09 追見
ベルフォルマの御曹司がホテルに滞在して、3日目。
昨日、どうしてキール・ベルフォルマの従者が東棟にいたのか、その理由はすぐに知れた。どうやら、ホテル従業員の勤務姿勢を、抜き打ちで見に来ていたらしい。
もしかしたら、また抜き打ちがあるかも知れないと、浮き立つ同僚たちの話を耳に入れていたアンナは、同じように浮ついた。
そのせいで上の空になってしまい、その日の仕事は散々で、アンナは指導係からお叱りの言葉を何度も受けてしまった。
そして結局、彼の従者たちが抜き打ちをしに東棟へやってくる事は無かった。
ベルフォルマの御曹司がホテルに滞在して、4日目。
中庭へ出ている時に、従者とおもわしき人の姿を遠くに見かけたが、それよりもアンナは、キール・ベルフォルマ本人の姿を、もう一度見たかった。
だから、仕事に支障をきたさない程度に、アンナは西棟の方を何度も眺めていた。
聞いてしまったのだ。ベルフォルマの御曹司は、5日目の宿泊最終日、西棟の裏門とは別の門から出立予定なのだということを。
これでは、来た時と同様に自室の窓から覗き見ることすら、もう出来なかった。
西棟の20以上ある客室の窓に、視線をさまよわせてはため息をついていたが、しかし、その日の夕刻、アンナはついに有力な情報を掴んだ。
一日の業務を終えてから、駆けるように従業員部屋へと戻って、同室の2人に伝える。
「エルシー、クリスタ、聞いてください。キール様は明日、ここを出立されてから劇場レ・クランでの公演を観劇されるそうです」
ドアを開くなり、意気込んで情報を披露したが、2人からの反応は薄かった。
「――え、あ、う、うん。そう、らしいね」
「はい」
「……ていうか、それ、4日くらい前から言われてたわよ。今ごろなの?」
「……はい」
「い、いいと思うわ。その方がアンナらしいわ、うん。それで、それがどうしたの?」
クリスタの呆れた様子に、エルシーが見かねたように先を促した。
「えっと、はい。実は私、その日に丁度お休みをいただいておりまして、ですので、私も劇場に行ってみようかと思います」
「…………」
「…………」
黙ってしまったエルシーとクリスタに、アンナは2人の顔を見比べる。
2人とも何か言いたげな顔をしており、クリスタが先手を取った。
「そう。それで、チケットは?」
「…………ちけっ、と?」
首を傾げるアンナに、クリスタは額を押さえ、エルシーは何か言おうとして、そのまま固まった。
アンナは―――アンジェリカは、舞台演劇を見たことがある。ほとんどが王城に一座を招く形だったが、1度か2度ほどは大衆劇場まで下りていったこともあった。
もちろん特別に設えられた席からの観覧だったが、その時は劇場の仕組みについても一通りの説明を受けていた。しかし、“チケット”という言葉には、とんと覚えがない。
「……アンナって、本当に地方の村出身なのね。最初は、どこか良家の箱入り娘くらいに思ってたけど……」
クリスタはため息をつきながらも、チケット制度について教えてくれた。
それは前売り券というもので、劇場にある席を前もって予約するもので、当日の券がないと観劇どころか、おそらく劇場内にも入れてもらえないらしい。
そして、チケットには枚数制限があって、旧都市ミラで一番有名な劇場『レ・クラン』のチケットは、まず間違いなく売り切れだと断言されてしまった。
先ほどの意気込みが、嘘だったかのようにアンナはうつむく。
「あ、けど、ほら。これで最後ってわけじゃないと思うし。もしかしたら、また今度に機会があるかも」
「――でも」
「え?」
「でも、もう一度、お姿を拝見できるかもしれませんよね」
「…………アンナ?」
エルシーの助言に、アンナは自分へ言い聞かせるように言った。
「ひと目だろうと、お会いできるのなら、私は行きます」
もう一度確かめたかった。
西棟の裏門でギルバード王子とよく似た姿を見た時、まるで姿絵を見るような気持ちになったのは、何かの間違いだと思いたかった。
きっと緊張していて、そう感じてしまったのだと。
だからもう一度、どうにかして確かめたかった。
5日目の出立日、彼は西棟の裏門から出発しないが、その代わり、その後の予定が分かった。しかも、アンナがほとんど身動きを取れないホテルから外に出てくれる。今回だって充分にまたとない機会だと思えた。
アンナが自分の中で決意を固めていると、部屋がやけに静まり返っていることに気付く。
エルシーとクリスタの2人が、また何かを言いたげにアンナを見ていたが、今度は2人とも何も言い出さない。
「どう、されました?」
「……ううん。何でもない」
「そうよ、何でもないわ。……それより、アンナ。ちゃんと夕食とってきた? もしまだなら、早くしないと片付けられちゃうわよ」
「そうでした。まだでした。では、すぐに頂いて戻ってきますね」
アンナは2人に言い残すと、部屋をあとにした。
「……どうしよう、クリスタ。今、ちょっとだけアンナを怖いと思った」
「…気にしなくていいわよ、私もだから」
言って、2人は顔を見合わせる。
「ねえ。アンナはどうして、あんなにキール様にこだわるのかな? ただの憧れとかじゃないのかな?」
やや怖じけた風のエルシーに、クリスタは少し考えた様子を見せた後、口を開いた。
「お会いしたいのは、キール様じゃなくて、ギルバート様だったりして」
「え。……それって…?」
「――…やっぱり、なんでも無いわ。忘れて」
「えっーー。何それ、何それっ!」
エルシーは彼女に突っかかっていくが、クリスタが続きを口にする事はなかった。