07 街市
「……でも、大丈夫なんですか? 話がけっこう大きくなっている気が……」
ネイサンの問いに、キールは意外そうな顔をする。
どうして今さらそんなことを聞くのか、そう言っている顔だった。
「だからキール・ベルフォルマには、自分をギルバート王子だなんて一言も言わせていないんだろ。あくまでも噂の範疇にとどめている」
「……ええ。でも、自分をアンジェリカ王女だと名乗り出る人も、ひっきりなしに増えてますよね。中には、業を煮やして――とか、あるんじゃないですか?」
ああ、とキールがこぼした。
「つまり、義弟くんが心配だと」
「……はい」
ネイサンには義弟がいる。義弟は、本物のキール・ベルフォルマを知る数少ない人間の一人だが、今はネイサンと同様、彼の手駒として働いていた。
その主な内容は、自分をアンジェリカだと自称する人間に、間接、もしくは直接接触してその真偽を確かめるものだった。
「その辺は問題ないよ。ここには、セントリーズ領主という抑止力があるから」
「…領主様が?」
「そう。あの人は表向き、旧王家のコレクターのように振る舞っているけど、あの一族の忠誠心は変わらずひとつの所にしかない。ただ、王家滅亡以後、セントリーズはゼノア王国の一部だったから表だって行動できなかっただけだ。でも、それも今じゃ必要がなくなってきている。ゼノア王国も、今じゃ立派な立憲君主制国家だから」
そう、かつての強権力を失った生国を、キールは他人事のように評する。
「要するに、セントリーズ王家の信奉者であることを隠す必要が無くなった、そんな領主様のお膝元で、アンジェリカを騙るということがどういうことか。それをね、一人一人、懇切丁寧に教えてあげるよう、ヨハン君にはしっかり指導してあるんだよ」
「…………」
「さらに言えば、それによって我が商会が何らかの被害を被るようなら、それなりの損害賠償も支払ってもらいますって、目の前で数字を読み上げるよう言ってあるし」
「…………」
うちの義弟に何をさせているのかと、文句のひとつも言いたかったが、実は義弟の方が積極的に動いてることをネイサンは知っていた。
「まあ、それでも付き纏ってくる奴は居るかもね。よほどの愚者か、でなければ―――」
「でなければ?」
先を促したが、しかし、彼は黒く笑うだけで、その答えは結局得られない。
「ともかく、ヨハン君なら大丈夫だと思うよ。その辺の子よりも、ずっと要領がいいし。何より、あの子の勘付きの良さは本物だ。天賦の才だと言っていい。はっきり言って、あの子が本気で逃げを打ったら、たぶんボクでも捕まえられない。そのあたりは、君の方が良くわかっているだろうに」
「……ええ、まあ」
「なら、心配するだけ損だと思うけど」
「それなら…いいんですけど……」
ネイサンは、ひとまずそれで引き下がった。
だが最近、自分の知らないところで、キールと義弟が何やらしている気がしてならなかった。なにせ、時々ヨハンは、手や腕やに痣をこさえてきていた。
危険な事なんて、昔は日常茶飯事だったが、今は違う。
だから、かえって気になってしまうのだが、どうやら自分には、まだ知らされない事のようで、ネイサンは複雑な気分を残したまま、フロックコートを脱ぎ始める。
キールも、話を切り上げるように、従者の仕事へと戻るように動き出した。
「あとは、王女様だけなんですけどね……」
ため息混じりに、口から出ていた。
「…………」
口にしてから、ネイサンは気付く。
ため息混じりに言えば、それがどう聞こえるのか。だが、もう手遅れだった。
部屋の温度が、急激に下がっていく。
ネイサンはそう感じずにはいられなかった。振り返っていたはずのキールが、無言でネイサンを見ているのだから。
旧都市ミラにまつわる一連の話が、故意に流布されてから、すでに数年が経っている。だというのに、彼を訪ねてくるのは虚言癖のある偽物ばかりで、本物のアンジェリカ王女は未だに現れる気配がない。
そのせいで、どれだけキールが気を揉んでいるか。けっして表には出さないが、態度に出さずとも、その心中が穏やかでないことぐらい、考えずとも分かることである。
それをネイサンは、わざわざ抉るように言ってしまっていた。
なぜ彼女は、現れないのかと。
「……あの、違うんです。今のは、そういうことじゃなくて…………」
「――違うって、何が?」
「……その」
ネイサンは失言を後悔する。
最近のキールは機嫌が良かっただけに、余計にそう思ってしまう。
もうすぐ、セントリーズの領主が、王家の所蔵品を開放してくれるかもしれなかった。
そうすれば、アンジェリカ王女の遺品に触れられるかもしれなかった。
そのことが、彼の機嫌を良くしていたというのに―――ネイサンは、久しぶりにあの目を見ていた。
死地どころか、死そのものに踏み込んだ人間の目。
はじめの頃、ネイサンはその目の意味が分からなくて、得たいの知れない人間の恐ろしさというものを嫌と言うほど味わった。
「……何も違わないよ。君の言うとおり、あとはアンジェリカだけだ。だから捜さないとね、見付かるまで。永遠に」
ネイサンは、口を噤む。
とどのつまり、自分も永遠に付き合わされるということなのだが、とてもではないが、口答えできる雰囲気ではなかった。
「……だから君も、自分の役割を果たさないとね。君は、君の大事な義弟妹たちのために、せいぜい働いてみせなよ」
「――はい」
素直に頷いたためか、それとも、故意ではないと彼も分かっているからか、キールからそれ以上の言及は無かった。
彼は、そのまま一言もなく、黙って部屋を出て行く。
おそらく別室で荷物の確認をしている、もう一人の従者の手伝いに行ったのだろう。
彼が扉から出ていって数秒後、ネイサンは盛大に安堵の息をついた。
キールと出会った当初、まだ11歳だった彼に15歳のネイサンは徹底的に―――あけすけに言えば、物理的に叩きのめされた事がある。もちろん顔以外を。
あの時は、キールの言葉に一切耳を貸さなかったネイサンが悪かったのだが、それでも、その時の屈辱と恐怖が思い出されて、背筋が冷えていた。
部屋に入った時の疲労感とは、まったく別の憔悴を感じてならず、ネイサンは外の空気でも吸って色々落ち着けようと部屋の窓をあけた。
明け方独特の清涼な冷気が、心地よく肌を撫でる。
清涼な空気を肺に流し込めば、心の中もいくぶんか清涼化されたような気がした。
ふと眼下を見下ろした。ホテル西棟の最上階からは、旧都市ミラの景観が一望できた。
左右に斜面を吹き下ろした切り妻屋根。朝日に照らされたジグザグな陰影の中には、不規則に並んだ煙突の群れ。そこかしこから煙があり、そこに暮らす人々の朝支度が、もうはじまっていることを伝えてくる。
「…………」
この穏やかな朝の光景は、しかし、数年前までそこに存在していなかった。
それはまぎれもない事実なのに、そう言われてもネイサンはうまく想像できない。
ただ、旧都市ミラに鉄道が引かれて以来、ここには途方もない物量の資材が投入されたのだと聞いている。
今では、それだけ投資に見合うだけの利益を、この都市はあげているらしい。
出された結果に、ベルフォルマの当主はたいそうご満悦らしく、この旧都市ミラをビジネスモデルにして、新たな観光地の模索をすでに始めているのだとか。
けれど、成功する保証など、どこにもなかったはずだ。
それでもキール・ベルフォルマは実行した。
たとえ成功する確率がゼロだろうとも、彼は旧都市ミラの開発に何が何でも着手していたに違いなかった。
アンジェリカ王女を捜すために。
めぼしい産物もない旧都市に鉄道を引いたのも、廃れていた都市に資材を投入したのも、セントリーズの悲恋とキール・ベルフォルマの存在を噂にしてばら撒いたのも、アンジェリカ王女を旧都市ミラへと呼び寄せるためだ。
ギルバート王子と同じように、アンジェリカ王女も生まれ変わっていると信じて疑わない男に、一切の迷いなど無かっただろう。
それでも、呼び寄せるためだけなら、ここまで都市を整備し発展させる必要は無かったようにネイサンは思う。
おそらく、旧王都の現状を知ったアンジェリカに、無用な嘆きを与えたくなかったのだろう。鉄道やら観光やらも、裏を返せば、できるだけ安全な旅路をアンジェリカ王女の足下に敷くためになっている。
アンジェリカ王女のため。それが最も顕著なのは、旧都市ミラの異常と言える治安の高さだろう。彼がここまで治安整備に力を入れたのは、少なくとも自分の手が届く範囲でアンジェリカ王女を危ない目に遭わせたくなかったからのはずだ。
そして、そのひとつひとつを完備し、行き着くところまで行き着いてしまった彼は、ついにアンジェリカ王女のために王城を再建する計画まで立ち上げてしまった。
常軌を逸していると、ネイサンは思う。
そう思うのに、常軌を逸した男によって築かれたはずの都市は、ひどく美しい街並みをネイサンの眼下に広げていた。
さっきの軽はずみな発言を、別の意味で後悔した。
まるで、聞こえてくるようだった。
旧都市ミラは、王女の名前を叫び続ける、一人の男の声で溢れかえっている。