時であると聞いた。しかし、今まで奏悟は一度も鈴の音を聞いたことがない。猫のメロンちゃんの鈴の音ならよくあるのだが。
故に、杏香から鈴の音が聞こえたと言われた時は一瞬そのことが思い浮かんだが、それはないだろうと否定した。実際、猫のメロンちゃんは外で鳴いていたのだ。杏香の聞いた音は十中八九猫のメロンちゃんだろう。
父親が言うには、最後に神の降りる鈴の音を聞いたのは奏悟の曾祖父が幼かった頃だそうだ。それすら本当か怪しいが、妖は大人になると時の流れが遅くなる。きっと想像よりも遥か昔のことであろう。
真実を確かめる術はないが、それでも降ろす場を守り、存続させていくのは奏悟の一族の使命である。
……俺の代で神降しの場を見ることが出来るのだろうか。いや、たとえ見ることが出来なくても、この先もずっとあそこを守っていかなくては。
ぼんやりと頭の隅で考えながら、奏悟はペンを走らせた。




