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1/3

プロローグ

 一


 棚から牡丹餅は嬉しいけれど開いた口に牡丹餅を突っ込まれたら喉を詰まらすと思う。


 二期制。現代社会において全く珍しくもない、年度を前期と後期または上半期と下半期に分けた制度であるが、学校という特異な環境でこの制度をとっている所は稀有な存在だ。しかし、その制度の中で過ごしていると特段変わったことも無く感じる。学校は二期制を目的を持って導入したのであろうが、私、乙坂夏穏からしてみれば三期制より区切りは付きにくいけれどその分集会が少なくて楽だというくらいにしか思えない。二期制という前期と後期しかないシステムでは夏休み前後と冬休み前後に始業式や終業式が無い。やはりこの時期は気候的に長時間じっとしているのが辛いので体育館に集まって苦行に近い校長の話を聞かずに済むというのは大変いい事だ。

 ……だと思っていたのに今日は全校生徒が狭い体育館に集められて、すし詰めになっている。二年生というのは損なもので壁際にコンセントの数だけ並んだ業務用扇風機の風も届かない。澱んだ空気の中間延びした校長のご高説を賜っていると頬や首筋、それから胸元を大粒の水滴が重力に従って零れていく。制服の背中は汗に濡れていて、間違いなく下着が透けている。

 夏休み明けテストを一日減らしてまで行われているこの集会。趣旨は、同じ市内の歴史的に我が校とつながりの深い高校の生徒が自殺したことを受けての説明と対策のため、なのだろう。しかし、何だか要領を得ない。

 ウチの校長は基本的に話が上手くない。普段の集会も同じ話を何度もして間延びしたり、話題が飛躍して何を言いたかったのか全く伝わって来なかったり、何でこんな人が進学校の校長をとしか思えない。

 特に今日はさらにひどい。

 人が一人死んでる話だし、気を使わないといけないのだろう。けれど、それでもハッキリしなさすぎる。さっきから「困ったことがあれば何でも誰でもいいから話をしに来なさい。私たち職員も声掛けを行っていくし、面談もしていく。」といいつつ、「しかし、それが負担になってはいけないから、無理に話そうとはしなくてもいい。」と話をぼかす。その上で「きちんと誰かに話すことは大切だ。」とか言い出して独りで堂々巡りをしている。

 もう何回目か数えるのもやめた「相談に乗ります。」という言葉が聞こえて来る。なんとなく顔を上げ周りを見回す。すると多くの生徒が体力を使い果たして顏を伏していた。低身長の私でも周りが見渡せる程だからみんな限界。それとも私の座高が高いのだろうか、だったら嫌だな。

 もう話が始まって二十分近くたつ。誰か熱射病で倒れるんじゃないだろうか。熱中症か。

 そんな風に思ってなんとなしに斜め後ろを見ると一番後ろで養護教諭が大きくバツを作っていた。うん、正しい判断。

 校長はそれを見るとハとした顔になる。それから「まあ、皆さん頑張って下さい。」とさっきまでの趣旨とは全く違う言葉で締めくくった。

 総務主任の号令で全校生徒が起立する。この暑さの中でも寝ていた者がいたようで全員が立ち上がるまで間が空く。

 今日あるはずだったテストに向けてテスト勉強をしていた勤勉な人か、これもまた今日あるはずだった夏休み課題の提出に向けて徹夜で写経をしていた敬虔な人か。この蒸し風呂のような体育館ですら眠くなってしまうのはそういう人たちだけだろう。夏季課題の量が鬼畜だから、部活とか学校外での活動とかしている人にはきつい。

 全員が立って軽く礼をした後、次は生徒指導部の主任が壇上に立った。

「次は生徒指導部からお知らせです。礼。」

 総務主任が号令をかける。

「はい。生徒指導室です。えー、先程校長先生からも話がありましたところですが、秋津高校の生徒が亡くなったことに関連してです。」

 そう、体育教師の生指主任は慎重に話始める。

「近くの高校の話ですから、同じ中学出身の人もいると思います。そこで私たち秋津西高校としてはアンケートを取ります。いじめ、家庭内のこともそうですが、ただ不安だとかそういうことでも構いません。無記名で行いますので一人ひとり封筒に入れて出して下さい。以上です。」

 今度は一瞬で話が終わった。また「礼。」と号令がかかって生指主任が降壇する。

「集会は以上です。教室に戻ってホームルームでアンケートをお願いします。」

 その言葉が終わる前に生徒一同は動き出す。端のクラスはもう体育館の外に出ている。誰もそれを咎めはしない。

 確かに冗談なく人が死ぬ暑さの体育館ではあるが、もう少し規律よく動いた方がいいと思う。というかそう指導をするのが教師ではないのだろうか。

 そんな悪態を思いながら、私もグループのみんなを探して動き出しているから人の事を言えない。それどころか、誤用の意味で確信犯なのだからもっと悪い。

 あれ、余いない?

 ああ、珍しく休みだったっけか。

 グループの中心を担っている長身美人の女の子を探したのだが今日は休みだった。

 朝は出席を取っただけだったし、半分くらいの生徒が勉強や写経をしていたので、特に誰も交流することが無かった。けれど、ここからはそうではない。余がいなくてグループは成立するだろうか。理系の女子が少ないクラスだから女子同士仲良くできると思われがちだが、なんとも微妙な距離感があって失敗すると瓦解しそうのだ。まあ、一日くらい大丈夫か。余が学校を休むのは初めてなので心配なだけだ。

 そんなことを思いながら近くの女子と話して教室へ歩き始める。

 途中彼氏の鍬柄長良を見かけたが無視した。向こうも友人のきーくんこと佐々紲と談笑しながら歩いていたし特に構わなくてもいいだろう。


 教室に戻ると冷房がかかっていた。ガンガンだ。

 事務室ナイス。エアコンの操作を掌る事務室を讃えながら取り敢えず取り敢えず自分の席に戻る。気温差による頭痛が頭蓋を押しつぶそうとするが、そんなことはどうでもいいくらい嬉しい。

 一緒に戻って来た子も「課題で徹夜だった。」とか「校長話長すぎ。」とかの文句から一変して「涼しい!」とはしゃぎだす。

 クラスの中も勉強なんかうっちゃって、夏休み明けの浮ついた空気になっている。ソーシャルネットワーキングサービスの発達のおかげで友達の動向を逐次把握出来るのだけれど、実際会って話すのとは全く違うから、こういう夏休み明けの空気は小学生の頃から変わらない。

 私たち女子のグループも余がいないとは言え、まあまあ盛り上がっている。課題が多いとか文句を言いつつも、お金持ちが多いから海外旅行とかに行っているようだ。みんな変わったお土産を配っている。私はそんな時間もお金も無かったし、余も居ないので上手く話を振られることも無い。隅で笑っているだ。

 余は自分の事は全く話さない。けれど、聞き上手で話を振るのが上手い。だからグループで話すときは潤滑剤となって盛り上げる。私みたいな浮かない程度の人付き合いだけを心掛けている女子には、居てくれるととても助かるタイプの人だ。

 普段から話を回すのを余に頼り切っているこのグループではみんな奔放に話す。今でもちょっと噛み合っていない会話が多い。

 このままだったら瓦解するかもしれない。

 何て他人事のように自分の周囲を観察しながら長良の方を見る。するときーくんと話していた。

「なあ、きー、ちょっと頼みたい事があるんだよ」

 そんな長良の声が聞こえる。

 長良の声はすこし大きいので気を付ければ耳に入れることも可能だ。

 話題は私も昨日相談された事だろう重要な事だったから、何のことかは想像に難くない。結局きーくんに頼むことにしたらしい。

 まあ、頑張って貰うしかないか。

「はい、着席。」

 教室の前側のドアが開いて担任が入って来た。

 いつも通りの男前で黒のスーツに黒のシャツと黒のネクタイをしているまっくろくろすけ。でも何だか少しやつれている。……というか暑くないんだろうか。

 私たちは担任がアンケート用紙であろう用紙と回収用の封筒を配っている間に席に戻る。座席が前後の長良ときーくんも話をやめて前を向き筆記用具を出している。

「ええと、お久しぶり。夏休みは有意義に過ごせたか?まあいい。取り敢えずアンケートを書きながらでいいから聞いててくれ。」

 担任は話なんてまるで聞かずに配られた用紙に目を落とす生徒を正しもせず、話を始める。

 私は特に何の問題ない。アンケートは面倒だから紙はそのままに封筒に押し込む。無回答だ。

「えっとまず、今日のテストが中止になった分、明日は一日テストだから頑張ってくれ。提出物も全ての教科はもちろんそれ以外の物も、読書感想文とか、そういうのも明日で良い。それから、もし間に合いそうもないという人は今日中に教科担当の先生にその旨を伝えておくように。早めに言っておいた方が傷は浅いからな。」

 担任はぶっきらぼうにメモにチェックを付けながら話していく。結構横暴な口調。だけれど嫌な感じはしない。顔がいいからか。

 半分くらいの生徒が提出物は明日で良いと言われたところでほっと息を撫でおろしていた。

「それからこの後、明日からテスト、文化祭、生徒会選挙と続くが体調には気を付けるように。夏休みが終わってすぐに行事が詰まっているけれどだんだん勉強ばかりになっていくから楽しむように。」

 そういうと先生はメモ用紙から顔を起こす。

「最後に、もう気付いている人もいるかと思うが今日は生原余が休んでいる。余は、少しの間休むことになった。」

 え?

 なんで、聞いていない。そう思って余と非常に仲のよろしい関係にある人物に目を向ける。その人物であるきーくんこと佐々紲は机に伏せって顔を見えない。先程まで長良と話していたのにこの姿勢だ。

 何かあったな。

 そう思って私は目を細める。

「理由は怪我をしてしまって入院しているからだ。」

 教室がざわつく。

 進学校ゆえ、ストレスで少しの間お休みするという事はままあるのだが、怪我というのは珍しい。みんなも珍しいと騒ぐ。

 私はまだ顔を上げようとしない彼を強く睨む。きーくんはみんなが驚く中、余の事に興味を払おうとしない。ということは佐々紲という男はこれを知っていたのか。これでも私と長良、きーくんと余は一緒に修学旅行の観光をするような仲だ。クラスできーくんとは一番仲がいい部類になるとは思う。……なぜ前もって教えてくれなかったのだろううか。

「先生、病院はどこですか?お見舞いに行きたいのですが。」

 余や私のいるグループの中でもものをはっきりというタイプの子がそう言った。

「ああ、そのことなんだが、大事では無いんだが怪我をしてしまった所が所なので治るまで見せたくないとのことだ。すまんがそういうことだからよろしく頼む。命には別条がないし、そこまで長引くものでもないらしい。のであまり気を使い過ぎないように。それも優しさだ。すまないな。」

 担任はそう何度か謝る。まあ、グループで心配したという実績は作れたから見舞いに行かなくても名誉は守られたともいえる。だから誰も反論することは無かった。クラスの中の女子のグループなんてそんなものだ。硬い掟はあるが緩い絆しかない。

「じゃあ、校長先生も仰っていたが、何かあればすぐに行ってくれ。相談くらいは乗れるとおもうから、まあ、愚痴でもなんでもいいに来てくれ。アンケートはもう書けてるなら預かるしまだなら職員室前に箱が置いてあるからそこに入れてくれ。じゃあ、解散。」

 そう担任が言うと室長が「起立、礼。」と号令をかける。

 先生はそれから封筒を渡そうと前に向かってきた生徒に推されて教室から出て行った。半分以上がアンケートを書き終えたらしい。

 どうせ白紙だからわざわざ出さなくてもいいだろう。

 私は自分のリュックに封筒ごとアンケートを入れ、解散後すぐに荷物をしまって帰ろうとするきーくんの下に行く。すぐに長良も寄って来た。

「きーくん、久方ぶりだね。」

 長良を半分無視してきーくんに話しかける。

「ああ、夏穏さん。お久し振り。」

「うん。で、何があったの?」

 一切の前説を挟まず私は語気を強める。

 きーくんは目線を斜め下に向け口を真一文字に結ぶ。

 情報開示を取捨選択している感じだ。

「そうだ。生原さん。大丈夫なのか?」

 私ときーくんの間に出来た間に耐えらなかったのか長良が口を開いた。

 本当に空気を読もうとするんだから。長良の変な気を自分のために使う癖はずっと治らない。

「えっと……、まあ、命に別状は全くこんな事言う程もないくらいに無いんだけれど、顔にこう怪我をしてしまってて……。」

 きーくんは「こう怪我を」という所で左側の額から目の下の辺りにかけて線を引いた。

 かなり大きい傷のようだ。

 全くのしどろもどろな口調。出す情報を選んで、それから何と説明するのかと困っている。

「そう、じゃあ、やっぱりお見舞いはしない方がいいのね。」

 私はきーくんはそう言ってほしいだろうと見込んでさっぱりと答える。

「ああ、そうしてくれると……。」

「わかった。何かあれば教えてね。どうせきーくんは面会謝絶じゃないんでしょ。」

 きーくんは目で「助かった」といったかの様だった。

 私は少し首を傾げて口角を上げる。にっこり。

「まあ、うん。余には伝えておく。じゃあまた。」

 やっぱり。先生に聞くよりこちらの方が正解。

 きーくんはこのクラスでは長良が話しかけていなければ浮いた存在になること間違いなしの暗い生徒。怪我した余と中々深い関係を築いているように思う。きーくんは普段から教室の様子やクラスメイトを気に掛けない。完全自分の領域外にあるものとしてクラスメイトを扱っている。私や長良のこともこっちから話掛けなければ繋がりをもとうとしない。ただ例外的に余にだけは気を配っている。ちょくちょく姿を目で追っているのだ。最初は片思いしているのかと思っていた。けれど修学旅行の時に一緒に札幌の街を回った雰囲気では恋愛的な感情を持っているのは余の方が強いように思えた。それよりなによりお互い大切にはしていて、理解者であろうとしていて一線を引いている様だった。

 それでも自分の事を全く話さない余の事を最も知る人物というのは確実だ。これからも少しずつ話を聞き出したい。

 こういう相手を知りたいという欲求はあまり褒められたものではないだろうと思うけれど、やめられない。

「長良。どうするの。本当にきーくんに頼むつもり?」

 私は横に突っ立ったままの長良に話しかける。

「ああ、適任なのが、あいつしかいない。」

「そう。きーくん、大変そうだけどね。」

「まあ、うん。」

 長良は押しだまる。

 普段は優柔不断な癖、一度決めると強引で頑固になるんだから。

「そ。じゃあ、私、帰るよ。」

「バイト?」

「うん。じゃあ。」

 そう言って私は自分の席から荷物を取りさっさと教室を後にする。

 教室を出る時軽く覗った長良の顔色は特に変化無かった。

 長良はどうせ夏休み課題の確認テストくらいで休みになるような部活ではないし、起きている問題の対策会議を部活連の方でずっとしている。私と無駄な時間を過ごす必要も無い。バイトは早く行けばそこからタイムカードを切れる。早く行った方が得なのだ。……そう思って彼氏を蔑ろにする私は女として失格だろうか。

 まあ、私自身少し余裕が無くなっている。長良にはごめんして貰おう。幼馴染だからか、甘えても大丈夫な気がするのだ。甘えと思われるかどうかは別にして。

 私は下駄箱からローファーを無造作に投げ落とす。靴底のゴムと地面のコンクリートがカーンといい音を立てた。少し五月蠅いけれど帰宅時には下足室のそこら中で聞こえてくる音だ。壁際には数人の生徒がスマホ片手に人待ちをしている。これから誰かと一緒に部活に行く子も下校する子もいる。

 そんな雑多な空間を抜け、外に出ると激しい日差しに襲われる。まだまだ残暑の厳しい九月の初め、シャーシャーとかジージーとかはいなくなったけれどまだまだツクツクボウシは健在だ。花壇の隅でアリがセミの解体工事に勤しみ、行列を作って蝉の廃材を運んでいる。私はそれらを横目に見ながら駐輪場へ歩く。太陽はまだ中天を過ぎたばかりで殆ど影を作らない。風は凪でアスファルトや自動車の上に陽炎が出来ている。

 いつか太陽お前を倒す。

 なんて声には出さないが、恨み言を頭の中に投げ込むと余裕の無くなっていた気持ちが何だか和らいだ気になる。

 余の不在。

 取り敢えずの所はその問題が一番大きい。自分にも一番深くかかわってくる。

 きーくんは余が顔に怪我をしたと、自分の顔を指で大きくなぞって見せた。

 その額、左目、頬を通って真っ直ぐ引いた線から推してみると切り傷のように思える。打撲や擦り傷、火傷などでそんな長く真っ直ぐで細い傷が出来るとは考えにくい。だから切り傷に思える。という事は他傷の可能性が高い。刃物が瞼や角膜を気付けたとなればそう早く出てこないだろう。

 きーくんがすぐに教室から出て行ったのも余の元へ向かったと考えるのが妥当だ。

 やっぱり、軽症ではないのかもしれない。

 入院がどれくらいになるのか分からないし、入院が終わっても自宅療養する可能性も高い。

 そうなるとグループはどうなるのか。初日の今日ですら女子のグループとしては瓦解寸前だった。何とか保っていかなければ私の居場所がなくなりかねない。何とか保って行かないと余が戻って来た時の居場所もなくなる。何とか頑張るしかない。

 それになんとなく先生達の雰囲気も気になる。普通、問題が起きている時には隠さず話すようにと通達して、職員で該当生徒を呼び出して面談を行うというような少々強引なことをするような気もする。しかし今日は全くそんなことは無くて、妙に気を使ってガラス製品でも扱うかのようだった。確かに先生たちはやさしい風だったけれど緊張しているようなそんな感じも受けられた。何かあったのだろうか。あの少年少女が心中を図った「事件」とどう関連しているのか。

 まあまあ調べてみる価値はある。

 そんなことを思案しながら歩いて駐輪場に着いた。

 私は、そこここにたむろしている生徒を避けて自分の自転車を取り出し、すっとサドルに跨って漕ぎ出す。

 一時半にはバイト先の事務所に入れそうだ。


「こんにちは。」

 私は駅の駐輪所に自転車を止めて少し歩き、五階建ての雑居ビル三階にあるバイト先の入り口を静かに開ける。業種は探偵業。

 事務所内に居るのはいつも通り頭の禿げた所長だけ。他の所員は出払っている。私と所長を含めても七人足らずの小さな事務所だ。しかもそのうち二人は画像解析などを自宅業務で行っている。残りの三人も普段から家出中のペット捜索に町中を駆けずり回っているので見かけることは殆ど無い。

 私は荷物を自分の机に置いた後、早速仕事に取り掛かる。

 平日の私の仕事は基本、雑用。掃除をしたり、ばらばらになった書類をまとめたり、来客時にお茶を出したりする。あとは時折来るいじめの証拠や陰口調査の為にSNSを漁るくらいだ。休日は五分二百円でなんでもお手伝いという便利屋みたいなこともしているけれど、平日は室内業務ばかり。

「乙坂さん、コーヒー。」

 掃除が一段落して書類の整理を始めようとしたら、今まで挨拶すら返してこなかった所長が自分のマグカップを頭上に掲げて私を呼んだ。所長の頭髪が淋しい所為で黒の間に覗く頭皮と白いマグカップだけがデスクトップのモニターからはみ出て見えている。窓際のその光景にもの悲しさを感じながら私は返事をする。

「はいはい。」

 私は所長からマグカップを受け取って流しで軽く濯いだのちに水滴を拭って、インスタントコーヒーを入れポットから湯を注ぐ。

「どうぞ。」

「ありがとう。」

 いつもの定位置にマグカップを置くと、所長は画面を注視したまま言った。

 何だか事務処理をしているらしい。

 私は各所員が机の上に置いていった手書きの報告書を内容別にまとめ、所長の机に置く。画像解析などを行っている在宅組は電子メールでの報告だが、犬猫探して三千里している外回り組の報告書は手書きとSDカードに入った画像データだ。所長はそれをまとめ直して依頼人に渡している。基本所長の仕事はその処理と依頼の受付。そのほかにも警察がホームページに上げた事件事故情報などのリストアップも趣味でしている。だから一日中殆ど座りっぱっなしでデスクトップとにらめっこだ。そんな探偵らしからぬ事ばかりして、コーヒーばかり飲んでいるから禿げるのかもしれない。

 今日は犬も猫も捕まっていないらしく、事務所の隅にある一時保管用のケージは空だ。何かしら動物が入っている時はエサをやるのだが今日はその仕事は無しだ。

 後は個人情報などが入った要らない書類を溶解処理してくれるリサイクル会社に送るための専用段ボールに入れて取り敢えず今日の仕事は終わりだ。

 残りの時間は自分の勉強でもしながら何かしら仕事が来るのを待つだけだ。依頼人が来ない限り完全に自由時間だ。空き時間も給料は出ているけれど、特に静かに勉強したり本を読んでいたりする分には文句を言われない。というか無駄に機密事項を見て覚えれるよりいいのからかもしれない。基本的に犬猫と画像解析、それから便利屋業みたいなことばかり請け負っている探偵事務所と名乗るにはおこがましいような所だけれど、時折、いじめやストーカーなどの対策や証拠集めなどを受けることもある。だからむやみに書類の中身を見てはいけないのだ。

 私はお茶を淹れて自分の机に戻り、明日のテスト勉強を始めようと教材を取り出す。

 うん。何から始めたものか。

 確認テストが一日にまとめてあることになってしまったので何からしたものかと迷う。もう普通に各教科とも上位三分の一くらいに入れるくらいには勉強してあるし、特に苦手も得意も無い。だからなのか今更感が強くてやる気が出ない。

 取り敢えず古文の単語帳を眺めながら「ありおりはべりいますがり」なんて言う初歩の初歩であるラ変活用を確認して、後なんか語呂あったっけとか思うと「人並みにおごれや」と浮かぶがこれは三の平方根。違う違うと頭を振る。……似たの無かったか?

 そう思ってペラペラとめくると「ひいきにみゐる」と出てきて、ああ、これだと合点する。全然似てなかったけど多分これだ。上一段活用の語呂合わせ。

 ……全然だめだ。

 やめよう。

 私は無駄に並べた教材を全て片して、支給されているノートパソコンを起動する。

 集中できない理由はテストの予定が変わったからじゃないことなんて分かっているのだ。

 余の事。

 長良の事。

 そして、きーくんの事。

 余の事ははっきり言ってよく分からない。心中「事件」の事と学校の雰囲気、後は入院している病院から調べるくらいしか出来ない。こっちは地道にだ。

 長良の事はきーくんの事と一緒に解決していけばいい。長良の押し付けられたに等しい問題。それに直接私は関わることは出来ないけれど何とか出来る。

 きーくんの事。きーくんの抱えている問題はどこか他人事で、余の事、長良の事その二つを一人で抱えようとしていることだ。だから、その重荷を何とか軽くできるように支えを与えてやればいい。これが一番何とかしやすい。というか他のはどうすればいいのか全く分からない。

 こういうのは悪い癖だとは思っている。けれど分からない事をそのままにしておいて、自分のいない所で物事が進んでしまうことが我慢出来ないのだ。気になってしまってしょうがない。

 まずは「事件」の事からか。いや、この話は大きすぎる。後だ。

 じゃあ、長良の押し付けられた事か。いや、これは学校内の話だ。生徒会長選挙への立候補を押し付けられた上、立会人をきーくんに無理してでも頼みこまずにはいられないことになっている事だ。これは今ここでしなくてもいい。というかここでは出来ない。帰ってからだ。

 じゃあ、余の怪我の事からだ。

 全く何の情報も無いことも考えられけれど、無いなら無いで他をあたればいい。

 きーくんが帰りがけに言っていた様子では他傷の可能性がある。

「所長。ここ一週間から半月くらいで高校生の女の子が顔を切られたとか、殴打されたとか、そういう傷害事件ってありませんでしたか?」

 私がインタ―ネットで県警のホームページを検索しながら尋ねると、所長は猫背になっていた背をのばし見詰めていた画面から顔を上げる。

「ん?どうして。」

 そう言って少し冷め始めたコーヒーをズズズとすする。

「少し気になることがありまして。」

 言葉を濁しつつ、事件事故情報を遡る。

「ああ、そう。ええっと、ちょっと待てな。」

 そう言って所長は自分のパソコンを操作し始める。

 うん、やっぱり優しい。だからこんな中途半端な探偵事務所なんかやり続けることが出来るのだろう。知り合いの引きこもりに画像解析を教えて雇用したり、職に溢れた体力バカの若者を雇用して犬猫探しをさせたり。それに私に軽い雑用だけで時給が貰えるバイトをさせるのも。こんな割のいいバイト、他に無い。

「えっと、高校生で顔に傷だよな。」

 所長は白頭ならぬ薄頭を掻きながら確認する。

「はい。女の子です。」

「二件あるな。データは送った。」

 そういうと所長は自分の仕事に戻った。

「ありがとうございます。」

 私は送られてきたデータを開けつつ答える。

 一件目は火事で顔に火傷とある。もちろん名前は載っていない。しかし、私たちの暮す秋津市の外の高校が見て取れる。違うな。

 私はそのデータを削除して二件目に目を移す。

 二件目は家庭内暴力で娘が顔を母親に切りつけられ、母親は偶々倒れて来た棚の下敷きになり死亡と書いてある。一ページ目の県警ホームページの写しには名前は書いてない。けれど事件が起きたのも娘が通っていた高校も秋津市内という事だ。ひどい事件だ。けれど、可能性はある。

 次のページには新聞の事件事故欄のスキャンデータがあった。傷害を受けた娘の名前は乗せていないが死んだ母親の名前は載っている。

 生原穣

 余と同じ生原姓。ここら辺では珍しい名字だ。可能性は高まった。

 私はその、それ程長くも無い記事を読み進め、そして絶句する。要点をまとめるとこうだ。

 亡くなった生原穣さんが暴れ、娘を切り付けた。その娘は隣家に助けを求めたが、隣人が生原宅に入り込んだ時には穣さんは棚の下敷きになっており、助け出した後も意識は無かったという事だ。また、その家庭は母子家庭で、母親は常日頃から娘に暴力を振るっており、自身は覚せい剤を使用していた可能性もあるという事だった。

 番地までは書いていないが、大字を見ると確か余の卒業した中学校区内の地名が書かれている。さらに余の事である可能性が高まってしまった。

 普通に生活していたら虐待や薬物なんてニュースの中くらいでしか聞くことの無い単語だ。そんな言葉が飛び交う事件が同じ市内で起きていたなんて……。

 当然、私の周りでも私の知らない所で色々なことが起きていることくらいは知っている。しかし、それはやっぱり他人事で、私に痛みをもって伝えてくるものでは無い。

 いや、まだ、これが余の事と確定している訳では無いのだ。

 しかし、しかしだ。

 それでもそういう可能性があるだけで感じる所はある。何も感じないなんて不可能だ

 私はそのデータを自分のUSBに移す。

 それからネットやSNSを漁って誰かが情報を上げていないか探す。

 事故物件の紹介サイトでは新聞に載っていた地区に最近事故物件登録された物件があった。事故死となっている。その他には火事で焼死くらいしかないのでこの家に違いない。

 SNSに関しては田舎の地区である為か殆ど情報が無い。普通の住宅地くらいになれば馬鹿な中高生が無駄に騒いで舞い上がりSNS投稿をする。だから、必然的にまあまあの情報源になるのだけれど……。

 うん。無いな。

 何とか余と生原穣の関係を見つける方法は無いかと色々調べてみたが、全く手ごたえが無かった。

 そんなことをして時間を潰していると事務所の扉がゆっくりと開く。

「すみません。猫を探して貰えると聞いたのですが。」

「はい。どうぞどうぞお入りください。」

 依頼人だ。また猫探しらしい。うちの探偵事務所は犬猫探しの高評価でも受けているのだろうか。

 所長は立ち上がって相談用のソファーを勧め自分も対面に腰を下ろす。

 私は冷蔵庫から麦茶を出してグラスに注ぎ、それからコースターと一緒に依頼人のご婦人の元へ持って行く。

「粗茶ですが。」

「あら、ありがとう。」

 所長が事情を聴いている中、私はにっこりと笑って麦茶を出す。

「所長、見つけました!」

 今度はすごい勢いでドアを開けて所員が入って来た。小脇に猫を抱えている。

「こらっ!入ってくるときは静かにと行ったろう!」

「すみません。この子、ドラちゃんだと思います。首輪にドラちゃんって書いてありましたし特徴も合致してますので。」

 迷い猫を見つけて来た所員は未来から来た青色のロボットをお風呂好きの女の子やお母さんが呼ぶような愛称の名前の猫を両手で持ち上げてアピールする。

「ああああ、分かった。すみません。少し外します。……乙坂さん少しお願い。」

 所長は依頼人と私の両方に謝りながらひとまずドラちゃんを受け取って特徴を確認しだす。

「あの、なんか、すいません。慌ただしくて。」

 私はさっきまで所長が座っていた位置に座ってそういう。こういう時のコミュニケーション、苦手だなあ。

「ええ、大丈夫よ。本当に見つけて貰えるって実感したわ。」

「いえいえ。ええっと……、ではこちらに記入お願い致します。分からないことがあればご遠慮なく言ってください。」

 私はペット捜索依頼用の記入シートとボールペンを渡す。

 横目で見ると所長は猫を一度所員に返しドラちゃんの依頼書を探していた。所員は警戒している猫をなだめているようだ。猫は爪を立て所員の腕を傷つけている。

 私は記入を続けているご婦人を見守りながらながら、部屋の隅で猫から毛が落ちていく事をが気になって掃除しないととか考える。

「書けたわ。」

「ありがとうございます。」

 私はシートを確認する。住所がさっきまで見ていた生原宅の住所付近なことに少し驚いたが、逃げたと思しき場所という欄に「山」とだけ書いてありそこに一番驚いた。

「あの、この山というのは……。」

 私は一応確認する。

「ええ、家の裏が山でね。そっちに行ったような……そんな気がしないでもないような。」

 ご婦人はぼんやりとそんなことを言う。

「はあ、山ですか。私が具体的なことは言えませんが、山は……もしかしたら無理かもしれないのですが。」

「ああ、やっぱりそうよね。」

 ご婦人は残念そうに言う。

「でも何とかなるかもしれませんし、ネコちゃん戻ってくるといいですねえ。ハハハ」

 私はそう慰める。……駄目だ。全く慰められていない。

「そうね。戻ってくるかもしれないわね。」

 ご婦人はにこっと笑みをこぼす。

 何だかそれ程心配している様ではない。山だったら生きていけるような気もする。

 そう少しの間が開いた後、ご婦人は一口麦茶に口を付けた。

「ところでその制服、西高よね。」

「えっ、ああ、はい。そうです。」

 唐突に振られた世間話に私は驚く。

「偉いわねえ。賢い所じゃない。」

「ありがとうございます。」

 失礼にならない程度の挨拶を返す。

 所長はドラちゃんの依頼人に電話をかけ始めたようだ。

「そうそう。生原さんって知ってる?」

「はい!あの、なんと言いました?」

 またもや突然の話題振りに驚く。

 余の事か?

「いや、知らなければいいのよ。生原さんの事。ご近所で最近よく分からない事になってるから知ってるかとおもって。」

「はあ。どなたか西校に通ってらっしゃるんですか?」

 あくまで相手の話に合わせるだけといった感じに答える。その方がいいと思った。

「ええ、娘さんがね。同じ制服を着ていたわ。」

「そうなんですか。生徒は沢山いますからね。そのお宅で何かあったのですか?」

「それがよく分からないのよ。何年か前に旦那さんと息子さんが亡くなられて、今度は奥さんが亡くなったって話なのよ。」

「はあ、それは大変ですね。」

 取り敢えず当たり障りの無い答えだけ返す。

「そうなのよ。警察さんが出入りしたりね。娘さんは帰って来ないし……。」

「中々大仰なことになっているんですね。」

「なにかねえ。よく分からないから怖いし。娘さん。余ちゃんっていうんだけどね。ずっと痩せこけてるし、時々帰って来ない時とかもあるみたいだったんだけど、それでももう十日くらい帰ってなくてね。」

「はあ。」

 生原さんちの余ちゃんか。同姓同名ではないだろう

 私は予想が的中し謎が解けたという事に対する喜びの気持ちと、予想が的中してしまって余が劣悪な生活と悲惨な事件を経ているという事に対する悲しみという二律背反な感情にさいなまれる。

 やっぱり余の事だ。

 新聞記事とこのご婦人の話から考えるにその傷を負った女の子は余と一致するし、生原余という名前の人間がこんなに近くに二人も居るとは考えづらい。認めたくないけれどやっぱり私の知ってる余に違いない。

「だからねえ。何だか怖くって。あなたもそう思わない。」

「まあ、そうですね。入院とかしてるのかもしれませんよ。」

「んー。そう考えるのがいいかもしれないわね。」

「はい。」

 そしてまたご婦人はズズッと麦茶を一飲みし、私とご婦人の間に沈黙が訪れる。

 よくしゃべるご婦人だけど話を続けるのは苦手らしい。

「すみません。お待たせいたしました。」

 二人で微妙な表情をして微笑んでいると電話を終えた所長が帰還した。

「ええ、あの猫ちゃんで当たりだったの?」

「はい。十中八九そうでしょう。」

 私は二人が話始めたのを見て立ち上がり、もう一度ご婦人の空いていたコップにお茶を注いで自分の席に戻る。

 一番謎だった余の事が思いがけないところで大方のピースはそろった。けれど、私にはどうすることも出来ない事だ。解決なんて出来ないし、かといってクラスでこのことを話してもグループの解散を助長するだけだ。余の事の役には何とも出来ない。

 まあ、長良やきーくんの役には立ちそうだけれど……。

 私はそれから、狂喜乱舞しながら事務所を訪れたドラちゃんの飼い主の相手をしたり、手が回らなくなった所長の代わりに外回り組の報告書をパソコンに打ち込んだりと真面の仕事をして、事務所の閉店時間である六時半に帰った。所長はまだ何か作業をしてから帰るようだった。

 まだ外は熱気に満ちていたが、自転車で切る風は心地よかった。


「ただーいまー。」

 私は自宅の玄関をガラガラと開けながら叫ぶ。無駄に広い日本家屋なので少し耳の遠くなり始めたおじいちゃんには聞こえないのだ。

「おーう。」

 おじいちゃんもまあまあの声で叫び返してくる。方向的に台所にいるようだ。

 私は台所とは反対方向の自室に縁側を歩いて向かう。トイレと浴室のある所以外は明治の建物だ。だから平屋で庭も広いけれど不便。

 いつも通り、自分の部屋に荷物を置いてからシャワーを浴びに行く。さっと、自転車で掻いた汗を流して、ジャージに着替えて台所横の食卓に向かう。

「夏穏、運べ。」

 エプロンを掛けて台所に立っているおじいちゃんが背中越しにそう言う。

「はいはい。」

 私は台所に置いてある料理の乗った皿を食卓に運ぶ。今日は茄子の生姜焼きと焼き魚、味噌汁、ご飯だ。

 配膳が終わったところでおじいちゃんはエプロンを外して食卓に腰を下ろす。

「うむ。食べよう。」

 私たちはそろって静かに手を合わせて食べ始める。

 おじいちゃんはよく噛みながらではあるがすごい速さで料理を口に入れていく。

 私もさっと食べたいと思うのだがやっぱり遅いのでどんどん引き離されていく。少し離れた所にある古びた扇風機はブオーンという音を立てて水色の羽をせっせと回している。老体に鞭を打ってご苦労なこった。

 私がもぎゅもぎゅと茄子の生姜焼きに醤油を浸してご飯と一緒に口の中で噛みしめる。

 うん。美味しい。ばあちゃんのに比べたら負けるけど私のより美味しい。六十を超えた後に始めた料理とは思えないくらいだ。まあ、ここ二年は私とおじいちゃんの持ち回りで作っている。そのおかげで上達したきらいはある。

 なんとなくおばあちゃんの味を思い出させてくれるこの料理に感傷的になりながら味わって食べていると、おじいちゃんはもう既に食べ終えていた。

「夏穏。学校はどうだった。」

 おじいちゃんは箸をおいた後、麦茶を一口飲んでからそう言った。コップに入れた氷がカランと音を立てる。おじいちゃんはあんまり話さないけれど一日に一度はこう話を振る。

「なんか突然テストが無くなって集会があったけれど、特に何も無かったよ。」

 私は口の中のものを飲み込んでから応じる。

「そうか。この前あんなことがあったばかりだからの。仕方あるまい。」

「まあ、そうだね。」

 おじいちゃんはおじいちゃんで何故か「事件」の事をよく知っているようで、深く頷いている。

「夏穏、お前も何かあったら言いいなさい。」

「おんおん。大丈夫大丈夫。」

 私は魚を箸で切って口に運ぶ。

「そうか。親もおらんし、今は男の爺しかおらん。言いづらい事もあるだろうし、如何ともしがたいこともあるだろう……。」

 そう言っておじいちゃんは口を噤む。

「もう、大丈夫だって。そうそう、おじいちゃん。明日か明後日かおばあちゃんの所行こうよ。私、バイト休むからさ。」

 私は話を変える。

「うん。……明後日かの。」

 おじいちゃんは少し嫌そうにそう言った。もう、自分の事どころか、言葉すら忘れて、惚けて寝たままになっているおばあちゃんを見るのはつらいのだろう。

 おばあちゃんはいまグループホームに入っている。五年前くらいから物覚えが悪くなったり、物を良く失くすようになったりし始め、三年前から乱暴になり始め、ここ二年はもう上手く意思疎通も出来なくなった。そして、今年に入り始めて粗相を繰り返すようになって、毎日一緒にいるはずの私の事を忘れた。何とかおじいちゃんの事は身内と思ってくれたのだが、私の事を完全に他人と思い初めた所為で介護に携われなくなった。だから、おじいちゃんはおばあちゃんの介護を諦めた。さいわい、息子夫婦に先立たれたことで自分達の介護を家族でして貰うという事を早々に諦めていたらしくその分の貯蓄をしてあった。

「そう、何か甘いものを持って行こうね。おばあちゃん、喜ぶから。」

「ああ、そうしよう。」

「私買ってこようか。明日のバイト帰りとかに。」

「いや、いい。それくらいは出来る。」

 おじいちゃんは背筋を伸ばして固辞した。

 そろそろおじいちゃんも齢だけれど、まだまだ元気で実際より十五は若く見られる。少し心配ではあるがまだ大丈夫だ。私が結婚するまでは元気でいてもらいたいものだ。

「夏穏。バイト、大丈夫か?遅くまで勉強している時もあるだろう。お金の事なら心配しなくてもいいんだぞ。いざとなれば山を売ればいい。」

「今時山なんて誰も買ってくれないって。それにみんな部活をしてるからもっと大変だよ。私は部活よりもっと生産性のいいことがしたかっただけ。それにバイト先も勉強になるし。」

 私はそう捲し立てた後に残りのご飯と味噌汁をがさっと掻き込む。

「これ、女の子は上品に食べなさい。」

「はーい。」

 私は立ち上がって二人分の食器を持って流しに運ぶ。水に浸けておいて寝る前に軽く洗って食器洗浄機に入れておけば、私達が寝ているうちにやってくれる。

「おい、もう八時半だぞ。」

「ああ、ほんとだ。ありがと。」

 私はいつも通りにピルを飲む。

「じゃあ、私は部屋に行ってるね。」

「おう。」

 おじいちゃんはテレビでニュースを見ながら片手を挙げて応えていた。


 私のラヴァーこと鍬柄長良は今、大きな問題を背負わされている。余のような人生を揺るがす程の問題ではない。けれど今後の高校生活を揺るがす程度の問題ではある。

 それは生徒会長になれというものだ。

 現在、我が秋津西高校の生徒会は有名無実化している。きちんと利用できる制度があるにもかかわらず全く機能していない。

 今までそれで問題なかった。教師は法的問題が無い限り生徒の活動に関与しない。生徒は教師の勧める学習に関して反抗する時強硬手段を取らない。そういう不文律が出来ていた。

 しかし、それが破られた。

 職員会議で来年度から部活動が縮小されることが決まったのだ。

 元々部活が盛んな学校ではない。昔、我が校と群制を組んでいた伝統校で、最近自殺者が出た秋津高校のように文武両道を謳って部活参加を奨励している訳では無いし、部活に入ることが偉いことという認識が蔓延している訳でもない。けれど、やる気のある奴は部活動にも力を入れている。そういう奴らに対して今回、規制を始めたのだ。

 それに対して正当に意義を唱えることが出来るのは生徒会だけだ。しかし、全く抵抗しない。どころかそれができるという認識すら曖昧だ。

 その状況に堪忍袋の緒を切らしたのが部活連だ。部活連は運動部活に入っている生徒が有志を募って勝手に組織している団体だ。部活には八割の生徒が加入しているものの、勉強以外に何か熱心に取り組める生徒がいないうちの学校は、彼らの存在はなんとなく浮いていて、半分腫物に触るような扱いをされている。

 そんな組織が生徒会の活動に文句を言っても全く受け入れてもらえなかった。門前払いだ。

 それで、今、部活連の組織員の中で現役の中で、唯一怪我をして試合に出ることに出来ない長良に白羽の矢が立ち生徒会長選挙に出ることとなった。ともあれ、腫物扱いの部活連のメンバー同士で応援しあっても全く他の生徒に響くことは無い。だから、基本的に人との繋がりが浅いきーくんを推薦人代表として立会人にすることになったのだ。

 目の付け所はよかったのだろう。しかし、甘い。

 勢いだけはある組織だが、肝心な生徒会が何が出来て何が出来なくてとかいう詰めを丁寧にしているとは思えない。多分、そういう所が彼らが受け入れられていない理由何だと思うのだが。

 私がその詰めをしてきーくんに直接伝えるしかない。何の関係もないきーくんを巻き込む長良の罪滅ぼしくらいにはなるだろう。

 私は図書室から持ってきた生徒会について非常に詳しく書いてある『生徒会規則』という本を開ける。まだギリギリ生徒会の一部が機能していたころにまとめて後世に残したかった人がいたのだろう。コピー用紙五十枚に渡って生徒会規則の細則とその説明、それから、生徒議会や職員会議に異議申立てをした時の判例のようなものが裏表に印刷されて紐で閉じて図書室の片隅に置いてあった。なんか六法みたい。……想像だけど

 私はその文章からエッセンスを抽出する。中々いい材料だ。朝早くから学校に行って図書室を調べておいたかいがあった。

 明日、きーくんを呼び出したら何とかなるかもしれない。

 よし。見えて来た


読んでいただきありがとうございます。次話は長くなりますがよろしくお願いします。

感想、批判、罵倒、誤字脱字のご指摘などなんでも受け付けております。

よろしくお願い申し上げます。

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