06 主従
その場にいる誰よりも上等な衣服に身を包んだ男は、出迎えてくれた支配人との形式的な挨拶を終えてから、ようやく客室へとたどり着いた。
「……疲れた」
部屋に入るなり、男はこぼす。値の張るフロックコートが皺になることも気にとめず、ソファへとなだれ込む。
「まだ早朝だよ。ていうか、どうしてそんなに消耗しているんだか。いつもと同じでいいよ。商談や面談じゃ、王子様スマイルにもすっかり慣れたもんだろ」
男の傍らで、辛辣な言葉を投げかけてくるのは、簡易なシャツとベストに身を包む従者の格好をした10代半ばの青年だった。
男はソファからのろのろと起き上がり、その上にきちんと腰を下ろす。
「商談や面談は、時間制限があるじゃないですか。でも、これから5日間ずっと、気を張っていなきゃいけないと思うと、それだけで精神が消耗されていく気分です」
男の反論に、しかし、見かけ従者の彼は、ふーん、という気のない返事しかよこさない。
灰色の髪に、灰色の目をした、先日16歳になったはずの従者は、ベストのポケットからおもむろに懐中時計を取り出す。
その光景に、男はうっと呻きたい気持ちをこらえた。
男は、全てのスケジュールを従者によって管理されていた。
「でも、まあ。今回の目的は、関係者以外の人間を西棟まで手引きするような不届き者がいないかの調査だから、外出は控えてもらうんだけど。このあと、ご領主の来訪について支配人との打ち合わせを終えたら、今日は部屋に居ていいから」
男は、ほっと息をつくが、すかさず釘を打たれる。
「安心するのはまだ早い。だから代わりに商売のお勉強をしてもらうってことだよ。外面の矯正だけ急いだとはいえ、いつまでも従者に任せきりじゃ、さすがに怪しまれる」
がくり、と男の肩は落ちた。
「ただでさえ鉄道事業は拡大の一途をたどっているんだから、すでに旧都市の顔で、商会の代表でもあるベルフォルマの御曹司の出番も、どうあったって増やさなきゃいけない。世間的には、君がその御曹司って事になってるんだから、1日でも早く、どこに出しても恥ずかしくない御曹司にならないとね」
そう言って、屈託のない笑顔を向けてくる彼に―――本物のキール・ベルフォルマに、男は恨みがましい視線を返した。
本物よりもずっと上等な衣服に身を包み、さも主人だと主張する出で立ちの男は、本名をネイサン・キールといった。
むろん、ベルフォルマ一族とは何の関係もなく、孤児院出身であるネイサンは本来なら“キール”という名字も持たないみなしごだった。
与えられたのだ。本物のキール・ベルフォルマから。その方が色々と都合がいいからと。
ネイサンは、その名前ごと自分の人生を彼に買われていた。
本物のキール・ベルフォルマがネイサンを買った理由はただひとつ。ネイサンの顔がセントリーズの悲恋に描かれるギルバート王子に似ていたからだ。
ギルバート王子の顔をしたネイサンが、孤児だった事を知る人間はほとんどいない。
商工会議所の面々どころか商会の人間ですら、ネイサンをベルフォルマの御曹司だと、そして本物のキール・ベルフォルマを、御曹司の従者だと信じ込んでいる。
この入れ替わりの事実を知っているのは、キールの父母と、キールの実家の使用人。あとはセントリーズ現領主と、ネイサンの一番上の義弟だけだった。
常識的に考えて、実子、それも跡継ぎを別人に仕立てるなど不可能に近いはずである。
しかし、キールの父親は変人だった。
ネイサンも身をもって知っているので、そこは割愛するが、とにかくキールの父親は息子の容姿と年齢を成人するまで、一切公表しなかったのである。
今ではギルバート王子に似ていたら、というもっともらしい理由が付けられているが、そのおかげで、ネイサンがベルフォルマの御曹司を名乗っても、誰からも不審に思われることはなかった。
全ては、一人の男の執念によって練り上げられた計画だった。
いったい何がそこまで彼を駆り立てたのか。その理由をネイサンはもちろん知っている。
彼は、アンジェリカ王女を捜しているのだ。
本物のキール・ベルフォルマは、本当にギルバート王子の生まれ変わりらしい。
その話を聞かされた時、正直ネイサンはどうやって逃げ出そうか考えた。
しかし、すぐに諦めた。頭の出来が違ったのもあるが、生まれ変わりが事実なら、ネイサンが対することになる男は、おそらく限りなく幼い頃から、その妄執だけで全てを画策し、全てを実行してきた人間に他ならない。
己の父母すら懐柔し、己の地位も捨てた男を相手に、刃向かっていく気力は、その頃のネイサンには残されていなかった。
その昔、とにかく反抗的だったネイサンは、まず第一に力関係というものを徹底的に叩き込まれるはめになった。
そのあとは、抗するより従う利益の多さを教えられ、さらには自分で考える時間まで与えられ、そこまでされてようやく自分が――自分たちが、必要としていた全てのモノを、目の前の男が持っていることをネイサンは理解させられてしまったのである。
逆に言えば、逃げ道などはじめから無かったことを知った、とも言うが、ともかく、ネイサンは自分の人生を売ることを、その時にはもう決めていた。
そのため、ギルバート王子の生まれ変わりである本物のキール・ベルフォルマが、ネイサン・キールという名を名乗り、ギルバート王子にそっくりなネイサン・キールの従者をしているという大変ややこしい状況が、こうして出来上がっているのである。
「……けど、まさか。こんな観光というもので、ここまで人が来るなんて思っていませんでした。鉄道やら蒸気機関車やらで移動が楽になったとはいえ、皆さん、そんなに人様の色恋沙汰が好きなんですかね」
ため息をつきたい気分でネイサンがこぼすと、キールは、どこか含みのある笑みを浮かべた。
「移動距離と時間の軽減だけじゃなく、劇場街といった娯楽もあるしね。それに、世間では今、懐古趣味が流行ってるんだよ。文学や芸術、建築、おまけに神秘主義にいたるまで古典古代がやたら持て囃される傾向にある。その点で、旧都市ミラは3百年前の王都を再現してるから、そっち方面の客も多い。まあ、3百年前もあったんだけどね、そういう文芸復興は。だから、正確には6百年以上前の建築を今風にアレンジしたものになるんだけど……その辺は、また今度教えてあげるよ、それより」
言いながら、キールは含みのある笑み――あくどい商人の笑顔をネイサンに向ける。
「でもね、たとえ娯楽施設や懐古趣味があったとしても、その程度の呼び込みじゃ、ここまで人は集まらなかっただろうね。旧都市ミラに人が集まる最大の理由はね、君が居るからだよ、ギルバート王子サマ」
「…………」
「セントリーズの悲恋。あの悲劇によって引き裂かれたアンジェリカ王女を、ギルバート王子の生まれ変わりが捜している。そういうオカルトめいた噂話がね、今そこら中で流されている。しかも生まれ変わりらしき人物は、あのベルフォルマ商会の跡継ぎで、ギルバート王子サマにそっくりだという。現にそっくりなんだから、君という生きた広告塔の価値は、いま相当なモノだよ」
そう言って、やはりキールは笑う。
彼はきっと、最大の賛辞を送っているつもりなのだろうが、ネイサンの頭によぎる言葉は、まさしく身分不相応だった。
「しかし、言い得て妙だね。人様の色恋沙汰が好きってやつ。君は、ある意味では劇場の舞台俳優と変わらない。だって、君がギルバート王子の生まれ変わりなら、それはつまり、セントリーズの悲恋には、まだ“続き”があるってことだから。君に対する皆の関心は、結局そこに集約されているんだと思うよ」
長いので、一端切ります。