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本編

 ニ


 水魚や刎頸は分かるけど管鮑は完全にボーイズラブにしか聞こえない


「じゃあ、行ってきます。」

 私は玄関で毎日見送りをしてくれるおじいちゃんにそう言う。

「気を付けてな。」

「うん。ああ、そうだ。おじいちゃん。今日、夕飯食べてくるよ。」

 靴を履きながらおじいちゃんにそう伝える。

「あい分かった。だが珍しいの。長良君か?」

「まあ、関係はしてる。八時には帰るから。」

「そうか。用心して帰って来なさい。」

「うんうん。ありがと。」

「じゃあな。」

 私はガラガラと玄関のドアを開けて外に出る。おじいちゃんんはいつものように玄関の框に親指が触れるか触れないかの所に仁王立ちして、手を腰に当てていた。

 玄関前に置いてある愛チャリに跨って、まだ七時過ぎなのに暑く照り射す日差しの中ペダル漕いで学校へ向かう。


 部活の朝練をしているテニス部と野球部の声を聴きながら私は駐輪場から生徒玄関へ歩を進める。私は下足室でローファーからスリッパに履き替える。すぐ目の前のホームルームを通り過ぎ、渡り廊下を通って図書室に向かう。他の人も使うだろう。だからあの生徒会規則の解説書をもとに戻しておくためだ。

 私はもう既に出勤して図書室を開けてくれている司書の先生に軽く頭を下げて室内に入る。

 一番奥の棚の一番下の段の一番端っこ。そこがあの本の場所だったはずだ。正規の図書ではないのだから窓口を通す必要も無い。いつか失われそうだから自宅のパソコンで一応全て取り込んでおいた。機会があれば増刷しよう。

 私は不審に思われないように一冊本を借りる。最近流行っている恋愛小説だ。読むかどうか分からないけれど市立の図書館では借りれるまでに何週間もかかる人気の本らしいから少しだけ得した気もする。

 そう気分よくハード本を携えて教室に戻るとちらほらと登校してきた生徒が座っている。

 きーくんも居る。

 私は自分の席に座り、きーくんにSNSでメッセージを送る。

『今日、六時四十五分に秋津駅東口に来てください。』

 友達なのだからタメ口で送ってもいいだろう。けれどどうしても敬語を使ってしまう。逆に強引な印象を与えている時もある気がする。

 きーくんは勉強をしていてスマートフォンを全く見ようとしない。どうせテストが終われば一度は確認する筈だ。大丈夫だろう。それに放課後には部活連の会議に強制参加させられるにちがいない。そうなれば私の呼び出しを理由に帰れるようになる。だから特に直接確認する必要も無いだろう。

 私はスマートフォンを鞄に片して勉強を始める。

 流石にテスト前の教室、みんな勉強しているか夏季課題の写経をしているかだ。私も昨日は生徒会規則のまとめ作業に勤しんでいたからちょっと心配だ。

 まあ、何とかなるだろうと頑張る。

 さあ、取り敢えずテストだ。


「はい、終わり。後ろの人、回収して。」

 最後のテストが終わった。昼休みを挾んで五限のテストがあった後なので解放感は一入だ。

 回収が終わるとみんなテストの出来不出来について口々に話し出す。

 私の感覚では数学と英語は上手く出来て生物と化学は普通に出来たけれど国語は思ったより出来なかった。もう少し課題の本文をきちんと確認するべきだった。

 そんなことを考えながら席の近いみんなと話を始める。

 余という潤滑剤を失った私たちの会話はぎこちない。なんとなく居ずらい。

 ああ、何とかしないと。

「はーい、ロングホームルーム始めるぞ。トイレ行きたい奴は今のうちに行けよ。」

 私たちの会話が噛み合っているのかどうなのか分からない様子で進む中、そのいつも通りに担任の黒ずくめが入って来てそう言った。

 一部の生徒がトイレに向かい、それ以外はゴソゴソと自分の鞄から大量の夏休み課題を机の上に積んでいく。

 一人ひとりの机の上に小山が出来ているのが何だか努力したんだと言う自信とともに何故か寂寥感すら感じる。この課題にどれだけの時間を食い潰された事だろうか。

「じゃあ、まず、選挙管理委員会から。」

 全員が教室に帰って来たのを確認して担任が言った。

 すると選挙管理委員がフラッと出てきて前に立つ。

「えーっと、はい、選挙管理委員です。本日から生徒会長、生徒副会長の立候補期間です。立候補する人は明日の午前十時までに推薦人五十名の署名と共に選挙管理委員会まで届けて下さい。選挙期間は明後日と明々後日の文化祭期間中、投票は四日後の九月七日です。以上です。」

 そう、委員はプリントを読んですぐに席に戻る。

 生徒会選挙なんてほとんどの人が興味ないので適当に流される。聞く方も話す方もなんでこんなどうでもいいことを儀式のようにしなくてはならないのかと興味なさげだ。

「はい。じゃあ、明日は文化祭の準備、明後日は文化祭の非公開、明々後日は文化祭の公開、その次の日は通常授業の後に生徒会選挙がある。ちょっと行事が立て込んでいるが体調には気を付けなさい。じゃあ、まず課題を集めて、それが終わったら文化祭実行委員会に渡すからさっさと集めなさい。」

 そう言って担任は教室の隅に捌けていく。すると各教科の課題回収係が口々に声を上げ始める。

「数学課題こっちでーす。」

「現文は私にお願いします。」

「英語は冊子が色々あるのでここら辺の床に並べて下さーい。」

「読書感想文は私でーす。」

 そんな感じに口々にいろんな人がいろんな事を言っているがもう既にこういう大量の提出物に慣れ始めている私たちは手際よく回収を行っていく。

 十分もしないうちに回収が終わり、文化祭実行委員が前に出る。

「はい。じゃあ、明後日から文化祭で明日一日は文化祭準備です。うちのクラスの出し物はお化け屋敷です。通路の壁に使う段ボールは夏休み中に何人かで集めておいたので何とかなります。衣装も女子たちが作ってくれてあるので、明日はその組み立てと飾り付けをメインにやってもらいます。今日の放課後も残れる人で廊下にビニールテープで宣伝を書いたり、ポスターを描いたりしたいのでよろしくお願いします。じゃあ、解散で。」

 文化祭実行委員がそう言うとみんな調子づいて半分奇声を上げながら立ち上がり思い思いに動き始める。職員室に課題提出をしに行く教科係、文化祭実行委員に詰め寄って「あれそれどうの」と言い始める奴、早速廊下にビニールテープで宣伝を書こうと教室をとびだしていく奴。みんな思いのままに動いているけれど自分の役割を楽しんでいる風で教室中が浮ついた雰囲気を醸している。そんな中、異質なのが三人、長良ときーくんと私、何か真剣そうに頼んですでに帰りたそうにしているきーくんを留める長良、そわそわとして心ここにあらずのきーくん、そしてそんな二人を眺める私。課題提出の所為で徹夜していた人もいるだろうに殆どの人が文化祭の準備に携わろうとしている中、私たち三人は我関せずだ。

 長良には余の事は言っていない。

 言っていてもきーくんを自分の生徒会長選挙の立会人にすることを止めないだろうから、知らないままに誘っていたという方が外聞がいいと思ったからだ。

 私はそんなクラスを後する。

 きーくんには布石を打って置いたし私がここにいても仕方ない。

 バイトでお金を稼ごう。

 もう少しで国公立三年分の学費が出るくらいには貯まる。私立は無理かもしれないけれど地元の国立大になら自分で行くことが出来るのだ。頑張ろう。


 バイトを終えた私は、きーくんに送ったメッセージの時間通りに駅の東口を訪れると駅の改札前の柱にもたれてきーくんが立っていた。

「ごめん、待たせた?」

 私は自転車を駅の駐輪場に止めた後、きーくんの前に駆け寄って可愛く尋ねる。

「いや、ほんの今着たとこ。」

 なんかデートの待ち合わせをしていたカップルみたいな台詞回しだが、きーくんは疲れ切った表情で溜息を吐くように答えた。

「まあ、お疲れ様。部活連でしょ。」

「ああ。」

「うん。じゃあ、ちょっとご飯食べに行こうか。奢るからさ。」

 私はちょっとおどけながら上目遣いに提案する。

 私はきーくんの裾を引っ張って駅前の大通りから一本入った路地の奥に引っ張り込む。

 基本的に治安のいい街だから裏路地とかも小汚くはあるけれどそれ程恐れることも無い。

「ラーメン屋?」

 きーくんは「こんなところに」といった風に首を傾げる。

「そ、ラーメン。ここ、休日は結構待つ店なんだよ。」

「はあ。」

「じゃあ、入ろうか。」

 私はラーメン屋の暖簾をくぐりぬけて店内に入る。

「おっちゃん、いつもの。今日は二つ。」

 私は入るやいなや、暇そうにしている大将のおっちゃんに向けてそう叫ぶ。

「はいよ。今日は若いの連れてるのか。いいねえ。」

「違う違う。そんなんじゃないよ。彼氏は別にいるから。これは友達。」

 私はきーくんを親指で指してそう言い、カウンターの一番端に座る。きーくんは店内に貼ってある野菜盛り盛りのラーメンの見本写真を見回してきょろきょろしながら私に付いてくる。

「ここ、バイト先でよく奢って貰うんだ。きーくんも私が食べる量と同じでよかったでしょ。」

「ああ、うん。なら、大丈夫かな?夏穏さんバイトしてるの?」

「うん。うち、両親居なくておじいちゃんだけだからさ。大学の学費くらい自分で稼ごうかと思って。偉いっしょ。」

 私は自分の事をあけすけに答えて水を軽く一口だけ含む。

 こういうことを言うのは軽く言った方がいいのだ。重苦しい雰囲気になって言っても私に利益が無い。別に心配してほしい訳でも、同情して欲しい訳でも無い。だから言ってもいいと思った相手なら、私はあっけらかんと言い切ってしまう。

「そうなんだ。」

 きーくんは特に興味無さそうに答える。まあ、余のことがあるから不幸というものの認識が鈍くなっているのかもしれない。

 うん。やりやすくていい。

「それで、夏穏さん。何で急にこんな呼び出しを?」

「助かったでしょ。会議を抜けるのに。」

「ああ、うん。」

「きーくん流されやすいから、何かきっかけないと動けないから。」

 私がそう言うときーくんは苦虫を嚙み潰したような険しい顔つきになって俯く。

 あれ、なんかそんな響く言葉だったっけ?

「はいよ。お待ち。」

 私がそう少し困惑しているとおっちゃんがカウンター越しにラーメンを渡してくれる。

 いつもの通りに野菜と鰹節盛り盛りだ。きーくんは顔を上げて唖然とする。

「あの、夏穏さん、何、これ。」

 おお、見事に片言。

「麺少なめ野菜増しカツオ増し増しアブラ、ニンニク抜いといて。」

 私は割り箸を割りながら呪文のように答える。

「え?」

「麺少なめ野菜増しカツオ増し増しアブラ、ニンニク抜いといて。」

 きーくんの素っ頓狂な声に私は再度呪文を唱えながら麺が伸びないように器の中で麺と野菜をひっくり返す。

「はあ。」

 きーくんはどうしたらいいのか分からずまだ箸も割らずにおどおどしている。

 私は太麺をズズズと啜る。

「ほら、早く食べないと麺伸びるよ。」

「お、おう。」

 きーくんは覚悟を決めたように一度頷いてから箸を割って私に倣って麺と野菜をひっくり返してから麺を啜りだす。

 テレビとか見ているとこういう野菜山盛り極太ラーメンのお店は緊張感が漂っていると言っていたけれどこの店はあんまりそんなことは無い。おっちゃんの気さくな気質が響いているのかもしれない。ニ、三度来ただけも客の事も覚えているくらいだ。

 私は「いつも通り美味しいなー」なんて思いながら食べているけれど、横のきーくんは必死だ。

 初めて連れてこられたときは私もこうだった。

 でもきっとまた来たくなるに違いない。きーくんも常連になるといいな。

 長良を連れて来た時もそうだった。でも、毎回のデートの最後に寄るのは止めてほしいと思う。他の所にも行きたい。

 そんな風に軽くよそ事も考えながら太麺とキャベツとモヤシを啜る。

 ……最近キャベツ減ったな。モヤシ多い。


「ふう。美味しかった。」

 私はラーメン店を出て大きく伸びをする。

「あの、ホントにいいの、奢って貰って。」

 後から出て来たきーくんはそんなどうでもいいことを気にしている。

「ああ、いいよいいよ。これくらい。その代わりあとちょっと付き合って。」

「はあ、ありがとう。ごちそうさま。まあ、まだ次のバスまで時間あるからいいよ。」

 きーくんは苦しそうにお腹を擦りながらそう言う。

「えっと、きーくんの家まで行くバスって一時間に一本だっけ?」

「ああ、うん。あと四十分くらい。」

「じゃあ、駅前のベンチでいい?」

 私は口にブレスケアを放り込む。うん、さわやかすぎる。

「ああ、うん。」

 私たちは来た道を帰って駅前のバス待ち用のベンチに座る。

「で、今日の部活連と長良、どんな感じだった?」

 私は本題から話を始める。

「ああ、えっと知ってるんだっけ。夏穏さんは。」

「ああ、口止めされてる?大丈夫、長良から聞き出してるから、生徒会長選挙の事でしょ。」

 きーくんは私の言葉に無言で頷き、下を向いて頭に片手を当てる。

「大変だね。」

「はあ。」

 きーくんは溜息を一つ落とす。

「まあ、取り敢えずそれは置いといて。」

 私はそんな疲れ果てたきーくんを尻目に話を変える。

「余のことなんだけど、相当大変みたいだね。」

 物知り顔で私がそう言うときーくんは顔を白くして私の方に向き直る。ベンチの上の街灯がきーくんの顔を照らして浮き上がらせる。大きく目を見開いたその顔は激しい驚愕が窺うことが出来る。

「私、やっぱりお見舞いに行きたいんだけど。ダメ?」

 私はきーくんから目を外して真正面にあるロータリーの大蘇鉄を見つめる。

「えっと、あの、それは。」

「ほら、余に確認くらいは出来ないかな?長良は置いていくから私だけ。」

 私はきーくんを横目でギョロリと見つめる。

 身長差はニ十センチくらいあるはずなのに、きーくんの背中は丸まって自分の腿に肘を置いて前で手を組み、その上に顎を置いている。背筋を伸ばしている私より目線が下になっていて私が脅すような姿勢だ。

「お見舞いに行くのが男ばかりより、一人くらい私みたいな女の子がいてもいいんじゃない。」

 きーくんは「ふう。」と溜息を吐きながら今度は手を後頭部に移動させて上半身を折りたたむ。もうどうしたらいいのか分からないといった雰囲気だ。

 私は背筋を伸ばしたままきーくんを見下ろしている。

 きーくんの乗るバスではないバスが一度私たちの前に停まり、乗車口を開ける。私も横で縮こまっているきーくんも微動だにしなかったら、勝手にドアを閉めて発車しする。

 そのバスの排気ガスの嫌な臭いが去った後、きーくんはうつ伏せのまま、大きく背中を膨らませて幾を吸い、「ふうー。」さっきよりも長い時間をかけて息を吐く。

 そしてガバッと起き上がる。

「えっと……、あの。」

 あまりにも勢いよく起き上がったから予想外にはっきりとした言葉が聞くことが出来るのかと期待したけれど、殆ど全く意味の無い言葉が出て来ただけでがっくりする。

「……うん、まあ、いいや。諦める。焦らせてごめんね。またでいいよ。」

 私はそう言いながらリュックサックを漁る。

「えっ、ああ、そう。そう。」

 きーくんは小さく数度頷く。

 そういや今日、きーくんひたすら私に驚いて頷いているだけだな。何だか私がいじめているみたいだ。……みたいじゃないか。

 私はリュックからファイルを取り出す。

「代わりにお願いがあるんだけど、長良の事、お願いするね。これ、資料、説明とか相談とかあったら言ってね。」

「いや、でも……演説とか、責任持てないし……。」

 きーくんは自信なさげに否定する。

「大丈夫。」

「でも!」

「大丈夫!」

 きーくんは私に食い気味にかかって来たが、私はさらにそれに被せて怯ませる。

「大丈夫だよ。落ちて元々、失敗しても部活連の所為にしたらいいんだから。それにこれ、渡しておくから使ってね。」

 私はきーくんに昨日まとめた資料を押し付けて立ち上がる。

「じゃあ、私そろそろ帰るからお願いね。長良の事も余の事もよろしくね。」

「えっ、ああ、うん。」

 私は無理やりきーくんを頷かせてすぐに立ち去る。おじいちゃんに八時には帰ると言ってしまったので急いで帰らないといけない。そういう建前の下、逃げるように駐輪場から逃げるように自転車を漕ぎ出す。

 生温い夜風は少し湿っぽくて不愉快だ。


 ふう、疲れた。

 私は家に帰るとすぐにおじいちゃんが入れておいてくれた風呂に浸かる。

 この風呂は私の両親が結婚するときに、古いタイル張りの風呂では可哀想だとお祝いにおじいちゃんがお金を出して立て直した風呂だけのユニットバスだ。元々の風呂が大きかったからか、背の低い私が入ると少し大きいサイズの湯舟がある。足を伸ばしたまま肩までしっかりと浸かれるのはとてもいいと思う。

 おじいちゃんは今日の間にきちんとおばあちゃんの好きだった炭酸せんべいを買ってきていた。明日、きちんとグループホームに行ってくれるようだ。文化祭の準備で忙しいかもしれないけれど何とか抜け出して早く帰って来よう。バイトの休みも伝えられたし、大丈夫だ。

 ふう。

 疲れた。

 私はザブンとそのまま沈んで湯舟に潜る。

 ……きーくんには悪いことしたな。

 余の事で相当参っている所に、長良が生徒会長選挙の立会演説人なんてものを持ち込んで、しかも私が余の事で脅して長良の依頼を引き受けるようにさせたのだ。踏んだり蹴ったりというかんじだ。私はその一連の事のとどめを刺すことだ。

 最悪以外の何物でもない。

 そう自己嫌悪を覚えながらお湯の中で目を開ける。

 少し沁みるけど何だか気持ちいい。少し伸びて来た髪の毛が揺れて海中を漂うワカメのようだ。

 息が切れるまで私は潜り続けて、どうしても苦しくなったところで一気に上体を起こす。

「はあ、はあ、はあ。」

 私はそうやって嫌な気持ちを洗い落として、風呂から上がった。

 夜遅くになってきーくんと長良からそれぞれ一言ずつSNSのメッセージがとどいた。

『ありがとう。』

 二通とも同じコメントだった。


 三


 隔靴搔痒っていうけれど少し痒いくらいなら靴の上から掻いた方が気持ちいい。


 重い。

 色々な音が地鳴りのように響く中、私は机を二台持って階段を下りていた。

 身長がそれほどないので少しつらいけれど、何とかなる。気を付けなければいけないは、床のそこかしこに貼ったってあるビニールテープで描かれた絵だ。偶に剥がれているので足を引っかけそうになる。それにどの作品も異様にクオリティが高いので剥がしてしまっては忍びない。

 この机はお化け屋敷の通路の壁にするそうだ。そういう何らかの形で机を使うクラスの人間が何人も机や椅子を持って階段や廊下を歩きまわっている。校舎内がこんなにうるさくなっているのは多分この大荷物を運ぶ人間が散らばっている所為かもしれない。

 私はそんなことを考えながら教室に入る。

「あ、乙坂さんありがとう。上、持つよ。」

 文化祭実行委員がそう言って私から机を一つ奪い取る。

「ありがとう。後、何個?」

「これで終わり。次は机を組んで紐で結ぶ感じで?」

「そう。」

 私は今日の半分くらいを占めている机の群れに私の持ってきた子も混ぜる。

 人は机の群れの反対側でいくつかの群れを作って待っている。

 私、持って来るの遅かったかな?

「はーい。みんな聞いて。今から持ってきてもらった机を二段に組んで紐で結んで貰います。えーー、男子で力のある人は結ぶのをなるべく仮止めまでにして、さっさと通路を作ってください。それ以外の人は机と机をしっかり結んで絶対に崩れないようにお願いします。じゃあ、始め。」

 パン。

 そう言って委員は一度手をたたくとみんなは一斉に動き出した。

 主に男子の力自慢たちは張り切っている。

「私たちどうする?」

「あそこ行っても邪魔だよね。」

「ほかになんかすることあったっけ?」

「ん―どうだろ?」

 そう言って教室内でああだこうだと言って通路を作り始めた男子を遠巻きに見ているのが私たち、方向を示す余がいないからか、結論が出ない。

「取り敢えず、ビニール紐切って待ってて。」

 そんな私たちを見かねたのか机を運んでいる実行委員が口をはさんだ。

「ああ、そうだね。」

「ビニール紐どこだろう。」

「あっちじゃない。」

 決める力は無いけれど行動力はある私たち女子はわらわらと散らばって教室の片隅に置いてあるホームセンターのビニール袋を荒らし始める。

「あった?」

「ビニールテープしかない。」

「こっちは塗料。」

 みんなに倣って私も袋を漁る

 あ、あった。

「ビニールテープ発見。」

 私は皆にそう告げる。

「おお、夏穏ちゃんさっすが!」

「こっちはハサミあったよ。勝手に使っていいかな?」

「いいんじゃない?まとめて置いてあったし。使おう使おう。」

 そうやってみんなで話しながら邪魔にならないよう端で車座を作って適当に切り出す。始めは「これくらいの長さで良いかな?」とか「どれくらい切ればいいんだろう?」とかそんな疑問の声も上がったけれど、みんな自分の作業に没頭し始めたら全く話さなくなった。黙々と作業している。賢いだけあって集中力はやっぱりすごい。

「あ、女子!そろそろ結び始めて。大体通路の構造決まったから。」

 仮組みをしていた男子の誰かがそう言う。

「はーい。」

「わかった。」

「私は残り切っとくね。」

 何人かはその場に残ったが、私たちは結ぶ準備の出来た机に向かう。

 仮組みが終わった一部の男子も含めて机と机を結び付けていく。

「ねえねえ、これでいいかな?」

「なんとなくぐらつくよね。」

「男子―、これでいいの?」

 私たちの一人がそう叫ぶとすぐに実行委員が飛んできた。

「あーっと。うん。これだと危ないから動かないように結んで。組んだ机が崩れると大惨事になるから。」

 そう、私たちの結んだ机を確認して仮組みの指示を出しにまた戻って言った。

 うん、お疲れ様。

 長良やきーくんとは大違い。

 私は朝一番の点呼の時だけいて、それからずっと姿を見せない二人の事を軽く思い浮かべながら言われた通りに紐を強く結びなおす。

「お、夏穏ちゃん力あるね。」

 そう、何人かの女子に褒められる。

「上手くこうして体重かければ出来るよ。」

 私は手八丁で教えながら大量にある机を結び付けていく。

 まあまあ力の居る作業だし、紐を扱うから手が痛い。

 みんなそんなことを軽くぼやきながら作業を続ける。

「よし。仮組みが終わったから全員で机と机結んどいて!ああ、後、次は段ボールを机に結び付けるから段ボールを取りに行くの何人か手伝って。先生の車の荷台に置かせてもらってるから。」

「了解。」

「じゃあ俺はダンボール取りに行くよ。職員室に先生居るよな。」

「ああ、俺も。」

「僕は結ぶのやるよ。誰かやり方教えて。」

「はいはーい。こっち来て―。教えるよ。」

 そんな感じに途中からほぼクラスの全員で机の本組を始めた。やっぱり力のある男子が加わると早くて、速度が倍どころか三倍以上になってどんどん机ががっしりとつなぎ合わさっていく。

「段ボール持ってきたからこれを開けて机に結び付けてって!穴開けて机に縛り付ける感じにして。」

 丁度すべてが組み終わり、ぐらつくところが無いかと確認していると、大量の段ボールを持った男子三人と担任教師一人が教室の入り口付近に立っていた。

 持っている段ボールはどれも大きくて電子機器メーカーのロゴが入っている。どこかの家電量販店から貰ってきたのだろうか?

「はーい。」

「穴開ける道具無い?」

「ハサミでこじ開ければよくね?」

「てか、段ボールだけでいいの?お化け屋敷なんだし何か布的なのとか。」

「飾りはあとでいいじゃん。取り敢えずやろうぜ。」

 そんな感じに段ボールを開いて、さっき組み終わったばかりの机に縛り付けていく。

「穴が上手くあかなーい。」

「おいこっち引っ張るな。」

 みんな慣れない作業なのでそこらかしこで何やら文句が出ているけれどそのうち収まるだろう。

 私たちも端から段ボールを結び始める。

「こんな感じでいいかな?」

「これもしっかり結ばないとだめだよね。」

「結び目内側に入れた方がいい感じ?」

「そうだね。中に入れようか。」

 私たちは手をぐるりと伸ばして結び目が外から見えないように結び付けていく。

 どうでこの上にぼろぼろの布を貼ったり、色を塗ったりするのならある程度見えていてもいい気がする。まあいいか。めんどくさいし。

 みんな職人みたいな目つきになって結んでいるから邪魔するのも悪い。

「ねえ、この調子だと紐足りなくなるけど、私買いに行こうか?自転車あるし。」

 私は偶々近くを通った実行委員に声を掛ける。

「え、っつお、うん。そうだね。お願い。領収書貰って来てくれたらお金は後で返ってくるから。」

「分かった。他に足りなさそうなものある?」

 そう自分のリュックから財布を取り出しながらそう尋ねると実行委員は少し考えた表情になる。

「んーー。多分大丈夫、ああ、そうだ。この調子だとペンキと刷毛が足りなくなりそうだから黒と赤のペンキ、いや絵具、おっきいチューブので一つずつと刷毛を……五、六本お願い。」

「了解。」

「お金足りる?」

「ああ、うん。大丈夫。」

 私はそう言って教室を後にする。廊下は各クラスの出し物の準備でと宣伝のための床のビニールテープアートの作成の為に物だらけ人だらけだ。食品系の模擬店をしているクラスは比較的楽そうで、味見なんかをしているが、ウチみたいにお化け屋敷とか、迷路とか、そういうクラスは忙しそうでみんな大わらわだ。どこもすごい速さで作り上げている。見た感じ一番大変そうなのは室内で木製ジェットコースターを作っているクラスだ。「摩擦係数が」

 とか、「これだと終わりまで行かない」とか、「ここをこういう角度にすれば」とか叫び声と共に大量の電気ドリルの駆動音が聞こえる。物理クラスかな?

 そんな風に私は他のクラスの様子を見つつ、外出届を貰ってから校舎を出る。

 なんとなく私が勝手に出てきてしまったけれど、余ならもっとちゃんとみんなに伝えてから買い物に行くんだろう。このままでは勝手にいなくなった奴扱いされる可能性がある。上手く実行委員伝えてくれるといいけれど。長良ときーが出て行っているし、他にも何人かが部活の模擬店の準備に行ったりしているからばれないか。

 そんな風に思いながらスカートのポケットに財布を入れて自転車を漕ぎ出す。

 忘れないよう「紐、絵具、刷毛」なんて歌いながら。


「はいこれ。」

 私は頼まれていた紐、絵具、刷毛と、ついでに差し入れで買ってきたペットボトルのジュース四本と紙コップを実行委員に渡す。

「ありがと、丁度紐が無くなる所だよ。このジュースは?」

「それは差し入れ。私、今日放課後用事あって残れないから、みんなで飲んで。それより、半分くらい出来てるじゃん。早いね。」

 私はそう言って女子のグループに戻る。

「あれ、夏穏、さっきまでどこ行ってたの?部活はやって無かったよね。」

「うん。紐が足りなさそうだったから買いに行ってた。」

「ああ、お疲れ。丁度無くなりそうだったんだよ。」

「うん。使ってね。」

 私は持ってきたビニール紐を一人に渡す。

「でも女子に行かせるって、男子、もっとしっかりしてほしいね。」

「まあ、私自転車持ってたから。」

 何故か男子に無駄な矛先が向きそうになる。

「それに私、今日ちょっと用事あって放課後まで長く残れないから、差し入れにジュース買ってきたよ。みんな一杯ずつくらいしかないけど飲んでね。」

「え、そうなのありがと。」

「飲む飲む。」

「やったー。」

「喉乾いてたところなんんだよ。」

 そうやって私が女子に伝えていると実行委員がまた口を開いた。

「乙坂さんに紐買ってきてもらったから足りない人取りに来い!あとそろそろペンキ塗りも始めてもらいたいでーす。あと、最後に乙坂さんから差し入れのジュース貰ったから、取り敢えず一杯ずつな!」

 もう大分段ボールと机の壁が出来つつあったある教室、視界不良でどこに誰はいるのかはっきり分からないけれど、差し入れという言葉に野太い歓声が上がった。

 うん。これで大丈夫。

「少しですがどうぞ。」

 私は少しだけ声を張って言う。

「ありがとー。」

「サンキュー。」

「流石!」

 何て叫び声が上がった。

 いや、思ったより受けが良かった失敗かも。

 まあいいや。

「私たちは絵具塗りしようよ。紐使うの手痛いし。括り付けるのは男子がしてくれるよ。」

 私はそう促して女子の皆さんにそういう。

「そうだね。」

「私、絵具で手形一杯作りたい。」

「ああそれ楽しそうかも。」

「実行委員―。」

 そんな感じに私たちは実行委員から説明を軽く受けて、絵具を塗り始める。

 水性絵具なので少しくらい零してしまっても拭けばいいから軽くはしゃぐ。

 皆、変な奇声を上げながらダンボー―ルに大量の手形を付けたり、血文字風にどこから持ってきたか分からない和歌を書きつけてりしている。

 私は黒く薄く塗った段ボールの上に大量に「たすけて、たすけて、たすけて」と赤の濃い絵具で書き続けていく。ちょっと楽しい。

「おお、夏穏ちゃんなんそれ怖い。」

「それいいね。」

「私もやる!」

「私はその上に手形付けるー。」

 そんな風に半分遊びながらどんどん壁を塗っていく。大きな刷毛を使っているし、人数も丁度いいくらいなので結構進みが速い。

 私たちが塗り終わった後に男子たちが布などの飾りを付けたり、仕掛けを付けたり、そういうこまごましたことをしてくれる。廊下ではポスターやビラを描いているらしい。なんか、私たちが一番子供みたいにはしゃいでいる気がする。普通女子がポスター描いたりするもんじゃないだろうか。

 うん。余がいなくなって解散はしなかったけれど野放図になっている。余がいたことの弊害とでも言うべきか、みんな周りに気を遣うことが下手になっている。グループ内での微妙な距離感は取れるけれど、その外を全く見ていない。

 私にあの子たちを止めることは出来ないので、一通り終わった後で私はまた口を開く。

 なんというかまた暴走させるだけかもしれないけれど、まあ、このままよりいいし。解散するより固まる方が女子的にはいい。

「ねえ、明日のお化けメイク教えて。私化粧とかしたことないし。」

 そういうとみんな反応した。

「おけおけ。」

「おお、血糊べっとりにしよう。」

「おおー。」

「私も私もやったことないから教えて!」

 そう言って近くの男子たちに自分の持っていた絵具と刷毛を渡し、私の背中を押してトイレに連れていく。

 その後はお化けのメイクをさせられ続ける人形になった。

 そういえば何でこのグループこんな活発何だろう。あ、みんな運動部とか生徒会とか入ってるアグレッシブな人のかたまりだったっけ。


「うおーい。こっちだこっち。」

 放課後、みんなにもみくちゃにされた顔をどうにか洗い流して、一人下校しいつも通り駅まで戻ってくると、おじいちゃんは駅のロータリーに軽トラを止めて待っていた。

「はいはーい。」

 私は自転車を降りて軽トラの傍まで駆け寄る。

「何だ、少し顔が赤いの熱でもあるのか?」

 そう言って私の顔はおじいちゃんの手でふんわりと包まれる。

「ひぃにゃ、ひがうひがう。」

「ん?なんだって?」

 そう言っておじいちゃんは私の頬から手を離す。

「これ、文化祭のお化け屋敷のメイクの練習してた跡だよ。血糊が上手く落ちなくて。」

「なんだ。そういう事か。」

 おじいちゃんは少しほっとして笑顔になる。

「明後日は公開だけど来る?」

「まあ、時間があったらな。」

 おじいちゃんは興味なさげにいった。うん。多分来るな。

「そ。」

「自転車乗せるぞ。そっち持ち上げろ。」

 そう言って自分はハンドルを持ち、私に自転車の荷台を持つように促す。

「はいはい。じゃあ、せいの。」

 私の掛け声で軽トラの横から自転車を持ち上げて荷台の上に滑り込ませる。本当はちゃんと持ち上げたい所なのだが、私がちびすぎて出来ない。おじいちゃんは力持ちだけど、一人では無理だし、どうしようも無いのだ。

「じゃあ、行くかの。」

 私はそのまま助手席に乗り込み、おじいちゃんは回り込んで運転席に座ってハンドルを握る。

 走り始めた軽トラはガタガタと揺れながら走る。

 私たちは何も話さない。おじいちゃんは無言で運転するし、私は無言で車窓を眺めるだけだ。

 まだまだ、残暑が続いていて、ツクツクボウシはうるさい。夏本番よりは静になったけれど、まだ五月の蠅よりはうるさいと思う。種類の移り変わりによって、夏休みの間には宿題を消費する上でのカレンダー代わりにもなるセミの鳴き声だけれど、夏休みが終われば騒音でしかない。

 私は助手席の窓を開けてそこから入ってくる微かなセミの鳴き声にすらいらだちを覚える。

 小さい頃はおばあちゃんの作ってくれた蝉取りの用長い虫取り網を持っておじいちゃんや長良と一緒に蝉取りに出かけた覚えがあるし、蝉の事を夏限定のおもちゃくらいにしか思っていなかったのだけれど、蝉取りに行かなくなってからはなんとなく蝉に対する嫌悪感を覚えるようになった。中学くらいまでは長良が毎年標本なんかを作っていたからその時の虫取りに付き合っていたけれど、高校に入ってからそういうこともしなくなったので多分蝉を嫌うようになったのはここ一年半くらいの事なのだろう。

 幼馴染上がりの恋人だから遠慮は無いけれど、ずっと子供の時の遊びばかり出来る訳も無い。だからそういう外で自然を相手にすることは無くなって最近は専らお茶だとか、ご飯だとか、映画とか、宿題とかだ。……ここに宿題が入るのってどうなんだろう。いやまあいい、進高校に居るのだから一緒に勉強するのもまあ、お付き合いの一つの手段だ。

 そんな硬い学校に居るとはいえ、そこはまあ、普通の高校生だからある程度の人は恋人がいる。とはいえ、教育はしっかりされているから殆どの人たちがプラトニックな付き合いという面白みのないことをしている人も多いみたいだ。精神的な愛って高校生同士で育めるものかどうしても疑問だけど。

「ふう。」

 まあ、他人は他人か。

「どうした。溜息なんか吐いて。」

 私の溜息に反応したおじいちゃんが横から話しかけてくる。

「ああ、なんだろ。」

 軽く濁して私は横の窓から見える山の上に立つ風車を眺める。

「何か、あったのか。」

「んー。ああ、友達がね。入院してるんだ。」

 取り敢えず当たり障りの無いことを話す。

「別に命に別条があるとかそういうんじゃないんだけど、なんか酷い怪我をしたみたいでお見舞いは断られたんだ。それで大丈夫かなって。」

 私が少し悲しそうに言うとおじいちゃんは「そうか。」とだけ言ってまた黙った。

 反応に困る話だからそんな反応しか返ってこないと思っていたからいいけれど。

 余の事。

 今日みたいなある種特別な行事の時にはあのグループは存在出来ると分かったけれど、これから普通の授業になったときにどうなるのか分からない。私じゃ余みたいにがっちりとした統制を取ることは出来ないし、癖の強いあの面子は簡単に暴走する。取り敢えずの目標はなるべく固まったまま暴走してもらうようにするか、グループが分かれる時には自然消滅していく感じを目指すことか。そうすればどちらにしろ余が戻って来た時に元に戻りやすい。

 何とか頑張ろう。

 きーくんの事と長良の事は昨日で打てるだけの手は打って置いたからあとは成り行きだ。長良もそれ程馬鹿じゃないし、きーくんは周りを見るのが上手い。だから何とかなるはずだ。

 ……でもきーくん大丈夫かな?

 きーくんは余ととても親密な中にある、らしい。二人ともほれたはれたの関係ではないみたいだけれど、二人の持って来るお弁当の具材が全く同じだったり、同じシャンプーのにおいがしたり、同じ洗濯用洗剤のにおいがしたりするし、数学の宿題の答えが二人で作り上げて来たようなものだったりする。下衆の勘繰りと言われればそうなるのかもしれないけれど、やっぱり何かあるのではと思ってしまいはするのだ。

 それにやっぱり余の入院の事も相当把握しているというか、担任に伝えているのはきーくんじゃないのかとも思う。

 そんな中、長良の生徒会長選挙まで押し付けられて、心と体の両方を壊してしまわないか少し心配だ。長良は困ったことがあると意固地になってそれを解決しようとするから無駄にきーくんをおいこんでいなければいいけれど。

「そろそろだぞ。窓閉めなさい。」

 グループホーム近くにある大学付属の病院が見えて来た。ここら辺で大きい病院と言えばここと赤十字の病院しかない。もしかしたら余もここにいるのかもしれない。

 そんなことを思いながら軽トラの窓の開閉バーをくるくると回して窓を閉める。

 おじいちゃんは齢を感じさせない滑らかな運転で大通りからわき道に入り住宅地を抜け、大学病院すぐ前のグループホームの駐車場に軽トラを止める。

「じゃあ行くかの。」

 おじいちゃんはそう言って脇に置いてあった炭酸せんべいの缶を持ち運転席から降りる。

 私も荷物を置いてそれに続き、先に歩いて行っていたおじいちゃんを追いかける。

「こんにちはー。」

 私は施設の玄関扉を開けて挨拶をする。

「はいはいー。」

 するとすぐにいつもの介護士さんの声が帰って来た。

 おじいちゃんと私はいつも通りに靴をスリッパに履き替えて中に這入っていく。

 するとこちらまで迎えに来てくれていた介護士さんがすぐに顔を出す。

「ああ、乙坂さん所の。」

「ええ、こんにちは。いつもお世話になっております。」

 おじいちゃんはそう挨拶をして頭を下げるので、私も並んで軽く会釈する。

「いえいえ、今日は丁度起きてらっしゃいますよ。こちらにどうぞ。」

 おばあちゃんは最近長い時間起きているのが難しいらしく、私たちがここを訪問しても二回に一回くらいは寝ていて、寝顔を眺めながら施設の人に最近の様子を聞くことしか出来ない。起こしても起きないから仕方ないのだ。

 私たちは少し案内されて大きなテレビのある部屋に付いた。起きている時はここにいることが多いみたいでもう見知った部屋だ。そこに十人弱くらいのお年寄りが座っていて見ているのか見ていないのかわからない上、見ていたとしても理解は出来ていないであろうニュース番組が流されているテレビに注目している。テレビが点いていれば見てしまうというのはもうみんなの体に刷り込まれているのかもしれない。そんな風にこの光景からは感じ取れる。

「乙坂さん。旦那さんとお孫さんがいらっしゃいましたよ。」

 おばあちゃんの近くに行くと介護士さんがそう言ってくれた。

「ええう、ああああお。」

 みんなが座っているソファーの一番端に座っているおばあちゃんは介護士さんにそう答えた。

 もう言葉を上手く発することが出来なくなったおばあちゃんは唸るような喋っているようなそんな不思議な声を出す。

「おばあちゃん。久しぶり。元気してた。」

 私はおばあちゃんの目の前にしゃがんでそう言う。

「うおあああん。ぬあああん。」

 おばあちゃんは少し首を振ってそう答えてくれる。

「来てくれてありがとう。だって。」

 おばあちゃんの横に立つ介護士さんはそうやって気を遣い、それっぽい言葉に訳してくれるけれど、多分違う。言っているのは「あんたは、だれだ。」だ。おばあちゃんの中から私が消えてから、この施設に入るまでの間、再三繰り返された問いだからよく分かる。

「おばあちゃん。孫の夏穏だよ。ほら、こっちはおじいちゃん。」

 一応自己紹介をして、斜め後ろに立つおじいちゃんの紹介もしてみた。

「あああ、ああん。ああんんああ。」

「そうかそうか。ようきてくれたなあ。かな?」

 うん、たぶん、そんな、人、知らんわ、だな。

 介護士さんの優しい通訳を聞いても、なんとなくおばあちゃんの言葉をネガティブに捉えてしまう。……不健全だな。

「おじいちゃん。おせんべい頂戴。」

「ああ。」

 私はおじいちゃんから炭酸せんべいの缶を受け取って中から一枚とって小さく割り、おばあちゃんの手に置く。するとおばあちゃんは目にも止まらぬ速さでそれを口に入れる。

 歯はまだまだ現役なおばあちゃんはカリカリとせんべいをポロポロと周りにこぼしながら食べる。介護士さんはすぐに前掛けを付けてくれる。

「うええぬ、ええええ。」

「美味い美味いって。」

 これは、もっともっとだな。

 私は缶をおじいちゃんに返し、さっきの残りをおばあちゃんに渡す。

 するとおばあちゃんはまた恐ろしい速さで食べ始める。

 食べている時のおばあちゃんは獣そのもので、眉間にしわを寄せて周りにとられないように小さくなって食べる。

 家で介護している時から、すぐに食べてしまって人の分まで取ろうとするし、渡さなかったら渡さなかったで、暴れ出すので大変だった。

 でも、こうして貪り喰う時はボーっとした目では無くてどこか光の灯った生きていることを感じさせてくれる目になるので、いつもお菓子をすこしだけ渡すのだ。

 炭酸せんべいを一枚食べ切ったおばあちゃんはもっと欲しそうにするが、私が両手を挙げて何もないと伝えると、少しの間見回して探していたが、少ししたら忘れて眠くなったようで目を細めだした。

「乙坂さん。眠いね。お布団行きましょうか。」

 そう言って介護士さんがおばあちゃんを一度立てさせて車椅子に座らせる。

 おばあちゃんはされるがままだ。

「じゃ、おばあちゃん。帰るね。また来るから。お休み。」

 私はそう言い立ち上がる。

「また来る。」

 するとおじいちゃんは初めておばあちゃんの前で言葉を発し、少し手を伸ばして頭を撫でる。

 おねむのおばあちゃんはよくわかっていないようだけれど、払われなかったのでおじいちゃんは嬉しそうだ。

「では、少し寝かしてきますのでお待ちください。」

 そう言って介護士さんは私たちにそう言って車椅子を押し、おばあちゃんを奥に連れていった。

 私たちは少し離れた所にある面談用の椅子に腰かけて待つ。担当の介護士さんはさっきおばあちゃんを奥に連れていった人だから詳しく話を聞くのは待つしかない。まあ、ほんの一週間前も来たところなのでそんなに変りないだろうけれど。

「お待たせしてすいません。」

「いえいえ。度々すいません。」

 戻って来た介護士さんにおじいちゃんはそう答える。

「いえいえ、ここに入った後、家族の方が全く来られない方もいますから来た頂くのはありがたいです。」

「いえいえ。ああ、これ、さっきの残りなんですが。皆さんで頂いてください。」

 おじいちゃんとこの介護士さんが話すと「いえいえ」が何度か繰り返されて面白い。

「ああ、ありがとうございます。夕食後のおやつにします。」

「そうですか。うちのは特に変わりないですか?」

 おばあちゃんの様子を尋ねたおじいちゃんは真っ直ぐ介護士さんの方を向く。

「ええ、この前、手に触れられるのを嫌がるようになったとお伝えしましたが、やっぱり機能は問題ないようでご飯の時には普通に動かしておいでですから、何か嫌がっているだけなんだと思います。」

「そうですか。安心しました。ありがとうございます。」

 それから少し事務的な話をして施設を後にする。

「また来ますので、よろしくお願いします。」

「はい、お待ちしております。」

 そう玄関で挨拶をして駐車場に出ると向かいの大学附属病院に入っていく見慣れた影を見つける。

 きーくんだ。

「おじいちゃん。先、帰ってて、ちょっと用事が出来た。」

 そう言って駐車場から飛び出して前の道を横切りきーくんを追いかける。

 おじいちゃんが何か言っていたけれど無視した。

 こっちのが大切だからだ。

 きーくんが這入って行ったという事は余はここに入院しているに違いない。

 私はきーくんの後を追って時間外窓口から病院に入り込む。

 もう、外来の時間は終わっているので院内は閑散としている。一部電気も消しているあるのでなんか本当に忍び込んでるよう。

 経路に沿って通路を進めばエレベーターホールに着く。

 六台あるうちの一台だけ動いている。表示を見ていると六階で止まり矢印が下を向く。

 六階か。

 私は登りのボタンを押すとすぐに前の扉が開く。私は乗り込んで『六』のボタンと『閉める』のボタンとを押す。何度押しても早さは変わらないのに何度も押し続ける。そんなことをしているうちにエレベータは動き出し、ゆっくり上の階に進んでいく。

 エレベータは途中で止まる事も無く真っ直ぐ六階に着くとドアをゆっくり開く。

 それと同時に消毒液のような病院でしか嗅ぐことの無い、もわんとした刺激臭が鼻孔をくすぐる。私はあまり好きではない臭いなので顔をしかめながらエレベータを下りる。

 エレベーターホールの横は小さな談話室になっていて、左右に分かれて病室がある。

 淡いピンクの壁と白い床に「病院だなー」と思う。左右のどちらも割合すっきりとしていて、ちらほらと入院患者や看護師がウロチョロしているのが見える。

 んー、どっちだろ。

 しらみつぶしに病室を見て行ったら流石に怪しまれるな。

 きーくん待つか。

 私は誰も居ない談話室のソファーにどすっと腰を下ろして足を伸ばし、背もたれにもたれかかって天井を見る。

 あー、私、何してるんだろう。

 これ、きーくん怒るかな?

 まあた、やっちゃった。

 自分の突飛な行動を反省しながらなんとなく人影を感じて左を見るときーくんが戻ってきていた。手には少し大きな紙袋を持っている。

 早いな。まだ入って五分も経っていないだろうに。

 きーくんは前を向いて真っ直ぐ歩いているけれど私には気が付いてないようだ。

 私は手を挙げて横に振る。

 声を上げて呼びたいところだけれど病院なので自粛した。しかし、きーくんはすぐに気が付き一瞬驚いた顔になった後、諦めの表情になった。

 そうしてきーくんは歩調をそのままに私の方に歩いてくる。

「やあ。」

 わたしがそんな陽気な挨拶をしても溜息を吐きたそうな表情で返事はしてくれない。こんな諦観にまみれた高校生は居ないだろうというような雰囲気だ。

「……夏穏さん。後、つけて来たの?」

 きーくんはソファーにふんぞり返る私の正面にまでやってきて厳しい口調で詰問する。

「いや、ほら、横のグループホームにおばあちゃんがいるから、たまたま今日会いに来てて、そしたら見かけたから。」

 私は姿勢を正すわけも無くソファーに身を任せた体勢で問いに答え、きーくんの諦めと訝し気に満ちた視線を躱す。

 きーくんは黙ったまま、少し私の真意を確かめるような視線を向けたけれど、すぐに「はぁ」

 と小さな溜息を落として私の横に座る。足元に置いた紙袋には女物のパジャマが入っているのが見える。余の洗濯、きーくんがしているのだろうか。

「ねえ、きーくん。余、実際どうなの?」

 私は静かにきーくんに尋ねる。

「まあ、傷の方は順調かな。角膜の傷もそれ程後遺症は残らないって。」

 きーくんも静かに淡々と答える。その淡白な答え方は逆に何か問題を感じさせる。

「じゃあやっぱり、何か問題でもあるの?」

 私の質問にきーくんは一度頷く。

「まあ、メンタルがね。心配かな。あったことがあったことだし。」

「そ。だから、面会謝絶?」

「まあ。」

 きーくんはそうまた短く答えて黙る。

 親に切りつけられたらしいこと、それから日々行われていた可能性のある虐待のこと。

 そして親の死。

 私はそんなことを思い出す。

「ねえ、それ、きーくん。余の洗濯物?私行ってこようか?」

 突然、こんなところまで追いかけて来た事に対する贖罪の気持ちにそんなことを私は言う。

「え、ああ、別にいいよ。いつもの事だし。」

 きーくんはなんて事の無いようにそう言う。

 高校生男子なのだから、女子の洗濯物に対して配慮とか遠慮とかないのだろうか。「いつものこと」って何だか私がおじいちゃんの洗濯物に対する扱いそのままだ。

「いや、でも、きーくんとはいえ男の子に自分の物現れるのって余は嫌でしょ。」

「そうかなあ。普段から洗濯一緒だし、なんとも思わないと思うけど。」

 そう爆弾発言を落としながら、きーくんは私の顔を不思議そうに見る。

「え、今、なんて?」

 私はあまりの事に耳を疑う。

 洗濯一緒?

「え、だから、入院する前、普通に僕のと一緒に洗濯してたんだって。」

 私の耳は確かな機能を維持していた事が証明された。

「は?何で。」

「だって、二人一緒のがエコだし、節約になるし。」

「……」

 エコって。というか一緒に暮らしてるみたいな言い方だな。

 ん?待てよ。そういえば余、時々家に帰らない事があったとか聞いたな。

 もしかして……

「ねえ、もしかしてきーくん。余と一緒に暮らしてた?」

「え、知ってるんじゃなかったの!」

 普段からそれ程声に起伏がないきーくんが声を荒げる。

「私が知ってたのは、余と余のお母さんの事で。……まさか同棲してるとは。」

 きーくんと余の間に漂う雰囲気を色恋ではないと思っていたけれど、まさかそんな、高校生にはあるまじきディープな関係だったとは……。

「え、いや、同棲では無くて半同棲というか、あー、忘れて。」

「いやいやいやいや。無理でしょ。っちょっと待って。ちょっと待って、訳分かん無くなってきた。整理させて。」

 私はきーくんと余の事が予想外の関係過ぎてついていけなくなる。

「余はお母さんから虐待を受けていた?」

「ああ、うん。」

「きーくんの家で半同棲していた。」

「そう。」

 私は一個一個きーくんに確認を取っていく。

 きーくんはもう吹っ切れたようで素直に答える。

「半同棲っていうけど、時々泊まりに来ていたとかではない。」

「まあ。時々ではないかな?」

「はあ、それはきーくんのご家族は何にも言わないの?」

「というか。親が半分保護するためみたいな感じが始まりだったかと思うよ。」

 きーくんは何か憑き物が落ちたように気が抜けて饒舌になる。

 隠し事を隠さなくてよくなったことで楽になったみたいな雰囲気だ。

「ああ、じゃあ、同棲って言っても親御さんも含めて家族みたいにってことか。」

 私なに着地点を探してそう納得したように言う。

「いや、うち、親そんなに居ないから殆ど二人だった。」

「は?」

 私の見つけた着地点は幻だったようで、一瞬でその影は掻き消された。

「家広いし、いいかなって。」

「はあ、まあ、そう。」

 自分の常識がガラガラと崩れていく音が聞こえる。

「てことはきーくんと余ってやっぱりそういう関係?」

 そういう関係とはまあ、ああいう関係だ。

「ん?ああ、いや、全く。多分違う。」

 きーくんは少し思案顔になってそのまま頷く。

 なんとなく気になる表現だったけれど私はもう尋ねないことにする。これ以上蛇を出したくない。

「ああ、そう。じゃあ、なんというか。余の事頼むよ。なんか私があんまり入り込めない所みたいだし。」

「ああ、うん。なんか色々言ったけど、秘密でお願い。いろいろ面倒だし。」

 私ときーくんは二人して自然にソファーから立ち上がる。

 二人ともそわそわしている。

「もちろん。それは必ず守る。長良にも言わない。」

「ありがとう。なんというか話したら逆に楽になった。いろいろ思う所あるかもしれないけれど余とは友達でいてくれると嬉しい。僕が言う事じゃないかもだけど余、仲のいい人少ないから。」

 きーくんはいい笑顔で私にそう言う。

「なんか、ごめんね。色々調べるような真似して。私に出来ることがあったらまた言って。きーくんは余と長いかもしれないけれど女子同士のがいい時もあるから。」

「ああ、うん。余に聞いてみるよ。」

 きーくんはそう言って頷く。

「あと最後にダメ元で聞くけど、やっぱり余に会っちゃダメ?」

「今日の所は。かな?」

「そ。」

 私は思いの外いい返事が聞こえた事に満足して真っ直ぐ正面のエレベーターホールに歩き始める。

 下の階行のボタンを押して振り返る。

「じゃあ、また明日。余の事に長良の事に大変だけどきーくんつぶれないでね。」

「ああ、うん。まあ、また話聞いてよ。ありがとう心配してくれて。」

「私でよければ。」

 何だか分からないうちにこっちがお礼を言われる立場になってしまっているうちに、丁度私のすぐ前のエレベータが開く。

「じゃあ。」

「うん。また明日。」

 私はそのままエレベータに乗り込み、きーくんは真っ直ぐ歩いて洗濯へ向かう。

 なんというか。うん。

 よく分からない感じになってしまったけれど結果はよかったのだろう。


 四


 溺れる者は藁をもつかむというけれど、溺れている人が藁を認識できるとは到底思えない。


 ……ねむたいなぁ。

 私は今、学校の近くにある文化ホールの大ホールの一階席後方の席に座って校長の挨拶を聴いている。

 今日は文化祭非公開で、今はその開会式。

 完全に失念していたけれど、非公開は文化部と有志の発表会だった。昨日、吹奏楽と筝曲と軽音の手伝いの依頼がSNSのメッセージに送られてきた時点で気が付いた。

 何だか冴えない生徒会長の挨拶の後、間延びした校長の話を聞かされていて非常に眠い。

 元々、余が手伝いの約束をしていたらしく、それがそのまま私に流れて来たという訳だ。

 ……まあ、昨日の事をきーくんは余に言ってくれたらしく、それで余から頼まれたという事だから完全に自業自得としか言えないけれど。余からきーくん越しにとはいえ言葉があったという事だけいいと思おう。

 校長の挨拶はなんとなくみんなの気分がシラケて来たと司会が口をはさんで止めた。

 私は受けていた説明通りに席を立って二重扉を出て通路奥の楽屋口から舞台袖を通って楽屋に向かう。

 えっと午前中は反響板を使う部活とグループのはずだから、吹奏楽とお筝か。

 すでに緞帳の下りた舞台上では吹奏楽部が準備を始めている。その緞帳の前では視界が軽く漫才とかしている。まあまあ、笑い声が聞こえるから面白いらしい。

 なんというか舞台の裏って舞台上の音、聞こえないんだな。

 私の仕事は舞台上手に放置された小道具の片づけらしい。

 ご丁寧に何時、何を、どの辺りに放置されるのかを書いた表を見ながら反響板の向こうで緞帳の上がる音と拍手を聴く。

 うん。初めは真面目な曲だから暇か。

 私は一番端のなんとなく舞台が見える反響板の穴から顔を出してコンクール曲らしい正直よく分からない演奏を聴く。

 うん。私が聞くのって中島みゆきとイエモンくらいだから高尚な音楽は分からん。

 そんな感じに暇だなーと足音を立てないように気を付けつつ舞台袖の壁にもたれる。

 しっかし舞台って広いな。

 客席から見ていると何だか平面を見ているようでそれ程奥行きを感じることは無いけれど、奥行きと天井がすごい。

 そんな初めて入った舞台の内側というものに関心を示して色々見ていると一曲目が終わり、部長が挨拶を始める。

 すると、何人かの部員が移動を始めて、舞台の袖に入って来た。そこで軽く着替えを始めたり、小道具の準備を始めている。

 私は生徒会長や校長よりも断然分かりやすくて面白い吹奏楽部部長の声に耳を傾けながら指定されていた服を回収してまとめて持って行く用の大きなゴミ袋に詰める。

 準備の終わった部員がスタンバイすると部長は次の曲目を告げて自分の定位置に戻る。

 それからアニソンメドレー、懐メロメドレーと進み最後は軽い寸劇を挟みながらの演奏が残るだけとなった。

 私の持つ袋には数人分の衣装、人形、仮面とメドレーの時に使われた小道具が入れられている。

「あれ、乙坂さん。こんな所でどうしたんですか?」

 暗闇から突然現れた人影に私は悲鳴を上げそうになるけれど、何とか抑え込む。

 吹奏楽部顧問の国語教師だ。名を八太嗣之介という。齢はまだ初老をむかえたばかりだと思う。私も現代文を持ってもらっている人だ。

「ああ、お手伝いです。本当は生原が来るはずだったんですけど。」

「ああ、それはありがとうございます。本当は自分達でやりたいんですがなんせ人数が少なくて。」

 私と顧問は静かに話す。

「いえいえ、これくらい。舞台の裏ってこんなんなんですね。面白いです。先生はどうしたんですか?」

「ああ、僕ですか。この後の劇に出るんですよ。」

 そう言ってにっこり笑って答える。

「今年は先生も出るんですか。それは楽しみです。」

「ええ、袖から見ていてください。」

「はい。」

 私は舞台の袖の舞台上が見える所に場所を移し、始まった劇を見始める。

 どうやら浦島太郎らしい。

 調子のいい亀がひたすら浦島太郎をからかうという漫才みたいな劇だ。間の取り方が上手くてクスクスと笑える。

「はっはっは。」

 横で顧問も笑っている。

「先生内容知ってるんじゃないんですか?」

「いや、全然。自分の出るとこだけ。」

「ああ、そう言うことですか。」

 私と顧問は半分笑いながら話す。

 亀が竜宮城までの道に迷った所為でこの劇の浦島太郎は城では無く無人島に漂流してしまい亀と二人暮らしを始めた。

「あっそろそろだ。」

 顧問はそう言って軽く体操を始める。

 亀は浦島太郎に「お前漁師なんだから魚でも取りに行け」と上から目線で言うと浦島太郎は渋々といった感じに持っていた釣竿から垂らした紐をこちらの舞台上手側の袖に投げる。すると顧問はその箸を摑み浦島太郎と引き合いをする。

 そして、亀がお約束のように「皆さん力を貸してください。掛け声行きますよ。」

 さん。

 にい。

 いち。

 劇のおかげでノリの良くなった開場はみんな揃って声を上げる。

 ゼロ。

 その掛け声に合わせて横にいた顧問は舞台にヘッドスライディングを決めて、浦島太郎の足元で魚が跳ねるように体をしならせてビクビクとする。

 浦島太郎が「幻の珍魚ツグノスケ=ハッタだ!」と叫んで緞帳は降りていく。 開場は一番の大爆笑に包まれている。

 ……強烈だ。

 舞台にヘッドスライディングを決めて横たわったまま跳ねる中年男性。

 登場から緞帳が完全に閉まるまでの約一分間ずっと跳ねていた顧問は片付けが始まると息を切らしてこちら側に捌けて来た。

「お疲れ様です。」

「うん。疲れた。面白かった?」

「度肝を抜かれました。」

「そう、それはよかった。」

 やっぱり初老過ぎの男性にはきつかったようで少しふらふらしながら楽屋口の方へ消えていった。

 私も集めたものを入れたゴミ袋を持って吹奏楽部の楽屋に置きに行く。まだ誰も居ない楽屋の隅に置いておく。

 次はお筝か。

 私は舞台から聞こえる片付けの音を聴きながら、楽屋のある長い通路を歩いて反対側の畳敷きの楽屋に向かう。

「こんにちは。」

 筝曲部からはまだ何をするのか伝えられていない。私はドアの開いていた楽屋から顔をのぞかせる。すると、普段見かけない大人と数人の部員がいた。

「あ、乙坂さんありがとう。まだ出番次の次だから説明聞いて貰えるかな?」

「うんうん。分かった。」

 私は手伝いの依頼をしてきた部長の言葉に従って、誰から説明を受けたものかと周囲の大人を見渡す。黒い服を着た男性二人と綺麗な服をきた女性が一人だ。

「じゃあ、僕が説明しますね。」

 黒い男性の一人がそう口を開いた。

「お願いします。何分素人なもので役に立てるかどうなのか分かりませんが。」

「大丈夫です。荷物を持ってもらうだけですから。」

 黒服の男性は淡々と話す。舞台の係の人かな?

 そんな事を思いながら話を聞く。

 楽屋の中では綺麗な服の女性が指示を出して最後の練習が始まった。

「えっとまず、私はお筝屋です。乙坂さんでしたね。」

「ああ、はい。よろしくお願いします。」

 お筝屋さんが舞台の手伝いまでするのか。

「えっとですね。プログラムが次に移ったら舞台下手に荷物を運びますが、お筝は部員と私たちで運びますのでこの椅子と立奏台、譜面台を運ぶ手伝いをお願いします。」

 そう言って近くに積んである椅子と黒色の木が組んであってお筝を乗せられるような台、それから譜面台を順番に指さす。

「分かりました。気を付けることはありますか?」

「他の舞台の最中なのでなるべく静かにして貰いたいのと、後はそのうちに顧問の先生がみえると思うので打ち合わせをお願いします。」

「了解です。」

 私はそのまま狭い楽屋から外に出て、廊下に並んでいる荷物を眺めながら筝曲部の顧問が来るのを待つ。

 多分今ごろ書道部が書道パフォーマンスをしているはずだ。

 BGMを流しながら、どこからか引用してきた言葉を大きな紙に書くパフォーマンスだがこれが結構面白い。まあ、楽屋から聞こえる筝の最終リハのおかげで何も聞こえないし、第一、文字を楽しむ表現なのだから何も見えないここからではどうしようも無いのだけれど。

 そんな感じにボーっと廊下の白い壁を見ているとふらふらと担任教師がやって来た。

「あれ、どうしたんだ。乙坂。」

「筝曲部の手伝いです。先生こそどうしたんですか?」

「ああ、俺がその顧問だよ。手伝いありがとうな。」

 初めて知った。

 柄にもないこんな部活の顧問をしていたとは。

「先生、何運びます?私、譜面台と椅子がいいです。」

 私は大きい立奏台を避けて先生に要求を突きつける。

「ああ、いいけど結構重いぞ。椅子も譜面台も。」

「いいです。力はあるけど体は小さいので。」

「ああ、はいはい。」

 担任はそう言って楽屋の中を覗く。

「もうすぐ書道部が終わるので、そろそろ準備お願いします。」

 部員はまだ曲が終わり切っていないから弾き続けているけれど、黒ずくめの二人はてきぱきと準備を始める。

「先生、乙坂さん。荷物運び始めて下さい。舞台下手袖の邪魔にならない所に運び始めて下さい。」

 そう言いつつ空いているお筝から運び始める。

「じゃあ、運びましょうか。」

「ああ。」

 私は積んである丸椅子を五個持ち、担任は立奏台を二つ抱えてお筝屋さんの後をぞろぞろとついていく。

 途中、パフォーマンスを終えた書道部と鉢合わせになってお互い小っちゃくなって通ったり、壁にぶつかって大きな音が出そうになったりしたけれど基本問題なくピストン輸送で荷物を運ぶ。

 今は音大を目指している生徒がピアノを演奏している。どこかで聞いたことのある曲だけど名前は知らない。というかこれが上手いのかどうなのかも分からない。

 お筝も運び終わったようで部員一人一人がお筝を立てて持っている。

「そういや先生、何で筝曲部の顧問なんてしてるんですか?」

 私は積んである椅子に片手を預けて楽な姿勢になって話しかける。

 先生はいつも通り黒のスーツのポケットに両手を突っ込んだまま立っている。

「ん?ああ、余ってたから。殆ど自分達でやってるし、舞台もお筝屋さんに頼みっきりで素人の這入る隙なんて無いからって押し付けられてな。」

 そうめんどくさそうに言う。

「それはお疲れさまです。」

「まあ、仕事だから。」

 先生は仕方なさそうに答える。

 興味の無いピアノの演奏をよそに先生と軽く談笑をしていると舞台裏で働いている人たちが俄かに動き始める。

「もうそろそろです。舞台の中の準備は私たちで行いますので、先生と乙坂さんはまず立奏台を舞台の中に運んで下さい。それ以外は立奏台の後にお願いします。あ、後、運び入れるのはピアノが袖に捌けてからでお願いします。」

 お筝屋さんは私と先生に支持を出しながら自分は器用に立奏台を組み合わせて四つ持ち上げる。担任と私は残りの立奏台を二つずつ持ち、ピアノが終わるのを待つ。

 持ち上げてみた立奏台はそれ程重くはないけれど私の身長より大分長いのでバランスがとりずらい。どうにか楽に持てないかと工夫しているとジャーンとピアノが弾き終わり、客席から拍手が聞こえてくる。その後舞台を蹴るカツカツという音がして演奏者が舞台の袖に現れた。

 フリフリのドレスだ。

 そのフリフリドレスは一緒に退場してきた譜めくりと抱き合って喜んでいる。

 うんうん。成功したということか。それはよかった私には分からないけれど。

 そんな人間観察をしていると緞帳が降り、反響板の一番大きな扉が係の人の手で開かれて数名の男性が入って、グランドピアノを運び始める。思ってよりピアノはスムースにかつ静かに動いて袖の方に下げられてくる。なんとなく「こういうの面白いなー」なんて思いながら自分もすぐに動けるように心構えだけはしておく。

「先生、先に行ってくださいね。私、もたもたするかもしれないですから。」

「はいはい。」

 私と担任はそうコミュニケーションを取って場所どりを変える。

「じゃあ、行きます。」

 お筝屋さんのそんな宣言に従って先生と私は舞台の中に入ってすぐの邪魔にならない所に立奏台を置く。部員たちが次々と入ってくるのですぐに袖に捌けることは出来なかったけれど、なるべく早く袖に戻って椅子や譜面台を運び込む。

 舞台の中心辺りを見ると火の用心の張り紙の下、二年生の舞台二年目の生徒とお筝屋さんがてきぱきと動いて準備をしていく。残りの一年生はおろおろとしているけれど、それでもすごい勢いで準備が終わっていく姿は収まるべきところに収まっていくようで、見ていて気持ちいい。普段、客席で暇したり、おしゃべりしたりしている間に舞台の上はこんなに忙しいのかと思うとすごく面白い。最後に部員が全員座り、前からお筝屋さんがバランスを見て「よし」と頷くと、部員のみんな真剣な顔になって、部員以外の人は袖に捌け荷物の搬入に使ったドアを閉める。

 すると緞帳が上がり始め、上がり切るとパッと照明が点く。それと同時に部員たちは静かに頭を下げ、その後部長の合図で弾き始める。

 一曲目は去年も聞いたお筝っぽい曲だ。新年、テレビから流れてくることもある気がする。

「おお、上手くなったな。」

 担任は素人と言っていた癖にそんな評価を下す。

「先生、素人って言ってませんでした?」

「ああ、でも毎年聞いてる曲だし、それに一般常識レベルの曲だからな、六段の調は。」

 一般常識なのか。

「そんなもんですか。なんとなく聞いた覚えのある曲ですけど名前は知りませんでした。」

「まあ、六段の調くらい覚えておいてもいいと思うぞ。」

 私は何故か得意気な担任を放置して曲に耳を傾ける。

 同じようなメロディーの連続だけれど単調ではない。

 客席に座って聞いていたら確実に寝ていた曲だと思うけれど、聞いてみたら結構面白い。長い曲で、始めゆっくりだから丁度寝付きやすいのだけれど、進むと結構激しい曲だった。

 六段の調が終わると会場は一度拍手に包まれ、マイクを司会から渡された部長が話始める。

 部員が次の曲の準備をする中、一人スポットを当てられている部長は何だか安堵した風なテンションで六段の調の軽い説明と次の曲の話を始める。

 六段の調の作者ってあの八ッ橋の由来らしい、去年も聞いたはずだけれど夢うつつだったから初耳みたいなもんだ。

 次は普通に千本桜を弾くらしい。

 まさか、筝曲部がこんなポップな曲を弾くとは思わなかったのでびっくりする。ポップというかボカロか。

「先生、お筝で今の曲って弾けるんですね。」

「ああ、というか毎年皆にも分かる曲引いてるぞ。六段の間にみんな寝てしまうから知らないけれど。」

 担任は訝しそうな目で私を見る。

「あー、そうですか。すみません。」

「まあ、半分くらいはそんな感じだがな。伝統だって続けるより、聞いて貰えるようにプログラムを変えた方がいいのかもしれないな。」

 私の謝罪に対して軽く流しながら髭も無いのに顎を擦る。

「いやいややらされてる割にちゃんと考えてるんですね。」

「まあ、仕事だからな。素人だからあんまり口出し出来ないけどな。」

 先生は少しつまらなそうだ。

 うん。まあいいや。

 千本桜。上手いな。というか楽しそうだ。

 六段の調を弾いている時はかなり必死に見えたけれど、みんな楽しそうに弾いている。

「あ、これが終わって、緞帳が降りたらまた、椅子と譜面と立奏台運び出してください。次は昼休みですぐに反響板の解体になるので、まあまあ、急いでください。」

 お筝屋さんがふと横からそう言ってくる。

「ああ、了解です。」

 私は簡単に答える。

 生き生きと弾いている曲に興味が惹かれたからかもしれない。必死さの伝わる曲から楽しさの伝わる曲になって俄然面白くなったのだ。まあ、なんとなく知っている曲だからっていうのもあるかも知らないけれど。

 そう私が軽く魅入っていると音楽は佳境に入って、初めから続く勢いのまま終わった。

 拍手が起こり、部員たちにやり切ったという表情が見えた後、部員全員が腿の上に手を揃えて頭を下げる。その後、照明が消え、緞帳が降りる。

 降りきった後、会場に昼休憩のアナウンスが入り、私たちは片づけを始める。晴れやかな顔付きになって、いそいそと自分の筝を運び出していく。

 全員が加わる片付けというものは速いもので、すごい勢いで全ての荷物を一度楽屋に運び込み。その後、部員たちは運べるように色んなものを畳んだり、詰めたり、くるんだりしていく。

 私と先生は邪魔にならないように楽屋前の廊下で小っちゃくなってるだけだ。

「先生、これもいつもこんな感じ何ですか?」

「ああ、早くしないと昼休みの間にご飯食べられないからな。次、軽音だろ。」

「確かに、みんな見たいですもんね。」

 梱包が終わった荷物をピストン輸送で楽屋から楽屋口に運んでいる部員とお筝屋さんを見ながら担任とそんな会話をする。

「乙坂さん、ありがとう。もう、後は私たちで出来るから。ホントありがと。助かった。」

 部長はお筝を縦に抱えて私の所に少し寄ってきてそう言い、すぐに立ち去った。

「じゃあ、先生、私もご飯食べに行ってきます。」

「おう。お疲れさん。」

「はい。」

 私は弁当の置いてある自分の座席を目指して歩き出す。

 確かに昼休憩が終わった後は軽音らしく、奇抜な衣装を着た生徒が何人か楽屋の方に入って来た。そういや、軽音もなんか手伝ってくれって言っててな。

「おい、そうだ。乙坂。」

 わたしがポケットからスマホを出して確かめようとしたところに担任は後ろから声を掛けてくる。

「なんですか?」

 私はSNSを開きながら回れ右して来た方を向く。

「なんか、紲の奴と鍬柄の奴がいないんだよ。まあ、大丈夫だとは思うんだけど、一応、気に留めておいてくれ。」

「ああ、あの二人ですか。なんかやってんじゃないですか?」

「分からん。何かしらないか?」

 うん。確実に生徒会長選挙の準備をしているな。

 どこでしてるのか。

「さあ、知りません。一応探しておきますね。」

 私はとぼけてきびすをかえす。

「おう、頼んだ。」

 私はそんな先生の言葉を流しつつ、メッセージを確認する。

『演奏が始まる前にペンライト配りを手伝って!昼ご飯を食べてすぐ楽屋へ来てね‼』

 妙にエクスクラメーションマークを多用した文だが、すぐ行った方がいいらしい。

 私は反響板の解体作業を横目で見て、こんな大掛かりなことを短時間でしているのかと軽く驚いたり、誰も居ない客席の広さに寂しさを感じたりしながらホールの外に出て前の広場に昼食を摂りに行く。

 ほぼ全校生徒がそこでご飯を食べているのでいつものグループも他の知り合いもどこに居るのか全く分からない。

 早く食べてしまいたいので近くの日陰に座っておじいちゃんの作ってくれたお弁当を食べ始める。おにぎりが二個と牛時雨とたくわんが添え物としてある。

 文化祭を遠足かなんかと間違えてる気がする。

 少しそんなことを思ったが、おじいちゃんの作った辛いたくわん漬けと味の濃い牛時雨煮はおにぎりとの相性抜群で美味しかった。


 私は食事をさっとすましてまた来た道を戻り、楽屋に向かう。

 まだ教員さえも戻っていないロビーを通って一度客席に弁当箱を置いて楽屋へ向かう。

 舞台上にさっきまであった反響板はもう完全に取り去られていて軽音楽部の使うドラムやキーボード、それからアンプやマイクなどの設置が始まっている。

 客席に座っているだけだったら反響板の事なんて全く気にも留めなかった事だ。

 自分は今、いい経験をしていると思う。

 私は行ったり来たりして忙しそうな軽音部の邪魔にならないよう、楽屋のドアからひょこんと顔を出す。

「あのーすみません。お手伝いに来たんですが。」

 すると目を疑う光景が目に入る。

「げ。」

「うわ。」

「あ、夏穏ちゃん!ありがとありがと!ちょっとこっち来て‼」

 私を手伝いに呼んだ女の子より先に反応を示したのはさっき担任から探すように言われた二人だ。……こんなところにいたのか。

「はいはい。ペンライト配りって聞いてるけど。」

 取り敢えず、驚いて固まっている長良ときーくんを放置して、余経由で知り合った軽音部の女の子と受け答えを始める。

「うんうん!でも一応衣装用意しといたからこれに着替えて!」

 そう、話し方にもエクスクラメーションマークが飛び交っているような感じのテンションで長く黒い髪を揺らしながら私に衣装を渡す。

「まあ、いいけどどこで着替えたら?」

「ちょっと待ってね!カーテン引くから!」

 やっぱりテンション高いなあ。

 何て私が思っているとカーテンが引かれて一メートル四方くらいの空間が出来る。

 うん。仕方ないか。

 私は普段、着ることも無いような厳く派手な服を広げてみる。

 あ、これ、高いやつだ。ヴィヴィアンウエストウッドだ。本格的だな。

 私は制服からそこまでヴィヴィアンを主張するものかと思う程にロゴを基調としたティーシャツとベルトとホットパンツに着替える。

 うんむ。似合っているんだろうか。

 私はそう疑問に思いながらカーテンを開ける。

「おお、似合ってる似合ってる!」

「そう?」

「うんうん!じゃあ、こっちに来て、メイクもするから!」

 珍しいものを見るようなというか、珍しいものをみる目の長良の事はやっぱり無視して言われた通り化粧台の前に座る。

「あの、あなたは準備とかいいの?」

 私は顔に何か塗られたりしながらなんとなく話を始める。

「私?私はいいの!最後のバンドでボーカルするだけだから特に何もないんだ。」

 そんなものなのか。

「そうなんだ。」

「うんうん!聴きに来てね!私、自信あるんだ!」

 テンションは高いけれどなんて事の無いように言う。

 去年の感じで行けば演奏はまあまあでもボーカルの声量が無さ過ぎて曲が聞こえないというバンドばかりだったイメージだったけれど。

「分かった。最後だね。」

「うん!あ、ルージュ私のだけどいい?」

「え、ああうん。私は気にしない。」

「そう、じゃあこっちむいて!」

 私は鏡から女の子の方に姿勢向けると女の子は私の目元に化粧を始める。

 流石に喋る気にはなれないので黙ってされるがままになる。

 昨日から化粧ばっかりされてるな。明日もすることになるのか。

 最後に小さな筆で唇に紅を引いて貰う。

「おお、良い良い!」

 何だかそんな感じに頷いて私に鏡に見せる。

「おお、すごい。髪はどうしたらいいの?」

「ああ、それもやるね。」

 女の子はそう言って私の結んであった髪を解き、色々塗って髪を立てていく。

 自分が何だか知らない人になっていくのをなんとなく驚きながら鏡を眺める。

「はい、これで最後にこう帽子を被って……よし、オッケー!」

 おお、いっぱしのバンギャの完成だ。

「ありがと。」

「靴はこのブーツね!」

「うん。分かった。」

 私はブーツを受け取る。

「じゃあ、私も着替えてから一度ステージ見に行くね!時間になったら呼びに来るから心配しないで‼」

 そう言うとさっきまで私のいた着替え場所に入り、すぐに出てきて自分のメイクをすごい速さでやっていく。私より複雑な服だし、メイクも色々難しそうなのに早い。何だか慣れている感じだ。身長が高いので結構似合っている。

「じゃあね!」

 そう言って出て行った女の子を見送る。

 そして、三人だけになった……。

「で、二人ともどうしてこんなところに居るの?」

 私は振り向いて楽屋の隅で小さくなって何か原稿を書いている二人に笑いかける。

 一度ビクッとなった長良と言わんこっちゃないとでも言いそうなきーくんは紙から視線を私に移すが、すぐに視線を斜め下に逸らす。

 珍しい格好だから笑いがこみあげて来たのかと思ったが、よく見ると何だかおびえとぃる。

 案の定答えを求めても出てこないようだ。

 仕方ない。

「まあ、いいんだけどさ。担任探してたよ。」

 私が腰に手を当てて溜息を吐くように言うと長良は言い訳がましい口を開く。

「いや、だってさ。仕方ねえじゃん。生徒会選挙明後日だぜ。」

 何だか自分の所為じゃないとでも言いたげだ。

 きーくんは肩をすくめて困った顔になる。

「長良、もうちょっとシャンとしな。そんなんじゃ勝てないよ?」

「勝つって、そんなの無理だよ。どうせ今の生徒会長の再選だろ。部活連なんて殆ど無視されてんだから。」

 そう、弱音を吐く。

 私は「何こいつきーくんの事巻き込んでおいて、何、弱気になっているんだ。」という怒りを飲み込む。

「……分からないよ。」

「いや、でも。」

「分からないんだって。」

 完全に弱気になっている長良を私は制す。

 それから一度息を吐いて、長良に向かって話を始める。

「長良さ、今日ずっとここにいたんだよね。」

「うん。まあ。」

「じゃあ、何か思うことなかった?」

 私はなるべく威圧的にならないよう声を落ち着けて聞く。

「いや、ずっと、ここにいたし。そんなの……。」

「きーくんは?」

 私は横で他人事になり始めたきーくんにも注意を動かす。

「え、ああ、なんかみんな色々出来てすごいとは思ったよ。」

「でしょ。私も思った。」

 私はきーくんに同意して話を進める。

「裏に居たら分かるけど、この舞台を作っている中に先生は殆ど含まれていなくて、どの部活もグループもみんな自分達でやってる。それに自分達で出来なくなったところも私みたいに暇な生徒を使ってあくまでも生徒の中で作り上げてる。」

 私は初めて文化祭非公開の舞台裏に入って思ったことを素直に話始める。

「それどころか吹奏楽部に至っては顧問をネタにまでしているし、筝曲部だっていつも眠いだけだと思っていたけど、中に入ってみたら難しい古典に挑戦してて、もう一曲はみんなが知ってるわかりやすいものを持ってきていたりしてるし、軽音だってお昼返上でやってる。」

 長良はハッと顔を上げる。

「だからさ、みんなやっぱり腐っても進学校にきてるだけあって行動力も実行力もあって、それに自立して動けるだけの知性もある。何も出来ない。動く気のない。そんな烏合の衆じゃないんだって思ったでしょ。」

「うん。まあ。」

「でしょ。だからそこに訴えればいいじゃない。みんな、みんなかどうかは分からないけどある一定数は自分で何かをする力を持っている。だから、それを生かそうって、普段から使っていこうってそういう提案をすればいいんじゃないの。」

 長良は下を向いて頷く。

「それに、ちゃんと動いてくれる生徒がいなかったら、意見を言ってくれる生徒がいなかったら、先生たちに、学校に反抗したって全く意味無いよ。そこについてはちゃんと考えてるの。何もしない生徒が殆どじゃあ、部活連からの要求も通らないよ。」

 私はそう締めて長良を睨みつける。

「夏穏ちゃんもうすぐ出番だよー!」

 丁度、お呼びがかかったので楽屋の外に出る。

「じゃあ、頑張って。」

 完全に落ち込んでいる長良を放置してきたけれど多分大丈夫。きーくんのフォローを頼りにしよう。


 呼ばれた通り舞台上手に行くともう、殆ど全ての生徒が戻ってきていた。緞帳は上がったままでステージの証明はドラムに当たるスポット以外消えている。

 照らされて浮かぶドラムは何だかかっこいい。

「じゃあ、夏穏ちゃん。これ、最初のバンドのボーカルかギターが何かしら合図すると思うから頼むね!私は下手側から配るから適当になるべく前の方の人に配って全部配ったら捌けてもらっていいから!」

 そう言ってさっきまで私のメイクをしてくれた女の子が私に袋に入った大量のペンライトを渡してくる。

「ああ、うん。了解了解。」

「うん!頼むね‼」

 女の子は顔のすぐ横で親指を立ててから通路の方に消えていく。

「ああ、そうだ。あの、今更で悪いんだけど名前教えてくれない?」

「ん?ああ、ごめん。言って無かったね。ゆう。懸谷宥。」

 何だかかっこよく言い残して行った。

 あの自己紹介の仕方で本当にかっこいいのはすごい。

 ゆうちゃんか。

 うん。覚えた。

 私が名前を反復して覚えているとぞろぞろと五人の男子生徒が舞台に上がっていく。

 みんなすまし顔でだぼだぼの服を着ている。私の着ている服とは方向性が違う。私のはパンク系?なのかな?

 準備をさっと終え、突然全員でジャーンと大きな音を出して会場の注目を集める。

 気の早い奴なんかはもう既に自分で持ってきたペンライトなんかを振っている。

「はーい。皆さん。軽音部でーす。よろしく!」

 ボーカルの男子生徒の声に客席のみんなは「うおー」とか「いえーい」とか奇声を上げて答える。

 舞台の上のみんなはなんとなく満足そうだ。

「いい反応ありがとーう。じゃあ、まず、僕らでもペンライト幾つか用意したから、欲しい人は受け取ってくだ、さい。その間にまず一曲目。」

 ボーカルは舞台袖の私とゆうちゃん、それからバンドの皆に合図をして曲名も言わないままに演奏を始める。

 ……この空気感で出て行くの辛いな。

 私は少し躊躇うがゆうちゃんが正面でにっこり笑うのが見えた。

 よし、頑張ろう。

 私は少し高い踵のブーツでカツカツと舞台上に出る。なんというか隣に立っているゆうちゃんは凄くカッコいいので私は少し劣等感を感じるが、舞台から客席の方を見たらそんな気持ちなんてどっかに消え去って高揚感と緊張で頭が沸騰する。

「おーい。こっち頂戴。」

「私も欲しい!」

「こっちこっち。」

「俺にも投げて!」

 私が舞台から階段を下りて前の人からライトを配り始めるとそこらかしこから手が伸びてきて訳が分からなくなる。一々丁寧に配ることなんて無理だから私はある程度の数をまとめて渡し近くの人に渡してもらう。

 中央の座席を挟んで反対側の通路で配っているゆうちゃんも同じようにしている。

「真ん中にも投げてー!」

 そんな風に通路から離れた座席からも声がかかる。バンドの爆音の中でも聞こえる声に私は驚くが、すぐに幾つかのペンライトを客席中央に向かって投げる。

 私はそれからなんとなくゆうちゃんと歩調を合わせながら渡したり、投げたりしてペンライトを配り切り、客席を後にする。

「お疲れ夏穏ちゃん!」

 私が楽屋に戻ろうと下手の舞台袖に戻るとゆうちゃんが待っててくれた。

「いえいえ。ゆうちゃんまだ準備いいの?」

「そろそろ準備かな?まあ、大丈夫。取り敢えず楽屋戻ろう!」

 そう言って背の高いのを利用して私の肩に手を置いて列車ごっこのようにわたしを楽屋に誘導する。

「服、洗って返せばいい?洗い方教えて。」

 楽屋に入って水を飲み始めたゆうちゃんに私は質問する。

「ん?ああ、いいよ。あげる。私もう着れないし。あ、ベルトと帽子だけ返して。まだ使えるから。」

 ゆうちゃんは水をおいて私からベルトと帽子を取り去る。

 確かにゆうちゃんの身長ではこの服はもう合わないに違いないけれど。

「え、ちょ。これ高い奴なんじゃ。」

「うん!いいよいいよ!私こんななりだから着れないし、かといって捨てるのももったいないしねー!余に夏穏ちゃんの背格好聞いて、おお、これは持って行かないとって思って、持った来たんだ‼」

 急にベルトと帽子を奪い去られて戸惑っている私にそんなことを言ってストレッチを始める。

「でも、悪いし。」

「大丈夫大丈夫!まあ、お礼とお近づきの印ってことで1私、そろそろ行くよ!じゃあ!」

 私の言葉は完全に無視で楽屋をそそくさと出て行く。

 楽屋にはそんなやりとりを不思議そうに見る長良ときーくん、それから一番状況が分かっていない私が取り残される。

 楽屋の隅にある小さなモニターからは小さな音で今の舞台上で演奏されている曲が流れている。リズム隊は結構上手いのにギターとボーカルが下手だ。さっきまで私が舞台のすぐそこにいたときはその場の雰囲気で相当気持ちよかったけれど、こう聞いてみると何だかシラケるくらい下手だ。

「なに。」

 私は長良ときーくんの視線に疑問を投げかける。

「いや、何でもねえけど……。」

 長良はそう言って気まずそうにする。

「そう。ならいい。」

 さっき軽く喧嘩したせいでやっぱり少し気まずい。

 流石に男が二人いるだけの所で着替える気にもなれないし、化粧落としも持っていないからこの顔で制服を着て帰るなんて嫌すぎるので、自分の制服をペンライトの入っていたビニール袋に詰める。

「ねえ、長良。」

 私は気まずいながらも長良に話しかける。

 こういう関係をゆりほぐすのは男子からしてほしい所だけれど、長良にそんな期待をしてもダメだと分かっているので私からだ。

「なんだ。」

「なんで、こんなところ居るの?」

 私はさっきと同じような質問を全く語調を変えて言う。出来るだけ角の立たないように気を付けながらだ。もっと詳しく言いたかったけれど失敗した。

「さっきも言ったし、見れば分かるだろ。」

 長良は少し投げやりだ。

 でもちゃんと答えてくれる。

「ああ、うん。そういう意味じゃなくて。何で軽音部の楽屋に入れたの?」

 分かりやすいようにかみ砕いて言う。

 よし、ちゃんと言えた。

「まあ、……部活連で。」

 私は頑張ったけれど彼は頑張る気は無いらしい。

「ああ、ほら、さっきの女子、なんて言ったっけ、」

「かけたにゆうちゃん?」

「そう、懸谷さんが部活連に入ってるらしくて、それで無理を通してくれたんだ。」

 代わりにきーくんが答えてくれる。

 ……嗚呼、私の彼氏はだめだなあ。

「へえ、部活連って運動部だけじゃなかったんだ。」

「うん。元々は部活生は全員加入してた生徒会の見張り組織だったんだ。昔は部活加入率も高かったし。」

 私の軽い言葉に私のラバーは軽く苛立ちを覚えながら答える。

 なんというか、部活連入ってる生徒ってこういう所あるんだよな。そんなに部活連が好きでもないだろうに。

「そう。まあいいけど。……ところでお茶無い?喉乾いちゃった。」

 またケンカになりそうだったので話を切る。

 長良はすっと自分の鞄からペットボトルを取り出して私に投げる。

「ありがと。」

 中身は飲みかけのジャスミン茶だ。

 こじゃれたもの飲みやがって。

 コクコクと二口飲む。

「で、どんな感じなの?原稿。」

 私はペットボトルの蓋をくるくると閉めつつ尋ねる。

「分からん。」

 長良は面倒くさそうにそう言った。

「あそ。じゃ、ちょっと見せてよ。」

 ペットボトルを長良の鞄に戻して、長良から原稿を奪おうとする。

「おい、やめろよ。」

 長良はすっと避けて、私の魔の手から自分の書いた大事な大事な原稿を守る。

「ちぇ、添削してやろうと思ったのに。」

「余計なお世話だよ。そんなことして貰っても嬉しくない。」

「ごめんって。じゃあ、きーくんの読ませてもらおうかな?」

 すぐ横にきーくんに目を合わせて「渡せ」と要求する。

 きーくんは少し怯んでから私に自分の持つ原稿用紙を差し出す。

「うん。ありがと。」

 私はその原稿を持って手近な椅子に座る。

 うんうん。

 きーくんの原稿は結構綺麗で、まだ一度文字を書いただけに思える。

 推敲はまだか。

 私はそれを読み続ける。

 うん。

 私が一昨日に渡した資料がまあまあ反映されている。とはいえ、きーくんの性格が出ているからかなんとなく緩い。

「まあ、うん。普通。」

 原稿を読み終わった感想を伝えるときーくんは苦笑いになる。

「やっぱりそうか。」

 感想はそれだけだった。

「で、長良のは?」

 私は油断している長良にそう話しかける。

 今回は強引に奪い取れば奪い取れる感じだったけれどあくまで圧力だけを掛けてみた。

 私と長良は睨み合いになる。

「長良、渡してもいいんじゃないか。」

 きーくんは私の方に加勢してくれる。

「なんで。きー、お前にだってなんのアドバイスもなかったじゃないか。意味がないなら見せる必要ない。」

 ここまで頑なだと何だか好きになりそうだよ、マイボーイフレンド。

「いや、違う。ほら、あの資料、用意してくれたのは夏穏さんだ。」

 きーくんは多分私が一昨日渡した紙の事を俎上に載せる。

「え、でも。」

「絶対、悪いようにならないだろうし、それに僕たちではどうにもならない。」

 きーくんはそう、早い口調で捲し立てた。

「いや、うん。でも、どうせ無理だし。」

 長良はやっぱり弱気。はあ、よくこれを生徒会長に推したな、部活連は。

「そんなに無理だ無理だと言ってるんだったら、僕は降りるぞ。お前は生徒会長になるんだ。」

 珍しいというか初めて声を荒げるきーくんはどこか自分を責めるような雰囲気を漂わせている。余の事で何か後悔でもあるのに違いない。そんな感じだ。

 長良は俯いている。

「わざわざ無駄に信任投票ではない投票にして、喧嘩を売るだけ売って、恥をかいて終わりなんて僕は嫌だ。機会があるんだ、何か爪痕残さなくてどうする。それにな、無理だ無理だと言っているうちに、厭なことはどんどん進んでいって避けようがないんだ。どうにかこうにか乗り越えることを考えろよ。」

 きーくんは相当怒っている。

 自分を糾弾する後悔の言葉としか思えないそれはやりようのない不安をはらんでいる。

「きーくん。もういい。」

 私はきーくんを止めて長良に向き合う。小さい子と接するようにしゃがみこむ。

「長良、私、どうにか考えるから。お願い、助けさせて。」

 下手に出た私の行動にきーくんは少し目を張る。長良は小さく頷いて私に原稿を渡した。

 私は優しくそれを取ってそのまま、読み始める。

 長良も私の資料に頼ったみたいできーくんと似たような意見を書いている。違いは自分がなった後の目標みたいなものを書いているという事か。

 うん、でもこれでは違いが分かりにくい、聞いている方からしたら同じ非難を聴いているようでくどいと感じかねない。もう少し分業みたいなのをした方がいいと思う。

 どうする。請け負ったからには身になる意見を言いたい。

 きーくんのは少し優しいけれど私のメモのように現生徒会への糾弾が目立つ。

 対する長良は今を乗り越えた後のこれからを見ている。

 よし。この分け方で行くか。

「うんと、二人とも差がないからみんな飽きちゃうと思う。一人三分として同じ話を二回も聞くなんて堪えられない。だから二人で役割分担する方がいいかな。例えば、先に演説をするきーくんがもっと強い口調に出て、後の長良はもっとこれからの事を言った方がいいと思う。なるべく二人で違うことを言うように気を付けて、……あと、なんか足りない。もっと驚くようなことがあるとなおいいんだけど。まあ、取り敢えず書いてみて。」

 私はそう早く捲し立てて席を立つ。

「分かった。やってみる。……ごめん。」

 長良はそう冷静に答えて、軽く謝意を表す。

 まあ、一山乗り越えたかな?

 一度冷静になると長良は強い。逆境には弱いけれど、なんとか打ち勝った後は一回り大きくなる。

「うん、じゃあ、私、ゆうちゃんの歌聴きに行くから。」

「ああ、ありがと。」

 私は楽屋を後にして客席に向かう。

 舞台下手の袖まで来るとゆうちゃんが自分の出番を待っていた。

「あ、夏穏ちゃん、これ、私が舞台に上がったら私に渡してね。」

 すっと寄って来たゆうちゃんは私に一輪のリボン付きのバラを渡す。

「えっ、渡せばいいの?」

「うん、本当は自作自演するものじゃないけど、いつもの事だからこれがないと。」

 ゆうちゃんはそう言って「じゃあ、お願いねー。」と言って私から離れていく。

 何だかよく分からないけれどまあ、いいか。渡せばいいのかな?

 私は指で棘の取ってあるバラを優しく摘まみながら客席の一番前のドアから入ってすぐに渡すために行ける位置の壁際にもたれかかってゆうちゃんの登場を待つ。

 前のバンドの演奏が終わり、一度照明が完全に落ちる。

 それから真っ赤な照明に切り替わって、ゆうちゃんを先頭にバンドメンバーが入ってくる。ベースとギターはさっきまでのグループと被っているらしく見た事ある衣装を着ている。ドラムの男だけは上半身裸だ。髪の毛は後ろで結んでいる。……こんな生徒いたっけ?

 私は舞台の前まで駆け寄ってゆうちゃんに無言でバラを差し出すが完全に無視。

「ゆうちゃん?」

 私は気付かないのかと思って小声で話しかけるけれど、全く気にせず、ゆっくりと舞台の真ん中へと歩いていく。

「ゆうちゃん。ゆうちゃん!ゆう‼」

 全く反応しないゆうちゃんに私は呼び捨てで叫ぶ。

 すると待ってましたと言わんばかりに私の方に笑顔を向け、舞台上に差し出しているバラを受け取る。

 それからマイクのすぐ前に、ついているリボンでバラを結び付ける。

 みんなの視線が痛くなって私はこそこそとすぐ端による。

 ダダダダダダダダ

 そして、スポットがドラムに当たり、ギターとベースが音を奏で始める。これはロックじゃなくてパンクなのだろうか?

 ドラムの力強い音に負けてはいるけれど、頑張って付いて来てるって感じだ。

 ゆうちゃんは短い前奏が終わると歌い始める。

 英語の曲だ。

 全然知らない曲で、パンクなんて聞いたこともないから分からないけれど、今までのボーカルとは桁違いの歌唱力だ。音圧が違う。

 髪とマイクを振り回し、体をねじるという衝撃的パフォーマンスをしながらかつ、激しいドラムを始めとする楽器に負けていない圧倒的な歌唱力に驚く。

 ドラムとボーカルが妙に迫力ある。衣装とか見る限りギターとベースは急ごしらえ感がある。

 高校の軽音楽部が弾くような曲ではないから客席のみんなは初めどうしていいか分からなくなっていたけれど、激しい曲だからかなんとなくペンライトを振り始める。

 衝撃的なパフォーマンスと圧倒的な歌唱力に引き付けられているとも言う。

 私は背筋がぞくっとする感覚と共に訳が分からなくなる。

 そのままずっと立ち尽くしている間に曲が終わってゆうちゃんは退場する。一言も発せずにしかも一曲だけで一人退場していくゆうちゃんをみんな不思議そうに眺める。衝撃のパフォーマンスをしてその後すぐに退場したヒロインは少しして戻って来た。

「えーみんな。さっきは下手な演奏ごめんね。今追い出すから。」

 ゆうちゃんはそう言うとくるっと反転してベースとギターを指差して舞台袖に下がるようジェスチャーで命令する。

 その自由奔放な振る舞いに会場は騒然となる。

「はい、じゃあ。邪魔なゴミは消えた所で、ハーイ、『ヴァルガーズ』デース。」

 ゆうちゃんは退場させた二人をゴミと呼んで切り捨てて、自分達のバンド名を叫びつつ中指を立てる。

 やってることの強烈さに軽く混乱している人は多いけれど、みんな空気に飲まれて「イェーイ」と叫び返す。なんというか雰囲気を作る魔法でも使っているのかとでも思う程、会場の空気は舞台の二人の物になる。

「予定していた曲じゃないけど、二人しかいないから、仕方ない。じゃあ、二曲目行くよ!『ナンバーエイト』‼」

 ゆうちゃんがそう叫ぶとドラムは激しいビートを刻みだす。

「あーー!ああーー!あああ!あーーーーーーー!」

 ゆうちゃんの強烈なシャウトから始まった曲は、ゆうちゃんの喉がつぶれるんじゃないかと思うような、絶叫ばかりの歌で、ドラムもどうしてそんな動きが出来るのかと思う程激しい曲だった。

 ……これは何というジャンルなのだろうか。

 ゆうちゃんは女の子とは思えない程の強烈な叫び声を上げながら手にマイクを持ちながら舞台上を転がりまわる。赤いチェックのミニスカートがめくれて、下に履いているスパッツがチラチラと見えているけれど、全く気にする様子も無い。

 うるさすぎて全く歌詞は理解できないけれど、「豚、家畜、死ね、ゴミ。」とか何とか叫んでいる。

 みんな狂ったように立ち上がってペンライトを振っている。

 こういうのも憑依芸というのだろうか?

 分からないけれど、さっきまでの元気で明るいゆうちゃんでは無く、今は完全に悪魔だ。

 ゆうちゃんは会場が乗って来たからか、ドラムのソロに入ったからか立ち上がり、端に避けてあったマイクスタンドを持ち近くにあったアンプを思いきり殴る。プラスチックの割れる音と金属のぶつかる音をマイクが拾ったのか会場にキーン音が響く。

 流石の舞台で物を破壊するという暴挙には軽くみんな引いたけれど、歌が始まると自然とまた引き込まれる。

 そしてみんなが最高に盛り上がったところで、ゆうちゃんはシャウトをはじめ、ドラムは盛り上がり、ゆうちゃんは舞台にマイクをたたきつけて終わる。

 すると照明は消え、二人は退場していく。私の渡したバラは中央のマイクに付いたままだ。

 私も楽しくなって舞台を滅茶苦茶にしたまま、舞台を下がるゆうちゃんに会おうと客席を出て、舞台の袖に向かう。

「懸谷!お前何やってんだ!」

 開場に「これで軽音楽部の発表を終わりです。」という司会の声が放送される中、生徒指導の体育教師がゆうちゃんに向かって大声で怒鳴っていた。

 ゆうちゃんはその教師に中指を立てて答えて無視し、私を見つけて寄ってくる。

「あ、夏穏ちゃん夏穏ちゃん!ありがとありがと!どう?よかったでしょ!」

 横で「その態度は何だ!」と叫んでいる教師を完全に無視して私の肩を抱き込んで楽屋に向かって歩き始める。ドラムを叩いていた身長の高い彼は片づけに向かった様で舞台の方へ消えていった。

「ああ、うん。凄かった。初めてああいう歌聴いたけど、なんか迫力みたいなのに圧倒されたよ。みんな、今までにないくらい盛り上がってたしね。」

 私は名前も知らないいつも生徒指導をしている教師をなんとなく気にしながらゆうちゃんに引っ張られて付いていく。

 教師は付いて来ようとしたが、ゆうちゃんに舞台から追い出された二人が引き止めて、早く行けとジェスチャーを私にする。あんなひどい扱いをされたされたのにゆうちゃんを庇うらしい。なにか理由あるのだろうか。

「なんかぁ、歌ってくれって言うからわざわざ出て来たのに、あのギターとベースがひどかった!」

「そうなの?まあ、ゆうちゃんとあのドラムの人は凄かったけど。」

 私は楽屋に入りながら言う。

「うん。ケンと私、外でバンドやってんだ。よかったら今度聴きに来てよ。ちっせえハコなんだけどさ、ギターとベースもそろうから!」

 あのドラムの人、ケンって言うんだ。

「ああ、うん。時間あれば行くよ。教えてね。」

 私は軽く流しつつ、まだ舞台に酔っているようなふらふらした感じのゆうちゃんを私から離しつつ丁度あった椅子に座らせる。

「みーずー。喉乾いた。」

「はいはい。鞄どれ?」

「それー!」

 ゆうちゃんは少し離れた所に置いてあるこれもまたヴィヴィアンウエストウッドのリュックを指さす。……これも結構高い奴じゃなかったっけ。

 私はなんとなくこわごわと鞄を開けて中に入っているペットボトルを出す。

 ウィルキンソン炭酸。

 なんか、かっけえ。

「これでいい?」

「サンキュー!」

 ゆうちゃんはそう言いながら私を自分の方に寄せる。

「ちゅ。」

「え、」

 …………、ほっぺにキスされた。

「うん。ごちそうさま。」

 ゆうちゃんはそんなことを言ってウィルキンソンをがぶがぶと飲み始める。

 鏡を見ると私の左ほおに赤いキスマークがついている。

 ゆうちゃんはやってやったと満面の笑みを浮かべているし、長良ときーくんは不思議なものを見ているし、私はうん、驚いているし、この状況を如何せん。

「おい、宥!ちょっと来い!」

「なんだよー!ケン、片付け終わったぁ?」

 ゆうちゃんは少しの怒気を交えているケンさんの事を全く気にしていない。

「終わったけど、先生ブチギレてんだよ!ちょっと来い!」

 ケンさんはゆうちゃんの首根っこを摑んで、楽屋から連れ出していく。

 そして取り残される三人。

 沈黙。

 静寂。

 混沌。

「えっと……取り敢えず、書いてみたんだけど。」

 きーくんが痺れを切らして、困って立ち尽くす私に自分の原稿を渡してくる。

「ああ、うん。」

 私は原稿に目を落とす。

 うん。

 だめだ。入って来ない。

 美人にキスされて混乱している。

「ちょっと、待って、長良、お茶。」

「はいよ。」

「ありがと。」

 まだ、原稿を書いている長良は片手で自分のリュックサックから水を取り出して私に放る。

 ゴクゴクゴク。

 私は残っているジャスミンティー全てを飲んでから「ふう」と一つ溜息を落とす。

 えっと、なんだ?

 私はもう一度きーくんの原稿を読み始める。

 私が言った通りに、随分強い口調になっている。それに長良が当選した後の事には全く触れていない。……文章書くの上手いな。

 現生徒会、それから一般生徒、教師に至るまですべてを批判している。強烈というより苛烈。そんな言葉が似あう程にキツイ文章。

 まあ、これを効果的に読めるかどうかは別として、この分だと長良がしっかりしないときーくんが悪役になるだけでどうにもならないんじゃないか?

「うん。いいと思う。きーくんがこれを上手く読めるかどうかってのと、長良の演説次第だけど。これならインパクトもあるし、いいよ。」

「ありがと。まあ、練習はしておくよ。」

 きーくんは軽く頷く。

「で、長良のはどう?」

 私はきーくんに原稿を返して長良の横に行く。

 書き終わってる原稿から軽く目を通す。

 うん。

 確かに自分がなった後にどうしたいかというのを書いているけれど、長良一人では不可能なことが多いし、方法が書かれていないから説得力も無ければ、インパクトもきーくんの物から格段に劣る。

「うん。駄目だね。」

「……やっぱり。」

 長良は一応続きを書きながらも項垂れる。

「きーくんはどう思う?」

「んー。現実味がないかな?」

 横から覗き込んで読んでいたきーくんも同じことを思っていたらしい。

「ああ、そうだね。」

 長良も思っていたようで反論しない。

「もっと、生徒会を盛んにするって言ってるけど、多分、聞いてる人は長良がなったって変わらないって思うし、今の状況では職員会議に文句をつけたって一蹴されるだけで労力の無駄になるって考えられる。」

「ああ、わかってる。でもどうしたら……。」

 きーくんは最もなことを言って、長良は少し萎縮する。

 三人ともこの原稿が駄目だという原因は理解しているけれど、解決策を見出せない。

 うーん。

 長良が生徒会に入ったってなにもならない。

 生徒会の実働部隊である執行部が突然入って来た生徒会長のいう事を聴くはずもないし、副会長は完全に信任選挙だから長良孤立するだけだ。

 ……どうする。

 きーくんは我が校の抱える無責任、無関心、傲慢、この三つを完全に糾弾していた。

 それにまだ完全に対応出来ていない。

 糾弾に対する改善案が示されていない。

 改善?

「二人とも、いや、生徒手帳持ってる!っちょっと貸して!」

 生徒会組織の改善、つまりは生徒会規則の改正ってどういう手続きでするんだ?

 校則は学校が決めるものだろうけれど、生徒会規則まで学校が決めるものか?

 私がメモを作るために使った『生徒会規則』には改正された時の話も書いてあったはずだ。

「はい、これ。」

 私は長良から生徒手帳を受けとって、ペラペラとめくって生徒会規則のページをめくる。

 あれこれ書いてあるけれど、それは無視して最後の改正の方法について調べる。

 あった。

『生徒会規則の改正は議員または生徒会長が発議し、生徒議会の三分の二以上の賛成によって行はれる。』

 これだ!

「生徒議会、生徒議会だよ!」

 嬉しくなった私は長良の肩を持って揺らす。

「へ、なんて?議会?うちの学校にそんなんないじゃないか。」

 長良は訳が分からないといった風に疑問を口にする。

「そうなんだよ!無いけど在るんだよ。ほらここ、ここ読んで!」

 私は見つけた条文を長良に見せつける。

「ちょ、落ち着け落ち着け、見えない。」

「ああ、ごめんごめん。ほらここ。『生徒会規則の改正は議員または生徒会長が発議し、生徒議会の三分の二以上の賛成によって行はれる。』って書いてある。」

 条文を軽く見せながら読み上げると長良ときーくんが目を見張る。

「てことは議会が無いとおかしいんじゃないか?」

「じゃあ、何でないんだ?生徒会規則の他の条文に議会の事なんて……ちょっと待てよ。」

 きーくんは何かに気付いたようで自分の生徒手帳を取り出して何か探し始める。

「きーくん。どうしたの?」

「……二人ともこの生徒会規則、一部抜粋だ。条文が飛んでるところがあるし、最後に一部抜粋って書いてある。」

「は?そんなはず……。」

 長良は私から生徒手帳を奪い取り、確認しだす。

「ほんとだ。じゃあ、生徒議会あるんじゃ……これって学校側に隠されてたんじゃ。えっ、おかしいだろ。」

 長良は確認し憤る。

 私も横から覗き込んでその事実を認識する。

「いや、長良、それは違うと思う。流石に先生の側からそんなことしたら反発を買ってたとえ手帳に載っていなくても議会は残ってるはず、多分機能しなくなって自然消滅したんじゃないかな?それで紙代削減の為に削られたんだよ。」

「えっ、じゃあ、悪いのってていうか、この状況を作り出したのって生徒自身なんじゃないか。それなら俺出る意味なくないか?」

 私は細則の記載というものが無いことを知っていたから、条文の省略にそういうそう言う分析が出来たのだろう。

 長良はそう言って落ち込む。

 まあ、周りからの評価はともかく、生徒の為に立ち上がるという意識があったからショックを受けるのは当然か。蜘蛛の糸を垂らしても摑む人間がいないのでは意味がない。

「まあ、えっと……。」

「いや、戦法を変えよう。」

 私が何かフォローをと思ったけれどきーくんが割り込んでそんなことを言う。

「どう?」

「現生徒会の無責任から生徒を救うなんてシナリオではだめだ。」

「じゃあ、どうするんだ。」

「生徒会長になる目標もダメだ。」

「はあ?」

 きーくんの言葉に強く反発する長良は「何を言ってるんだ」と言わんばかりの口調だ。

「生徒会長になってもこのままでは何もできない。なっても無駄だ。だから当選した暁に長良がやることを言う必要は無い。」

「何をはなせばいい。」

 長良はきーくんの言葉にのまれていく。

「僕はこの演説のまま行う。でも長良は生徒に出来る事、生徒会に出来る事、それから自分達の要求を通すには面倒でも行動しなければいけないっていう事を話すんだ。それで、もし、自分達が動くときにどちらに生徒会長をやっていてもらいたいかを選ばせる。長良、お前たち部活連の当初の目的は部活動の縮小を防ぐことだったはずだ。だから、生徒自治を強めれば教師は部活動の事について文句は言えなくなる。」

 きーくんはそう、自分のストラテジーを話す。

「つまり、生徒会長になろうがなるまいが、生徒自治の考えが薄まっていたら、なっても意味がない。それに、そういう話をして、みんなに伝えることが出来たら生徒会長になれなくても俺たちの要求が通る可能性があるってことか。」

「ああ、生徒会長になることに固執する必要は無い。」

 私抜きでも二人の議論は進んでいく。

 もう、お役御免かな?

「いや、でも、今の会長がどう動くか分からないし、議会についての条文は分からないわけだから……もし、議会の力が弱かった場合、危なくないか?」

 きーくんの言うことはもっともだけど、議会の事が分からない限りどうしようも無い。

 これは確かだ。

 どうする。

 きーくんのストーリーではもし自治意識が高まったとしても、長良が当選するという事に繫がるかと言えばそうでもない。自治をしていく中で一応のノウハウをもつ今の生徒会長の方がいいと思われる可能性は無きにしもあらず。

「はーい!戻ったよ!」

 私たち三人が完全に無言になってしまった途端、楽屋のドアが開いてゆうちゃんが戻って来た。何故か、幻の珍魚ツグノスケ=ハッタこと、八太嗣之介の腕を抱いている。

「ああ、ゆうちゃん、お帰り。えっと、何で先生連れて来たの?」

 女子生徒に抱き着かれて居づらそうにしてる中年の吹奏楽部顧問を流し見ながら尋ねる。

「ん?ああ、私のファンなんだって!それで庇ってくれたの!」

「いや、そういうわけでは無くて、ただ怒り方がちょっと訳の分からない感じだったので、止めただけです。……まあ、ファンですけど。」

 何だかげんなりしながらそう話す。

「ああ、そう言うことですか。」

 私はこれに関わっていたらどうしようも無いことになりそうなので諦めてまたもや唖然としている長良ときーくんの方に向き直る。

「えっと、まあ、なんだ。なんか、いい感じに長良が生徒会長に選ばれそうな公約ないかな?」

 中年に抱き着くゆうちゃんの登場で、何の話をしてたかはどっかに飛んで行ってしまった。多分こんな話をしていたはずだ。

「うん、なんだろ。議会の招集?」

「いや、それは、みんながやるといったら長良じゃなくても出来るから。」

 長良の出した安易な考えにきーくんは即座に否定する。

「え、議会の再招集するんですか?おお、それはそれは。」

 やば、先生居るの忘れてた。

 これって先生にどう反抗するかっていう話でもあるから聞かれちゃまずい気が……。

「いや、まあ、ははっははは。」

 私は未だにゆうちゃんに絡まれている先生に変な笑い声で答える。

「いや、別に反対しようなんて一切考えてませんよ。懐かしいなぁと思っただけです。私がここの高校にいたころは議会も総会もしょっちゅうやってましたからね。購買の牛乳の値段を安くしろと揉めたり、生徒会長の不信任投票をしたり……楽しかったですねえ。」

 何とかゆうちゃんから逃れようとしながら懐古している。

 うん。ちょっと面白い。

「おい、宥!せっかく助けてくれた先生に迷惑かけんな!」

 楽屋に入って来たケンさんがゆうちゃんを叱りながら先生から引き離す。

「なんだよ、ケン!いいじゃん!」

 ゆうちゃんはなんか文句を言いながらケンさんの方に飛び掛かる。

 まだ上半身裸のケンさんは相当身長が高くて、筋肉質だからか、女子としては身長が高いゆうちゃんの突撃にもたじろぐことも全くなく、普通に受け止めて抱き上げる。

 これもこれで面白いな。

 なんか。多分同級生か一個上かなのに、カップルとかそういうんじゃなくて保護者と子供のような雰囲気を醸し出している。

「あの、先生すいません。こいつ、歌った後は一時間くらい訳の分からないテンションなんで、許してやって下さい。普段から変な奴なんですけど、もうちょい大人しいので……。」

 でかくて筋肉質で強面で上半身裸なのに礼儀正しい。

「いや、まあ、いいですよ。」

 先生はしわの寄ったスーツを伸ばしながら答える。

「……先生、生徒議会ってどんなだったんですか?」

 意を決したように長良はそう聞く。

「ああ、なんか、いつの間にか無くなってたんですが、僕らの頃は生徒会の見張りをしっかりしてましたよ。独自にも動いてましたけど。」

「じゃあ、生徒会に加えて小さい組織って訳でもないんですね。」

「はい。生徒会のが実働的だから残っただけじゃないですかね?」

「分かりました。ありがとうございます。参考にさせてもらいます。」

「いえいえ。」

 先生はにこにこと答えて、「じゃあ、戻りますね。」と言ってケンさんを登っているゆうちゃんを一瞥して楽屋から出て行った。

「なんか!丁度良かった?」

 ゆうちゃんはケンさんに肩車されながら唐突に声を上げる。

「うん。ありがとう。」

 長良は代表して答える。

「なんか、杞憂みたいだったけど、でも出るからには勝った方がいいし、もう少し何かいい事考えた方がいいんじゃない?生徒の意識改革も当選も出来ないなんてことにならないように。」

「まあ、そうだけど、夏穏さん、なんか思いつく?」

 私が軽くまとめるときーくんが思案顔で尋ねてくる。

「いや……、」

 私は言葉に詰まる。

 長良も当然思いついていないようで、今日、何回目かの沈黙の風が私たち三人に吹きすさぶ。

「はいはーい!私、いい案ありまーす!」

 ゆうちゃんはケンさんの肩に跨ったまま、片手を挙げる。

「おい、危ない。危ないから。」

「部活連の解散!」

 注意するケンさんを完全に無視して落とした爆弾は強大だった。

「え?なんて?」

 長良は素っ頓狂な声を上げる。

「だーかーらー、部活連の解散だよ!生徒議会やるんなら要んないじゃん!壊せばいいよ!」

「おまえまたそんな無茶言って……。」

 ゆうちゃんの軽い言葉にケンさんが突っ込む。

「それは何が何でも無理だよ。応援団体をそのまま壊すって。」

「いや、それいいよ!ゆうちゃん、ナイス!」

 受け流そうとした長良を遮って、私はゆうちゃんにグーと親指を突き出す。

「はあ、何言ってるんだよ。」

「一理あるぞ。長良。」

「ああ!きー、お前まで……。」

 またもや味方の居ない長良は少し落ち込む。

 ……ちょっとかわいそうになって来た。

「んー、はっきり言って部活連ってなんか、イメージ良くないし、議会出来るなら特に続ける必要は無いんじゃない?」

 言いにくいことをズバズバと言っていくゆうちゃんに敬礼を送りたい。

 話がどんどん前に進んで行く。

「いや、まあ、そうだけど……。」

 長良も反論できないようで言葉に詰まる。

「うん。ゆうちゃんの言う通りだよ。だからさ。何とか説得できない?長良も疎ましく思ってるんでしょ。こんな事押し付けられてさ。」

「で、でも、あいつら相談できるか……。」

 長良は乗り気でこそ無いものの、否定はしない。この意見が全うだと気付いてるようだ。

「そこはなんとかしなよ。ここまで来たらどうとでもなれだし、選挙に出るのは長良なんだから、強く出ればいいじゃない。立候補を取り下げるとか、これが一番いい方法だとか、議会が出来るんだからそれに参加しろとか。色々あるじゃん。明日一日あるんだから、一度掛け合ってみたら。絶対これはいいと思う。」

「ああ、どうせ明日一度集まりがあるんだ。長良、やってみよう。」

 私の意見に同意したきーくんが提案を出す。

「まあ、いいけど。……無理だと思うけどなぁ。」

 長良はやっぱり消極的。

「大丈夫大丈夫!何とかなるって!明日のには私とケンも行くから加勢出来るし!」

 ゆうちゃんはケンさんの頭をポンポンと叩いて言う。

「え、明日、ゆうちゃん忙しくないの?」

 明日は学校で行われる文化祭の公開だからお客様いっぱいの前で演奏できるいい機会なのではないだろうか?

「私もケンもなんもしないもん!投げ銭ダメだって言われたからやめた!」

「おい、宥、その守銭奴っぽい言い方やめろ。」

「そうかな当たり前の事じゃない?」

「まあ、投げ銭無いんじゃ評価が分からないし、ただでやっていこうなんて思ってないからいいんだけどな。」

 ゆうちゃんの言葉に注意をしたケンさんだったけど、納得させられている。

 プロでも目指しているような口ぶりだ。

「そうなんだ。まあ、それならよかった応援してあげて。」

「うん!いいよいいよ!」

 なんという軽さ。

 ゆうちゃんはよく分からないけれど、うん、任せておいたら何とかなりそうだ。

「長良もいいよね?」

 私が長良にそう駄目押しの確認すると長良は「まあ、うん。」と言って答える。

 複雑なんだろうな。……仕方ない。

「じゃあ、その感じで原稿を書き直すのと、上手く部活連を説得するという事、頑張ってね。私は明日、きーくんと長良の分もクラス模擬店のシフト入るから。」

「え、夏穏さん、いいの?」

「うん。大丈夫。二人とも忙しいでしょ。それくらいいいよ。」

 私はその場を軽くまとめる。

「うん、夏穏。ありがとう。」

「よろしく、夏穏さん!」

「夏穏ちゃん最高!」

「お前は関係ないだろ。宥。」

 そんな感じに私たちは解散して、客席に戻ったり、原稿を書き始めたり、思い思いに動き出す。

 ゆうちゃんなんかはお腹が空いたとか言って楽屋口から出て行った。先生の見張りも無い所から出て行ったから、ケンさんもついて行っていた。なんというか本当に保護者だ。


 五


 半可通と馬鹿にするけれど、半分も知っている奴なんてあんまり居ない。みんなそれ以下だ。


 暗い通路の影に隠れて近くを通った人を「わあ」と驚かすのにも飽きて来た。完全にルーチンワークになってきた。

 私の隠れている所は客が背を向ける所なので、後ろから声を掛けるとみんな悲鳴を上げてくれるんだけれど、どの客も後ろ向きで、同じように真っ直ぐ前に逃げていくので詰まらない。せっかく脅かしているんだから、もっといい感じに驚た顔を見たい。

「わあ。」

「うおおわあぁあ。」

 多分ウチの生徒と思われる男子が真っ直ぐ通路をb逃げていった。

 飽きて来たけれどここまで驚かれるなんとなく傷つく。

 ……トイレ行きたいな。

 私はさっき驚いて逃げていった生徒の後について通路を進む。

 時々脅かされたり霧吹きをかけられたりするけど、私の姿を見て逆に驚いたり謝ったりされる。私はルートも知っているし、作ったからにはどこで驚かされるのか知ってるから、難なく進んで前の男子生徒に追いつく。入り口で入場調整をしているので普通追いつかない。

 追い越したものか、後をついていくものか。

 私は少し悩みつつ静かに後を付いていく。

 男子生徒は「うわあ」とか「ひやあ」とか悲鳴を上げながら脅かされるたび、一々驚いていてちょっと面白い。トイレに早く行きたいという気持ちもあるけれど、ちょっと観察していたい気もする。

 私の居た所は丁度半分くらいの所だったはずだからそんなに後は長くないし、ちょっと見ていてもいいだろう。

 そんな軽い気持ちで始めた観察だったのだけれど全然進まない。

 仕方ないか。

 私は少し早足に歩いて、男子生徒を追い抜かすことにする。

 流石に足音を消して早歩きは難しく、スリッパのパタパタという音が響く。そのせいか男子生徒の歩も早くなる。

 私は面白くなってもっと早く歩くと向こうも早く歩く。

 何だかストーカーっぽいけれど、面白い。

 男子生徒は必死に私から逃げて待ち構えていたお化けにも気づかない。

 何だか人の仕事を奪っているようで申し訳なくなるが、私もトイレ行きたいし、面白いしでやめられない。

 出口の前まで来た男子生徒はドアをすがるように摑んで、轟音を立てて開けた。

 ドアの前に並んでいたお客さんはびっくりして注目が男子生徒に集まった。男子生徒はすごすごとその場を去って開いたままのドアだけに注目が集まっている。

 私はそのドアから出るのを少し恥ずかしいと思いながら出て、同じくすごすごとトイレに向かう。

 もうちょっと考えるんだったな。

 ハズイ。

 暗いお化け屋敷の中で携帯を使う訳にもいかず、時間が全く分からなかったけれど、そろそろ昼か。シフトの交代時間だ。


 トイレから戻るときょろきょろとしている実行委員を見つける。

「ああ、乙坂さん乙坂さん!よかった。長良知らない?シフトが入ってるんだど来ないんだ!」

 あーー、あいつら。調節するの忘れやがってたな。

「ああ、多分、戻ってこないから私、変わっておくよ。……ごめんね。」

「いやいや、謝らなくても。」

「まあ、ごめん、えっと何の仕事だっけ?やるよ。」

 お化け屋敷の前でお化けメイクをした私が制服を着ている実行委員に謝っているという中々シュールな構図に並んでいたお客さんが軽く噴き出す。

「そう。ありがと。えっと、真ん中少し向こうで霧吹きを掛けるのをしてほしいんだ。」

「ああ、あれね。オーケイ分かった。」

 私は実行委員から霧吹きを受け取り、お化け屋敷の中を逆流する。

 ああ昼ごはん食べ損ねたや。……まあいいか。

 今度長良になんか奢らせよう。

 こういう感じにクラスの事を放置するから部活連はなんか痛い集団みたいに思われるんだろうに。


 シュシュ。

 私は段ボールの壁に入って来た客に向けて霧吹きをかける。

 特に驚いている様ではないのか、あまり悲鳴は聞こえない。

 私は霧吹きの所為でお客さんが滑って転ばないか気になりながらも一人一人シュッシュと二回ずつ霧吹きをかける。

 私は暗い中、身をかがめて段ボールに開いた小さな穴から目と霧吹きの噴射口を出している。少しつらい体勢だ。これ、長良の身長でやったら相当つらいんじゃないだろうか。

 ……お腹減って来たな。

「ねえ、お腹空いた。」

 横で壁を揺らして、私が霧吹きをかけた後の客を驚かす役をしている実行委員に声を掛ける。

「ああ、はい。」

 そう言って私の方を一瞥もせずにズボンのポケットから飴を出してくる。

「ありがと。」

「どういたしまして。」

 出所の分からない飴を軽く不審に思いながらも私は袋を空腹に負けて口に放り込む。

「なんか長良ときー、ここんところ居ないけれど何かあるの?」

「ん?ああ、まあね。」

 もう既に生徒会選挙は公示されてるし、掲示板には立候補者と立会人の名前が発表されているはずなのだけれど、興味がない人には目に入らないらしい。

 ……文化祭の直後に生徒会選挙なんて地味なものが目立つはずも無いか。

 この状況が吉と出るか凶と出るか。


 カレーうどんうめえ。

 霧吹きを多用しすぎて一人のお客さんが滑って転んだので私は馘首された。

 次のシフトにきーくんの代わりに受付をしないといけないけれどまだ一時間くらい時間があったので、客入りが悪くなって値下げを始めたカレーうどんの模擬店に入った。みんな必死で、店の前で宣伝をしたり、どこからか出前を取りに行ったりしている。……どこのクラス何だろう。大変そうだけど楽しそうだ。

 私は血濡れた顔に、ボロボロの浴衣姿で衣装にカレーが飛ぶのも厭わずにズルズルと麺を啜り、麺が無くなったら汁を飲み切る。多分レトルトで作っているのだろうけれど、カレーと出汁の割合が良くて結構おいしい。……もう一杯食べようかな?

「あ!夏穏ちゃん!」

 私が一杯目を食べ終わり、二杯目に行こうかと思っていたら後ろから声を掛けられた。

 私は首だけ後ろに向ける。

「ああ、ゆうちゃん。昨日ぶり。」

「うんうん。」

 ゆうちゃんは私の顔をプニッと摘まむ。

「ももみまも。」

「ふふふ。」

 私が抗議の声を上げるとゆうちゃんは笑って手を放す。

「カレーうどん美味しかった?」

「うん。お代わりしようかな?」

「おっけい!二杯こっちに持ってきて!」

 ゆうちゃんは私の正面に座って手を挙げて注文をする。

「あれ、先払いでチケット買わなくちゃいけないんじゃなかった?」

「大丈夫!私、二杯分チケット持ってるから。」

 ゆうちゃんは昨日の衣装とは全く違って、正しく着ている制服の胸ポケットからチケットを二枚取り出す。

「ゆうちゃんのクラスだっけ?」

「違う違う!ケンのクラス!だから二枚奢って貰ったんだ!」

「それってケンさんとゆうちゃんの分なんじゃ……。」

 私は近くにケンさんがいないか見渡す。

「いいんじゃない?それよりケンの事、さん付けって面白いね!」

 まあ、注文してしまったものは仕方ないしいいか。

 あとでお金だけ払おう。

「そう、まあ、頂いておくよ。ありがと。ケンさんの事は……まあ、よく知らないし。」

「ケンはケンでいいと思うよ!だって年下だし!」

「え、一年?ほんと?」

 あの体躯で一年か。というか昨日ゆうちゃんのこと完全にタメなかんじだったし、むしろ保護者だったのに。

「大人びてるね。」

「まあ、頭いいから!」

 そういう問題なのかな?

「じゃあ、勝手にケンって呼ぼうかな?」

「うんうん、それがいいそれがいい!私の事もユウって呼んで!」

「分かった。そうするよ。」

「はい、どうぞ。二杯です。」

 そんな話をしているとポリスチレン製の使い捨て容器に入ったカレーうどんが届く。

 ゆうちゃんは持っていたチケット二枚を係員に渡してうどんと交換する。

「はい!どうぞ!」

「ありがと。いただきます。」

 私はさっき一杯目を食べるのに使った箸をとって麺を啜り始める。

 ゆうちゃんはテーブルに置いてある箸置きから割り箸を一本抜いて上品に麺を啜り始める。

 私と何が違うのか分からないけれど、カレーは跳ねないし、姿勢もきれいだ。

「ユウ、上手く食べるね。」

「そう?カレーうどんの食べ方に上手いも下手もなくない?」

 いや、カレーうどんにこそあると思う。

 安物だし、お化けに見えるよう汚したり破いたりしてある浴衣だからいいだろうと思って、ズルズル麺を啜っていた所為か、私の襟元のそこここにはカレーの斑点が付いている。

「跳ねない?」

「跳ねない!」

 うん。なんかパンクとかやってる癖に上品な振る舞いが板についている。……ちょっとうらやましい。

「そうだ。部活連、どんな感じ?」

「長良とあともう一人のきーだっけ?あの二人が奮中!」

 麺をゆうちゃんみたいに跳ねないよう気を付けながら啜る。

「あー、やっぱりそうか。」

「まあ、予想通り?でも、何とかなりそう!」

「おお、ホントに?」

 底抜けに明るいユウが言うとなんとなく信用できないけれど、そう思える一端でもあったのだろうか?

「うん!部活連って強硬派に見られがちだけど穏健派のが多いから!」

「そうなんだ!」

 初耳だ。

 内部の事はよく分からなかったけれど、そういう風になってるのか。

「大丈夫だよ!彼氏を信じな!」

 いや、まあ、失敗しても私に被害はないからいいんだけど。……それを言っても仕方ないか。

 というかユウまで私と長良の事知ってるのか。

 まあ、対照的なカップルだし、仕方ないか。

「まあ、ユウ、これからどうするの?」

「私、適当に校内を徘徊する感じ?部活連にはちょっとしてから戻るけど!」

「そう、長良ときーくんのことよろしくね。」

「おっけい!夏穏ちゃんはどうするの?」

 ユウは箸をおいてそう言った。

「夏穏でいいよ。私はちょっと廻ってからきーくんの代わりにシフト入るからまた、クラスかな?」

「お化け屋敷だよね?」

 ユウは私の格好を舐めるように見回す。

「ああ、うん。もちろん。」

「後で行くよ!驚かしてね!」

「ごめん。次は受付……」

「じゃあ、後で写真撮ろう!」

「了解!」

 ユウはそう言うとぐいっとのこったカレーを飲み込んで席を立つ。

「じゃあ、、またね!」

 そう言って去って行った。

 私も残りの麺と汁を食べてゴミ箱に容器と箸を捨てて教室を出る。

 一年が作ったとは思わない美味しさだったと感動しつつ腕時計で時間を確認する。

 あと、三十分か。

 適当に縁日的な模擬店で時間を潰すかな。


 私が射的とヨーヨー釣りの戦利品を片手にぶら下げつつ、教室に戻ると長い列ができていて、実行委員が整理をしていた。何だか少しげっそりしている。

「代わろうか?ご飯食べてないでしょ。」

 私は近寄って聞いてみる。

「ああ、乙坂さん。うん。頼めるかな?」

 実行委員は本当に疲れているようで、すぐに頷いて私にやることを伝える。

 やっぱりお昼も食べずに朝からずっと働きづめのようだ。

「じゃあ、任された。受付は他にもいるし、列の整理の方も気を付けておくよ。」

「うん。ありがと。乙坂さんもずっとシフト入ってるのに……。」

 少し申し訳なさそうに実行委員は言う。

「ああ、全然問題ないよ。長良ときーくんの仕事は元々請け負うつもりだったし、あの二人がちゃんと君に言わなかっただけで。」

「そう、……それならいいけど。じゃあ、頼みます。」

 そう言って実行委員は飲食系の模擬店の方へと立ち去って行った。

「あ、カレーうどん美味しかったよ。行ってみて!」

 なんとなくケンのクラスの宣伝もしておくと、実行委員は「おう!」と言って手を挙げて答えていた。……そういやあの人、名前何だったかな?

 私はそんなクラスメイトにあるまじき酷いことを思いながら言われた通りに列の整理を始める。うちのクラスは結構人気のようで教室の前だけでは列が途切れず、隣のクラスの領域にはみ出すことがある。だから上手く降り曲がって邪魔にならないように対応する。

 廊下には三つか四つ隣のクラスで行われている木製ジェットコースターのゴゴゴゴゴという鈍いタイヤ音と「キャー」とか「ヒュー」とかいう叫び声が一定の間隔で聞こえてくる。どうやら昨日の放課後の間に完成したようだ。なかなかすごいものを考えたと思う。人気もあるようで、教室の前に作っている列は幾重にも降り曲がっている。

 流石にそこまでとはいかないが、うちのクラスも列が二重になるくらいには列ができている。隣のクラスのボーリングや枕投げよりは人気があるようだ。……枕投げってどういう企画何だろう。みんなで枕投げるだけなのかな?


 昼時が終わったからか、先程から並んでいる人数が倍以上も増え、入場待ちの列は四重にまで折り重り、もうすぐ五本目の列が形成されようとしている。

 木製ジェットコースターのある教室の前には列が収まりきらなくなって人であふれかえっている。リピーターも多いようで、終わったらまた後ろに並ぶ近所の小学生とかがいるから、列は長くなりこそすれ短くなることは無い。

 隣のボーリングのクラスすら人の列ができ始めたから人の多さは最大をむかえているのかもしれない。ちなみに枕投げは一気にお客さんを入れているらしく、列が出来る様子はない。

 私は入場の調節をしている受付の子と話して何とか早められないかと策を考える。

「ねえ、これ、グループで入って貰った方がいいんじゃない?あんまり待たせるようなものでもないし。」

「うん。私も夏穏ちゃんの言う通りだと思う。でもいきなり多人数になったら中の脅かし役が困らない?」

「ああ、そっか、私一度入ってみんなに伝えてこようか?」

「いや、私一人で受付と列の整理なんて無理だよ。」

 ああ、たしかに。この列をどうにか減らしたいけれど、受付一人では無理だ。

 私と受付の女の子が二人で思案していると襟にカレーのルーを跳ねさせた実行委員が戻ってきた。

「ありがと。僕も手伝うよ。」

「お、丁度いい所に!」

「さっすが実行委員!使える!有能!」

 実行委員は戻ってくるなりの褒め殺しに戸惑う。

「これ、一人ずつなんて収拾つかなくなるからこれから何人かのグループで入って貰いたいの。だから、その説明を何とかお化けの人とか脅かし役の人とかに伝えてきて!」

「え、ああ、いいけど。」

「じゃあ、全員に伝えたら出口から出てきて、そしたら人増やすから!」

「はいはい。」

 そう言って実行委員は教室の暗闇に入って行った。


「おーい夏穏!来たよ!」

 そう言って木製ジェットコースターの行列をくぐるように抜け出して大きく手を振るのはユウちゃん。うん、感嘆符が多い。

「ああ、ユウ。ごめん結構人並んでる。」

 私はお客さんの整理が一段落して座って休んでいた受付の椅子から立ち上がる。

「いいよいいよ!取り合えず写真!……ほら、ケン、早く!」

 ユウは一度後ろを向いて人ごみにのまれているケンを呼び、私の方に走ってくる。

「ちょ、すみません。おい待てユウ!」

 体が大きいから、こちらから見えるけれど、身動き取りにくそうだ。

「早く早く。写真写真。」

 すごい身のこなしで抜け出してきたユウは私の隣に立ってケンに叫ぶ。

「ああ、はいはい!」

 木製ジェットコースターのタイヤのゴロゴロという音とボーリングのボールのガラガラという音の中、二人の声は通って普通の会話が出来ている。

 何とか人ごみを抜け出したケンは私たちの方へ駆け寄ってくる。手には一眼レフカメラを携えている。

「もう、ケン、遅い!」

「はいはい。写真だろ。」

「うんうん、夏穏!ポーズポーズ!」

 私はユウにせっつかれて、うらめしやとお化けのポーズをとる。そういや裏が飯屋なら表は何屋をしているんだろうか。

 パシャ。

 ケンは無言で一枚写真を撮る。

「これでいいか?」

 ユウはケンの持つカメラを覗き込む。

「夏穏これでいい?」

「ああ、うん。」

 私も背伸びをして覗き込み、なんとなくしか見えない写真にオッケイを出す。

「二人とも入ってくの?」

「うん!」

「いや、すいません。これからもう一回部活連に行こうかと思ってるところで……。」

 私の問いに真っ向から対立する二人。

「ああ、そう、まあ、並んでるしね。」

 私はケンの方に話を合わせる。

 ユウ以外と話すときはちゃんと敬語を使うらしい。

 昨日あんな半裸でドラムを叩いていた人間とは思わないくらい丁寧だ。

「ん?ああ、そうだった!解散解散!」

 そう言ってユウは歩き出す。

 私と写真を撮って興味を失ったらしい。

「じゃあ、また。」

「ケンもよろしく。」

 やっぱり丁寧なケンに私は声を掛けて見送る。


「おう。やっとるか?」

 来る来ないの問いにはっきり答えてくれなかったおじいちゃんだけど、結局というか案の定来たみたいだ。灰色の背広に帽子を被っている。

「ああ、おじいちゃん。どう?似合ってるでしょ。」

 私は受付の席から立ち上がってくるりと廻っておじいちゃんに全身を見せる。

「ああ、まあ、幽霊だの。」

 そう歓心したように頷く。

「写真撮る?」

 横に座っていた一緒に受け付けをしていた女の子が気を遣ってくれる。

「ああ、ありがと。」

 私は自分のスマートフォンをその子に渡しおじいちゃんの横でピースを作る。

「ハイチーズ。」

 そんなのんきな掛け声で取られた写真を見るとおじいちゃんは朗らかに笑っていた。

「すまんが、これでも取ってもらえませんかのう。」

「ハイハイ、いいですよ。」

 おじいちゃんは背広の内ポケットから自分の携帯電話を取り出してさっき写真を撮ってくれた女の子に渡す。

「ハイ、チーズ。」

 ピロリン。

 気の抜けるような撮影音を響かしてとれた写真は画質が頗る悪い。

「おお、ありがとうございます。」

 おじいちゃんは写真を見て礼を告げると女の子はまた席に戻っていった。

 この女の子もこの女の子で結構影が薄い子だ。うちのクラスの女子の中では私とツートップを張る地味子。

「で、おじいちゃん、入ってく?」

「おおう。うん。よしておくよ。背広も厚くなってきたし帰るかの。」

「そう。来てくれてありがとね。」

「今日は遅いのかえ?」

「んー分からない。また連絡するよ。」

「左様か。」

 おじいちゃんはそう言って空いている方の廊下から去っていった。

「ありがとね。写真。」

 私は受付の椅子に戻って女の子に礼を言う。

「ううん。全然。おじいさんが来てるんだね。」

「ああ、うん。うちおじいちゃんしかいないから。」

 私はなんてことの無いように答える。まあ、何てことないんだけれど。

「ああ、そうなんだ。」

 重い話を避けたのか、それとも普通に興味がないだけなのか女の子は話を続けるそぶりを見せない。

 横を窺うとその子は私より少し高い背を真っ直ぐに伸ばして座っている。

 ガラガラ。

 そんな音がして出口からお客さんが逃げてきた。

「はい次のグループどうぞお入りください。」

 私は列に並んで待っているお客さんを誘導して、女の子は入口のドアを開ける。


 あれだけならんでいた列ももう随分短くなって、一列の半分くらいの人数になった。横のボウリングと枕投げは客入りがなくなってそこのクラスの人たちが遊び始めた。ジェットコースターはもう新たに並ぶのを止めて、何とか時間内に並んでいるお客さんすべてを捌きたいようだ。

 うちもだけれど、片付けに時間がかかりそう。

 片付け、どのくらい時間かかるだろうか。昨日、一昨日と行けなかったからそろそろバイトに行きたい。私が行かないとあの事務所は片付けも掃除もしないのだ。客商売なんだからちゃんと綺麗にしてほしいものだ。ただでさえ探偵事務所なんて胡散臭い商売、見た目まで胡散臭くしてどうするのだろう。

「あと何分?」

  私は横で背筋を伸ばして座っている子に聞く。浴衣だから腕時計を付けていないのだ。スマホを出すのは面倒だった。

「ああ、あと四十分くらいかな。このくらいの列なら捌けるよ。」

「そう、これ以上人が並ばないように列の後ろに立ってるよ。」

「ありがとう。」

 受付席から立ちあがって列の一番後ろにつく。もう廊下を歩く人もポロポロとしかいないけれど、まだ、遊び足りない奴が並ぶ可能性はある。

 忙しかった文化祭もすぐ終わるなあなんて少し寂しい気分にはなるが、よく考えたら私ずっと働いていてカレーうどん食べただけだった。何だか祭りの気分ではないけれど、充実感はあったかな?

 私はふらふらとあても無く歩いてきて並ぼうとしてくる人に謝って断る。みんな楽しい気分だからか、特に問題なく他の所に行ってくれて、ボウリングのクラスに入って行った。

 おじいちゃんが来るまでは私を尋ねてくれる人もいたけれど、もうそんな事も無くて暇だ。

 長良ときーくんどうなったのかなあ。


 数度にわたる文化祭終了の放送により、外部のお客さんは姿を消し、内部の生徒はそれぞれのクラスに戻って行った。

 うちのクラスはと言うと中には迷路が作ってあってみんなで集まれるようなスペースは無い。だから廊下にわらわらと集まっているだけだ。朝の点呼だけ顔を出していた長良ときーくんも何だか疲れたようなやり切ったような顔つきで戻ってきている。……何とかなったみたいだな。

「えーっと、今から片付けですが、まず、段ボールを剥がして貰って、その後に机を運んで貰います。段ボールはもうすぐ業者の人が校門まで来てくれるはずなので、なるべく早めに持って行ってください。そのままゴミ収集車に入れてもらうので紐で縛らなくてもいいです。」

 実行委員は憔悴した声で指示を出すとみんな「おう」と答えて教室内に入って机から段ボールを剥がし始める。

 私はそろそろ着替えたいと思うのだけれど、最後のシフトに入っていたお化け役の何人かはその格好のまま片づけをし始めている。だから私もそれに倣って椅子に結び付けられた紐を切って段ボールを剥がし始める。

「実行委員!校門まで持ってかないといけないんだよな?」

「うん。そう。」

「了解。じゃあ、おっきい段ボール組み立てて廊下に置いておくからみんなその中に入れて!俺たちで持ってくから!」

 長良はずっとクラスの出し物に関われなかったからかそんな声を上げる。

 みんな「了解」とか「ありがとう」とか普通に返しているから、それ程何とも思っていないようだ。よかった緩いクラスで。

 長良の提案に従って次々と段ボールの中に段ボールが入れられていく。教室の段ボールの四分の一程が収まった。長良はもう一つ大きな段ボールを組み立てた後、きーくんと一緒に中身がいっぱいになった段ボールを運んで校門に出て行く。組み立てる事より壊すことの方が断然速く、瞬く間に二個目の段ボールもいっぱいになっていくが、流石の実行委員が気を利かせて三個目も組み立てる。今日の実行委員は輝いているなあ。

 私は皆がそのまま床に棄てていくビニール紐の回収をする。片手にゴミ袋を持って邪魔にならないようこそこそとゴミを拾う。女子の多くは廊下や階段のビニールテープアートを剥がしに行ってしまったけれど、波に乗り遅れたので今更行こうとは思わない。……余がいたら絶対いけていただろうに。

 振り返ってみると、長良の事ときーくんの事は、何とかうまくまとめられそう。だけど、余の事、つまり一番自分に関わっている事には殆ど手が打てていない。文化祭のおかげでグループで一々動くという事からは解放されていたけれど、日常生活に戻ったらそれをしていく事になる。精神的に不安定になっている余が戻ってくる上で、受け入れ態勢が崩壊していることになる訳にはいかないし何とか、頑張らないとなあ。

 はあ。

 私はそんな憂鬱なことを思い出して溜息を落とす。

「乙坂さん大丈夫?疲れてるなら休んでていいよ?」

 溜息の意味を今日の疲れからと誤解した実行委員が私に気を使ってくれる。

「ああ、全然大丈夫。君のが大変そうだったし私そんなに。」

「まあ、実行委員だから。」

「そう、文化祭って関わった方が面白いしね。」

 そんな風に軽く受け流して私はビニールゴミを拾い続ける。

 長良ときーくんは段ボールを二便三便と運んで結構活躍して、クラスへの不義を解消している。

 明日か。

 もう私に出来る事は無い。

 成功するといいけれど。

 喧噪の中、文化祭は終わっていく。



長い文章お付き合いありがとうございました。

次話で最後です。

感想等ありましたらよろしくお願いします。作者は何でも喜びます。

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