夏のトラウマ
「ねえ、もうやめようよ。危ないよ。」
「あんたばか? このくらいで男がビビってんじゃないわよ。それに今日で夏休みは終わりなんだから思いっきり遊ばなきゃもったいないよ。」
夏の暑さの残る8月下旬。少年は姉と二人で夏休み最後の思い出に、村の川辺へ遊びに来ていた。
「でも、川辺は危ないから子供だけで行っちゃいけないって言われているよ。」
「このくらい大丈夫よ。なんかあったら姉ちゃんに任せなさい!」
姉の強引な性格に弟は普段から振り回されていた。
しばらく歩くと川辺にたどり着いた。
蝉の声と風によって掻き立つ葉の音。そして川の流れる穏やかな音は、おびえていた少年の心を落ち着かせてくれた。
「ねえ、ちょっとあれ見て!」
姉の指さす方向を少年も見ると、そこには天高く伸びた木があり、その枝先には真っ赤に染まった果実が実をつけていた。
少年はゴクリとつばを飲み込んだ。ここまで炎天下の中歩き続けたことで、のどが乾ききっていたのである。
「ちょうどいいわ。あれを二人で食べましょう。」
少女はおもむろに気をゆすったが、果実は落ちてこない。
「しょうがない。姉ちゃんが採ってくるから、ちょっと待っていなさい。」
姉は靴を脱ぎ棄て、木に登り始めた。
「危ないよ! 落ちたらどうするの。」
少年の止める声は少女の耳に入っていなかった。
「やった! 採れたわ。さあ、いっしょに食べま……」
そこまで言ったとき、少女の姿が一瞬にして少年の視界から消えた。少女は足を滑らせて木から落下し、なおかつ川に投げ出される形となってしまった。
「お姉ちゃん!」
「雄馬! 助けて!」
川は二人の想像以上に深く、先ほどまで静かな安らぎを与えていたそれは、死の恐怖を与えるものへと変わっていた。
少年はまだ泳ぐことが出来ず、助けを呼ぶにしても村からは離れた場所ゆえに、助けを求められる大人はいなかった。
自らに出来ることが何もないことを少年は即座に理解した。
「苦……しい……。たす……けて……。」
苦しみもだえる姉を少年はただただ見つめ、目に焼き付けることしかできなかった。
※ ※ ※
時計の針は11:55を指している。まずい。遅刻するかもしれない。
「明日は12:00に待ち合わせにしよう。遅刻しちゃダメだぞ!」
昨日のメールを再び読み返す。「ダメだぞ」の部分が妙に恐ろしく思えてしまうのはなぜなんだろうか。
駐車場に車を止め、大急ぎで待ち合わせ場所の入場口に走る。
「あ、やっと来た! ゆーくん、こっちだよ。」
すでに真礼が待ち合わせ場所につき、手を振っている。時計を見ると12:05。やや遅刻である。
「ごめん遅くなっちゃった。」
「久しぶりのデートなんだから、もうちょっとくらい早く来てよ!」
真礼は少しむくれていた。
「ごめん、寝坊しちゃってさ。」
こうなってしまうと、素直に頭を下げるほかない。一度機嫌を損ねてしまうと彼女の場合どうしようもないのだ。以前クラスの他の女子と仲良さげにしているのを見られ、三日間口をきいてもらえないこともあった。恐る恐る真礼を見ると、
「もう……。じゃあ今日はあたしが満足するまで付き合ってよね。」
と、彼女は微笑んだ。さすがにデート前に喧嘩をするのは、気が引けたのだろう。
「行こう。今日は思いっきり楽しもうね。」
子供のような無邪気な笑顔に僕はうなずいて見せた。
今日は彼女である真礼と久しぶりのデートだ。行先はいろいろ考えた末に、「遊園地」に行きたいという真礼の意見で、ドリームワールドにやってきた。
「大学の勉強はどう? 大変?」
観覧車の中で真礼が僕に問いかけてきた。
「とにかくこっちはレポートが多いかな。あとやっぱり熊沢の夏は暑いよ。そっちは?」
「前期はそこまで大変じゃなかったよ。でも、塾のバイトがあるから忙しいかな。」
僕と真礼は高校卒業後、城南大学に進学した。しかし、同じ大学とは言え僕は工学部で真礼は人文学部である。学部が違えばなかなか会えるものではない。また、僕が在籍するシステム創造工学科は一年次から熊沢キャンパスで勉強するため、ますます会う機会はなくなるわけである。おかげで高校時代は頻繁にデートに行けていたものの、近頃では随分御無沙汰なのである。
「そういえば、ゆーくんは何を専攻するの?」
「今のところ情報系のコース志望だよ。簡単に言えばパソコンかな。」
真礼は不思議そうな目で僕を見た。
「あたしは機械苦手だから、全然わかんないよ。よくあんなのやりたがるね。」
高校の情報の授業でパソコンを使う実習があった際に、真礼は開始三分で画面をフリーズさせていた。確かに機械音痴な人間からしてみれば、情報科学など異世界のことのようなものなのかもしれない。
「中学の技術の授業の頃からパソコンいじりが好きだからね。いつかはプログラマーになりたいな。そういえば真礼はなに専攻だっけ?」
「あたしは古文を勉強したい。それで中学の国語の先生になるの。」
そういえば真礼は中学の頃の国語の先生をずいぶんと慕っていたし、その影響なのかもしれない。同じ中学だったため僕もその先生にはお世話になっていた。
「考えても見ればお互い中学の頃の経験が今につながっているんだね。」
「そうだな。それに僕と真礼が会ったのも中学校の頃なわけだしな。」
「そうそう。転校してきて友達もいない時に、初めて話しかけてくれたのがゆーくんだったんだよね。」
真礼は懐かしそうな目で言った。
たしかあれは体育の水泳の授業の時だった。僕ら二人は見学をしていて、隣にいた真礼に僕から話しかけたのだった。
思えば、あの時の出会いがあったおかげで僕は今こうして真礼と一緒にいられる。僕たちの間を春の暖かい風のような懐かしさがつつんだ。
「そういえば、真礼って前の中学ではどんなだったの?」
「それが憶えてないの。小学校の頃の記憶もあまりなくて。」
真礼の幼少期を知れず、少々残念に思った。しかし、それも無理ないのかもしれない。いらない記憶や邪魔な記憶を消し去る機能が人間の脳にはある。その人が正常な精神で生きていけるようにするための一種の危機回避装置のようなものらしい。それに僕自身も小学校の頃の記憶はかなりあいまいで鮮明に思い出すことは難しいのだから。
「それにしても、なんであの時ゆーくんはあたしにすぐ話し掛けてくれたの?」
「あぁ、それは真礼の雰囲気がなんとなく姉さんに似ていたからだよ。」
真礼が不思議そうな顔をして僕に問いかけた。
「あれ? ゆーくんってお姉さんいたの?」
少し間をあけて僕は答えた。
「……うん。でも僕が小さいころに死んじゃったんだ。だから顔もしっかりは覚えていないんだ。」
「そっか。ごめんね、変なこと聞いて。」
見れば真礼が悲しそうな顔をしている。
「いや、良いんだ。それに今はこうして真礼が一緒にいてくれるから何もさみしくないよ。」
精いっぱいの笑顔を見せた。事実、顔も思い出せない姉よりも真礼がそばにいてくれることのほうが、よっぽど僕には幸せだった。
『お降りのお客様は足元にお気をつけください。』
アナウンスが流れた。どうやら観覧車が一周まわりきったようである。
降りる際に真礼が僕の耳元でつぶやいた。
「ずっと一緒にいようね。」
精いっぱいの力強さで僕は言った。
「あぁ、約束だ。」
※ ※ ※
「ごめん、ちょっとやすんでもいいかな?」
14時を回ったくらいのことである。見れば真礼の顔色が青くなっていた。
「具合悪いのか?」
「うん。さっきから気分が悪いんだ。」
僕の問いかけに、答える声からも弱弱しさが感じられた。
真礼にもしものことがあっては、取り返しがつかない。デートは中断して二人で病院へ向かうことにした。
「ごめんね。あたしのせいでデートが台無しだね。」
真礼は悲しそうな顔をしており、涙を浮かべてすらいた。
「何言っているんだよ。デートなんてまた行けばいいじゃないか。」
「うん……。ありがとう。」
真礼が少し明るい表情になったためほっとした。
「それより、何か具合が悪くなった理由に心当たりはないのか?」
「思いつかないな。ご飯はゆーくんと同じだったし、乗り物酔いとかでもないと思う。」
結局原因はわからなかったが、それも病院に行けば何とかなるだろう。
それよりも、少しでも真礼の気持ちを明るくするために、今日の遊園地での時間を振り返って見ることにした。
「そういえば今日の遊園地何が楽しかった?」
「やっぱりジェットコースターかな。」
高所恐怖症の僕にとってはあんなもの地獄に他ならない。
「えー、あれのどこが楽しいんだよ。」
真礼は笑顔で答えた。
「だって高いところから降りるときのスリルがとっ…………………」
突然停止した真礼に僕は困惑した。
「真礼?」
「…………ってもワクワクするんだもん。」
「あ……そ、そうかもな。ははは……。」
さっきのは何だったのかという疑問を飲み込み、僕はただただ笑うだけだった。
「でもコーヒーカップは苦手かも。目が回って頭がク………………………………………」
また止まった。
「おい。おい真礼!」
「………………………………………ラクラするんだもん。絶対無理だわ。」
目を見開き不思議そうに見つめる僕に真礼は気づいた。
「どうかしたの?」
「い、いやなんでもない。」
とっさに僕はそう言って何もなかったことを装った。
前方に交差点が見えてきた。カーナビのガイドアナウンスが流れる。
その時だった。真礼の目が一瞬で充血した。
『次の信号を右です。』
「ソッカ。ゴメンネ、ヘンナコトキイテ。」
『目的地まで約一時間ほどです。』
「アタシハキカイニガテダカラ、ゼンゼンワカンナイヨ。ヨクアンナノヤリタガルネ。」
どことも言えない方向を見つめ、真礼は声を発し続けた。
「真礼?お前誰としゃべってんだ?」
僕の問いかけにも真礼は顔を動かさない。
「カンガエテモミレバオタガイチュウガクノコロノケイケンガイマニツナガッテイルンダネ。」
「おい! 真礼、しっかりしろ!」
真礼の肩をつかみ、ゆすりながら僕は声をかけた。すると真礼の目は元に戻り、顔つきも先ほどまでのものに戻った。
「あれ、あたし今いったい……。」
不思議そうにしている真礼に僕は動揺を隠しながら接した。
「きっと疲れているんだよ。病院につくまでしばらく寝ているといいよ。」
「でもそんなすぐに眠れないよ。」
「それなら右耳の裏を強く推してごらん。眠りを誘うツボだって病院の先生が前に教えてくれたよ。」
以前風邪で入院した時に医者に聞いた話が役立った。眠れるという僕の言葉を真に受けたのか、思った以上に彼女はすんなり眠りについた。
さて、これはただ事ではない。僕はカーナビの行先を近くの町病院から大学の付属病院へと変更した。
ここなら特殊な病気にも対応出来るはずだ。きっと彼女のことも何とかしてくれる。今はそう信じるしかなかった。
※ ※ ※
しばらくした後、病院へ到着した。担当してくれたのは天馬教授という人で、以前に僕がこの病院に入院した際に担当してくれた先生だった。
「やあ、こんにちは。今日はどうしました?」
先生は物腰柔らかに笑顔で話しかけてきたが、こちらは落ち着いて会話をできるような状態ではなかった。
「真礼がおかしいんです。お願いです。あいつを助けてやってください。」
必死に訴える僕を見て、先生の目の色が変わった。
先生は隣にいた助手と何かいろいろ話をした後、
「ミサト君、彼女を奥の治療室へ連れて行ってくれ。」
「はい、先生。」
というやり取りとともに真礼を別室へと連れて行ってしまった。
「先生、真礼は助かるんですか?」
心配する僕を先生はなだめた。
「そう慌ててはいかんよ。まずはこれを飲んで落ち着きたまえ。」
先生の差し出したコーヒーを飲み、深いコクと温かさが一時的に心を静めた。
「さて、先程の彼女が真礼さんで、君が雄馬君だったね?」
僕はこくりとうなずき、先生は話し続ける。
「二人とも19歳で大学一年生か。おっ、君たちも城南大学か。私の後輩というわけだね。」
先生の声のトーンがやや高まったことを感じ取った。
「城南大は二年次から移行があるから大変だよね。私も引っ越しは苦労したよ。あと、同じ学部でも別学科とは講義やレポートの量が大違いで大変だったなぁ。」
懐かしそうな目で学生時代を語る先生だったが、戸惑う僕に気が付き、話題は元の真礼の件へと戻った。
「真礼はもう元には戻らないんですか?」
不安な気持ちをぶつける僕に、先生は即座に否定した。
「いや、そんなことはない。ちょっと回路がショートしているだけで、修理すれば何とでも……。」
「え、ショート? 修理? 何を言っているんですか?」
「あ……いや、違うんだ! 修理じゃなくて治療だね。変な言い間違いをしたもんだ。ハハハ……。」
先生の様子がおかしいことは明らかだった。
その時、奥の病室から先ほどの助手と真礼の声が聞こえてきた。
「この回路をこうかな?」
「アンタバカ? コノクライデオトコガビビッテンジャナイワヨ。」
「それともこの管をこうかな?」
「ショウガナイ。ネエチャンガトッテクルカラ、チョットマッテイナサイ。」
確かに真礼の声だ。でも何かおかしい。しゃべっている内容もそうだが、声がまるでコンピュータの作り出したような無感情なものだった。
「あの、いったいあれは何をやっているんですか。」
問いかける僕に先生は目を泳がせながら答えた。
「いや……、治療だよ。ちょっと採血に痛みが伴うから声を出してしまっているんだ。よくあることさ。ハハハ……。」
なおも部屋の奥から声は続く。
「あ、わかったぞ。こういうことか。」
しびれを切らした先生が声を上げる。
「ミサト君、少しは静かにできんのかね!」
助手は申し訳なさそうな声をあげて出てきた。見れば彼が推す車椅子には真礼の姿があった。
「すいません、教授。ですが、ようやく治療が終わりました。」
先生は気を取り直して僕に明るい声で告げた。
「さあ、雄馬君。これでもう大丈夫だ。あとは眠りから目覚めれば真礼さんは元通り元気になるぞ。」
無論、今の僕にはその言葉だけですべてを終わらせえることは到底不可能であった。
「先生! いい加減本当のことを教えてください! いったいさっきからどういうことなんですか。真礼にいったい何が起きたんですか?」
問い詰める僕に先生は悩んだ末に重い口を開いた。
「そうだね。君たちも来年には成人だ。少なくとも雄馬君、君には本当のことを教えておこう。」
先生が僕に問いかけた。
「雄馬君、君には兄弟がいるかい?」
「姉が一人。でも、僕が小学校の頃に亡くなりました。」
幼き日のトラウマを思い出し、僕は少し顔をしかめてしまった。
そして先生は僕に言った。
「もしお姉さんが今も君のそばにいるとしたらどうする?」
いったいこの人は何を言っているのだろう。どこかおかしくなってしまったのではないだろうか。
「あの、どういうことですか。」
「そうだね。順を追ってはなそう。」
先生は手元のコーヒーを飲み込み語り始めた。
「12年前、私はこの病院に配属されたばかりだった。その年の夏、ある事件が起きた。」
僕の脳裏にあの夏のトラウマがよみがえる。
「もしかして、姉さんが死んだあの日のことですか?」
違うという答えを期待してみたが無駄だった。
「そうだ。彼女は川でおぼれた末に呼吸停止状態で当病院に搬送された。しかし、体内の機能はほぼすべて停止していたため、蘇生はほぼ不可能だった。」
あの日の姉さんの叫び声が頭の中でこだまする。顔を青ざめる僕になおも先生は話をつづけた。
「そこで私たちは君のお姉さんに、ある最新医療技術を施すことにしたんだ。」
「それって一体……。」
恐る恐る問いかける。
その瞬間先生の声が低く重いものへと変わった。
「体内機能システム化プログラム。すなわち、サイボーグ化だよ。」
僕は先生の言葉に頭が真っ白になった。
「サイ……ボー……グ?」
その言葉の意味を僕には自力で理解できなかった。
「そうだ。そして私たちの治療は無事成功し、お姉さんは助け出された。」
「ちょっと待ってくださいよ! 姉さんが生きているってどういうことですか! それに真礼と一体何の関係があるんですか!」
突如としてそんなことを言われても、理解をできるわけがないのである。
息を荒げる僕に、先生はなだめるように語った。
「まあ、聞きたまえ。私たちは早速君の元へお姉さんを帰すつもりだった。しかし、予想外のことが起きた。雄馬君、君があまりにも自己のトラウマに苦しむ故に、君はお姉さんに会うことが出来なくなったんだ。おそらく罪の意識から自分を守るための危機回避装置が働いたんだろう。まあ、その記憶も封じているかもしれんがね。」
言われてみれば、確かに僕は幼少期からの姉との思い出はあれど、姉の顔がはっきりと思い出せない。単に昔のことだから忘れてると思っていたのだが、もしかすると、それも過去のトラウマを恐れてのことだったのかもしれない。
「そこで私たちは新たな策をとった。お姉さんの顔を変え、他の家族に引き取らせ、別人として生きていかせることにしたんだ。」
先生は間を開けて、言葉を発した。
「そしてその結果生まれたのが彼女だ。」
先生は立ち上がり、車いすに視線を向けた。
「真……礼……?」
首をしたに傾け、無表情に床を見つめたまま動かなくなった彼女がいた。それは僕の知る元気いっぱいで笑顔を見せてくれたいつもの真礼とはかけ離れていた。
「そのとおり。しかしまた予想外なことが起きた。彼女の中学校の転校先に君がいたんだ。しかもその二人が交際関係に発展するとはね。」
「そんな、真礼が……そんな……。」
「もしかしたら君は、顔は違えども、お姉さんと同じ何かを彼女に感じ取ったのかもしれないね。」
「ちょっと待ってくださいよ! 真礼が僕の姉さんで、しかもサイボーグだなんて。そんなの信じられないですよ!」
どれだけ科学的な理屈をつけられたところで納得なんて出来やしない。今までずっと大切に思ってきた真礼がサイボーグだったなんて、受け入れられるわけがない。
「雄馬君、君をだまし続けてしまって本当に申し訳ない。」
うつむく僕に先生は語り掛けた。
「でも聞いてくれ。君は真礼君のことを愛しているかい。」
僕は静かにうなずく。
「そうだろう。君がこれまでたくさんの楽しい思い出を一緒に作ってきたのは全部この真礼さんなんだよ。これまで君のことを愛し、君の支えとなってくれたのもこの真礼さんなんだよ。」
僕の中で真礼との思い出がよみがえっていった。初めて会ったあの日から僕のそばにいつも真礼はいてくれた。楽しいことや悲しいことを共有しあってきたのは他ならない真礼だった。僕にとって彼女はすべてだった。
「だから、これからも真礼さんを支えてくれないか? お願いだ。」
必死に訴える先生の目に僕は決心した。
「わかりました。もう人間かどうかなんて関係ないです。大好きな真礼をこれからも支えます。」
たとえどんな残酷な現実があろうとも、これからも真礼とともに生きていこう。
僕の瞳からその覚悟をくみ取った先生は、力強く言った。
「よし、その答えが聞ければ安心だ。真礼さんを起こすことにしよう。」
そういう先生であったが、僕の中には不安が残る。
「真礼は本当に元に戻るんですか?」
ピクリとも動かない彼女を見つめながらつぶやく僕に、先生はなおも力強く言った。
「12年も前のプログラムだからね。どうやら遊園地の遊具が発する強い電波で回路がショートしてしまったらしい。だが心配しないでくれ。こうすればすぐ元通りだ。」
先生が真礼の首筋を強く三回押すと、真礼はその瞳をゆっくりと開き、僕を見つめた。
「…………あれ、雄馬どうしたの?」
それはまぎれもなく僕の知るいつもの真礼だった。
「何でもないよ。さあ、帰ろう。」
僕は真礼の手を取り、先生に一礼した。
「真礼を助けていただき、ありがとうございました。」
先生は僕に微笑み、語り掛けた。
「彼女を支えられるのは君だけだ。しかし、くれぐれも無茶をするんじゃないぞ。」
僕は静かにうなずき、状況が分からず不思議そうにする真礼とともに病室を後にした。
「なあ、真礼。」
帰りの道中、こんどは僕が真礼にささやいた。
「ずっと一緒にいような。」
いつもと同じ笑顔で真礼はうなずいた。
※ ※ ※
「ここがいいな。止めて。」
帰りの道中で気分転換に少し散歩をすることにした。
真礼が止めてといったのは堤防だった。
波の穏やかな音と潮の香りが気分転換にはちょうどいいのだろう。僕も真礼もあまり泳ぐことが得意ではないため海やプールに行くことはほぼ無いのだが、そんな僕たちでさえ大自然を目の前にすると心が洗われるような感覚に落ちる。
「やっぱり海って大きいな。こんな大きいもの見ると自分の悩みとかどうでもよくなっちゃうよね。」
偶然にも僕も同じことを思っていた。もっとも先ほどまで抱えていた悩みはまったく小さくなどないのだが、それでもこの大海原を前にすればちっぽけと言わざるを得なく感じるのだから不思議だ。
真礼は堤防のギリギリまで近づいて、水面を見つめる。
「そんな近づくと危ないぞ。」
僕の注意する声にも真礼はおどけたように言った。
「大丈夫だって。このぐらい全然へい……。」
その時突然強い風が僕たちを襲った。僕は特に問題はなかったが、真礼は先ほどまでの疲れもあってかバランスを崩してしまい、さらに堤防から海へと落下してしまった。
「雄馬! 助けて!」
海は二人の想像以上に深く、先ほどまで静かな安らぎを与えていたそれは、死の恐怖を与えるものへと変わっていた。
助けを呼ぶにしてもあたりにほかの人は見当たらない。もう自分が助けるしかない。それは僕にすぐわかった。
「苦……しい……。たす……けて……。」
なおもおぼれ苦しむ真礼を前に、12年前のトラウマがよみがえる。
行かなくては。それは頭では分かっている。それなのになぜなのだろう、足が一歩も前に出ない。確かに僕は泳げないが、だからといってじっとしていられる場合じゃない。それはわかっているはずなのに。
何もできない自分に絶望し、天を仰いだその時だった。
先ほどまでなかったはずの大きな木がそびえ立っていた。木の枝には赤く染まった大きな実が一つなっている。
その果実に僕が気が付いたとき、それは僕めがけて落下してきた。そして僕の頭部に音を上げて直撃した。
強い衝撃が頭を駆け回ったその瞬間、僕の中で張りつめていた糸がぷっつりと切れた。あれほどまで動かなかったはずの足が意識するまでもなく走り出していた。
「真礼! 今助けに行くぞ! 」
そう叫ぶと、僕は海の中へ飛び込んだ。
※ ※ ※
「教授、急患です。」
助手のミサト君から連絡が入る。搬送されたのは19歳の大学生二人ということだった。他の医師がまだ院内にいるこの時間に、わざわざ私に声がかかるのだから、大体の事情は察した。
急いで治療室へとやってくると、すでにミサト君が準備をしていた。
「教授、お待ちしていました。こちらです。」
搬送されてきた二人をミサト君が運んできた。
「こ、これは……。」
見れば、それはつい数時間前に私が治療したばかりの患者であった。しかも今度は付き添いの男も含めた二人である。
「どうやら海水でやられたようです。一刻も早い修理が必要です。」
一瞬の間を開けずに、私は彼の見立てに指摘した。
「ミサト君、修理じゃなくて治療と言いたまえ。」
「これは失礼しました。」
全く、彼はいつもこうだ。仮にも医療人として働く以上、発言には注意しろといってきたのはもう何度としれない。
だが、それにしてもおかしい。故障の理由は海水による塩分が回路をショートさせたからだろう。それよりもなぜ彼らは海に入ったのだろうか。特にこの男の患者の場合、本来ならそんなことはありえないのだが。
「教授、これを見てください。」
ミサト君が男の患者の頭部を指さす。そこには大きなあざがあった。
なるほど。原因はこれか。何かしらの刺激が頭部に与えられたことで危機回避装置が故障したのだろう。本来は体内の電子回路に異常が加えられないように海や川といった水場は無意識のうちに避けるようにプログラミングされているのだが、こうなってしまってはそれも意味をなさないのだ。
大まかな見立てとカルテを書いた後、それをミサト君に手渡した。
「よし、あとはミサト君に任せる。体内の重要回路の交換と危機回避プログラムの修復を頼む。」
「了解しました。」
患者を一任したのち、私は治療室の隣にある休憩室へと向かった。今日は急患が多くて対応につかれてしまった。休憩がてら少し仮眠をとることにしよう。
アラームを設定し、ソファーに横になりながら、ふと考え事に耽った。
私が医療生命システム技術員として勤務してからもう長い年月が経つ。人類の医療技術の進歩は素晴らしものであるが、この仕事をしていると、どうにも私にはそれを肯定しがたく思えるときがある。
私が大学時代に学んだ技術で多くの命が救われている。だが、それは本当の意味で救われたといえるのだろうか。もし彼らが自分の体の真実を知ったとき、それを受け入れられるのだろうか。
そもそも、この技術は生命倫理の論点からまだ一般公開はされていない。あの青年だって、よもや自分に当てはめて考えてなどいないはずだ。
おそらくこれから自分がサイボーグだと気づかずに生きていく人は増えていくに違いない。もしかしたら、私のそばにいる人たちも必ずしも人間ではないのかもしれない。
さて、物思いはここまでにして、ちゃんと仮眠をとるとしよう。私は耳裏を強く押した。程無くして睡眠誘導装置が作動し、瞬く間に私は深い眠りについた。
了
私の夏休みは基本トラウマありきです。