36 終幕
声が聞こえていた。
聞こえてくるその声は、とても古い言葉を音に乗せていた。
もう誰も口にするはずのない言葉。
どうして、とアンナは思う。
あの時は――“彼”とはじめて会った時は、何の反応も得られなかったはずだ。
しかしあの時は、どうしても小さな声しか出なくて、どうしようもなく震えてしまったから、ただ単に聞き取れなかっただけなのか。
それでも変だった。たとえ、そうだとしても――――
アンナは、疑問の答えを出そうと頭の中で思考していた、けれど、答えはすぐに見付かった。
この人が教えたのだと、アンナはその人の腕の中でぼんやりと思う。
2人で広場を駆け抜けたあと、もう一度、警吏の列を通り抜けた。
その先で行き着いたのは、舞台の裏、天幕の張られた時計塔の中で、廊下を進む途中、誰かに声をかけられたが、彼はかまわずアンナを連れて通り過ぎていた。
そうして気付いたら、彼の腕の中だった。
彼の肩越しに見えるのは、薄暗いどこかの部屋。入ってきた扉は開いたままで、いつ誰が来てもおかしくない状況なのに、それでも彼はアンナを抱きしめていた。
両腕でしっかりと、痛いくらいに抱きすくめている。背中には、ひんやりとした壁の感触があって、まるで、どこにも逃げないようにされているようだった。
アンナは、自分のものではない体温と、呼吸音がとても心地よいと思った。
けれど、今ここにいることが、どこか現実味を帯びていなくて、聞こえてくる舞台上の声に耳を傾けていた。
時計塔の入り口からそれほど離れていないのだろう。キール・ベルフォルマが、セントリーズの古語を口にしている。
聞こえてくる限りでは、誰かへ対しての“手向けの言葉”のように聞こえた。
ところどころ発音がおかしくて、意味の分からない部分の方が多かったが、その言葉の流れ方は、間違いなくセントリーズ王家に残されていた古語のもの。
けれど、3百年前ですら、王族のみによって細々と継承されていた言語である。
ここがかつての王都とはいえ、披露したところでそれを理解できる人なんてまず居ないはずなのに、どうしてあの人は、誰にも分からない古語を拙い言葉で紡いでいるのか。
丸暗記しただけという事が手に取るように分かる喋り方を、しばらく聞いていたが、やがて、“彼”が何をしようとしているのか、アンナは分かった気がした。
セントリーズの古語に関する資料が、かろうじて残っている可能性はきっとある。
けれど、それをどう口にするかは口述でしか伝えられない。発音どころか音にすることすら出来ないはずだ。
もしそれを、言葉にして話せる人がいたとしたら―――そんな人が居ると聞いた時、アンナが心に想い浮かべる人は、きっと1人だけだろう。
“彼”はきっと、アンナと同じように、あの古語を使ってアンナを捜そうとしてくれているのだ。
言いしれぬ、後悔の念が押し寄せてきた。
あの時、もっとちゃんと伝えていれば良かった。
クリスタやエルシー、そしてトムが、アンナを守ろうとしてくれていた。けれど結局は、“彼”を騙す形になったことに変わりはない。
たった一言、言えば良かったのだ。
たった一言、アンジェリカだと言っていれば、もっと早くに出会えていた。
それは、しても仕方のない後悔だと分かっていた。
けれどどうしてなのか、そんなとりとめのない事ばかりが浮かんでくる。
今、自分の手の中にあるものを、繋ぎ止めきれていないからかもしれない。
温かなぬくもりに、規則的な呼吸。抱きしめられている感触まで確かに存在している。
これ以上ないくらい、ずっと会いたかった人の存在を感じているのに、なら他にいったい何が足りないというのか。
どこか現実的になれない感覚に浸っていれば、舞台から聞こえていた声が止まった。
少ししてから、ぱらぱらとした拍手の音がしはじめると、それは広場中に広がっていく。
「――――名前」
不意の声に、びくりと震えた。
当たり前のことなのに、声の近さに驚いてしまう。
「名前を、教えて」
耳元で囁かれ、アンナは焦りながら答えた。
「アンナ、です。……アンナと言います」
「…―――」
アンナっ―――そう、掠れた声が耳朶に触れる。
名前を、呼ばれた。
現世での名前を、彼に呼ばれた。
アンジェリカではなく、アンナと、そう呼ばれた。
アンナの中で繋がっていなかった、もう一つのモノに気が付いた。
この世に生まれた時からずっとあった、もう一人の自分という違和感が、ようやくひとつに繋がり合って、アンナの全身を甘く痺れさせていく。
息を吹き返すような多幸感に包まれながら、アンナも呼びたいと思った。
もう一度、この世に生まれた証である、彼の名を。
「私も。……私も教えてください、お名前を」
けれど、彼はすぐに答えてはくれなかった。
ややしてから告げられた名前は、アンナにとって予想外のものだった。
「……キール。キール・ベルフォルマ」
ぱちくりと、アンナは瞬く。
「――――……キール、様…ですか?」
せっかくの名前が、疑問系になってしまった。
「……うん、そう」
「…………」
アンナの認識が正しければ、その名前を持っている人は今、舞台の上にいるはずだった。
どういうことなのか分からなくて、おそるおそる聞いてみる。
「あの……あの方は、いったい……どなた、なのですか?」
すると、彼は――キールは、笑い出した。
小さく笑う声とその振動が、アンナの体に直接伝わってくる。
「そうだね、うん」
言って、顔を上げた。至近距離に現れたのはキールの顔。
2人の近さを、アンナは今さらのように思い知る。
互いの息がかかるような距離で、キールが愛おしげに笑っている。
前世ですら、こんな近さに入られたことはないのに、ばかりか、いつの間にか背中から移動していた手が、アンナの頬を撫でていた。
「アンナに、話さなきゃいけない事が沢山ある。でも、もう少しだけ待って。まだ終わっていないから」
まるで、この先に起こることを知っているかのような口振りだったが、アンナはそれどころではない。
キールの手と指が、アンナの乱れてしまった髪を整えるように自在に動く。
顔から火が出そうだった。離れようにも、背後は壁で塞がれていて逃げ場がない。
キールと目が合う。彼は少しだけ目を見張ったあと、困ったような笑顔に変わった。
アンナの心情を察してくれたのだろう、キールはそっと謝りながら体を離してくれ、真正面という位置からも退いてくれた。
それでも手と手は繋いだまま、アンナと同じように部屋の壁へともたれかかる。
でもやはり、近かった。肩と肩が触れ合ってしまっている。
ちらりと見れば、にこりとした笑顔が返ってきて、アンナも見つめ返そうとしたが、どうしても視線が泳いでしまい、結局うつむくという対処を選んだ。
くすくすとした忍び笑い聞こえてきて、アンナが余計に恥ずかしくなっていると、広場に溢れていた拍手が鳴りやんだ。
『……まだまだ至らないところはあるが、上出来だと言って良いだろう』
キール・ベルフォルマ――ではない人の代わりに聞こえてきたのは、領主の声。
『古の言葉に乗せた、その想いと共に私も2人の死を悼もう』
2人というのは、自分たちのことだと気付いて、アンナは少し居たたまれない。
ただでさえここは舞台の裏側で、そんな場所から舞台上の声に耳を傾けていると、自分たちが別の空間にいるような、少しだけいけないことをしているような、そわそわした気持ちになった。
『では、先ほど述べた通り、この公開審議の場はこれにて終幕とする。だが、その前に、私から改めて釘を刺しておかねばなるまい』
場の空気を改めるような、厳かな声で領主は続ける。
『キール・ベルフォルマには、とある噂が長らく付きまとっていたが、彼はギルバート王子ではないことが、本人の明言によって本日明らかになった。自身で望んだ決着の形であるならば、それは尊重されるべきだと私は考えている。よって、これ以上の議論は認めない』
領主の発言に、観衆は聞き入っているのか、ざわついた声はほとんど聞こえない。
『これは、セントリーズ領主ハロルド・ヒンシェルウッドの名において宣言されるものであり、今後一切、キール・ベルフォルマへ件の噂を問うことを、皆に禁ずる』
アンナは思わず、キールを振り返っていた。
彼に驚いた様子はなく、むしろ、アンナの驚きを肯定するように微笑んでいる。
『無論、これは私の独断である。そこに法的拘束力を設けることはない。だが、セントリーズの領民である皆に、アンジェリカ王女とギルバート王子の2人の死を悼む気持ちがあるならば、この判断が妥当だと理解してくれるものだと私は思っている』
キールは、変わらず微笑んでいる。
領主の言葉は、キールには全て了解済みのようだった。
それはつまり、どういう事なのか。アンナは知らず考えていた。
『しかし、それでもなお異議異論のある者がいるならば、キール・ベルフォルマではなく、この禁を下した、私のもとへ来るが良い』
「…………」
『それだけセントリーズ王家に思い入れのある者として、貴賤の別なく歓迎しよう。もちろん、私の所まで来てくれるくらいだ。大いに見識の高い話が出来ると期待している。それこそ、セントリーズの古語で論を交わせるくらいに』
観衆へ向けられているはずの言葉は、アンナには、どういうわけか自分へ向けられた呼びかけのように聞こえた。
領主が舞台の上で述べ立てている言葉は、全てキールによって用意されたものかもしれないと考えてしまったから。
「ねえ、アンナ」
呼ばれたままに振り向けば、少しだけ首を傾げたキールがそこにいた。
「もし、キール・ベルフォルマが、セントリーズの古語を喋ったと知ったら、どんな内容だったか知りたがってくれた?」
「……はい。きっと、四方八方に手を尽くして、聞き回っていたと思います」
「でも、キール・ベルフォルマは、ギルバート王子ではないと明言されてしまったよ? それでも聞き回ってくれた?」
聞き回っていました、と即答するアンナは、さきほど思った事を口にする。
「そうすればきっと、領主様のお言葉にたどり着いていました。領主様は異論があるなら自分の元へ来いとも仰っていました。だから私は、領主様を訪ねて」
「でも、領主様は口だけで言っている可能性もあるよね」
「…………」
遮ってまで返ってきたキールの指摘に、アンナは確かにそうだと思ってしまう。
「何より、相手は領主様だよ? 彼を訪ねるにしても、ベルフォルマ商館を訪ねた時よりもずっと難しくなっているとは思わない?」
「……思うと、思います」
アンナは答えながら、この質問の意図を探す。
何かを堪えるようなキールの目に、答えを求める何かがあったから。
「でも……でも、領主様はセントリーズ王家に造詣の深い御方だとお聞きしました。なら、私は自分をアンジェリカだと証明してみせます。古語でも、王家のしきたりでも、何でも使って自分を――――」
そうか、とアンナは唐突に理解した。
キールから投げかけられた疑問は、本来ならアンナが陥っていた疑念だった。
キール・ベルフォルマがセントリーズの古語を喋った。けれど、彼は自分をギルバートではないとも言っている。その大きな矛盾は、確実にアンナを悩ませていただろう。
領主の言葉にしても、そうなる。あの言い様だけで、領主の元を訪れていく理由にアンナは出来ただろうか。
「…………」
言い淀んでしまったアンナを、キールが見ていた。
その目に、怯えのようなものを覗かせながら。
アンナは、彼が求めている答えに応えたかった。
だから、キールが納得するまで言葉を重ねようと思えば、きっと出来るだろう。
けれど、彼から求められているのは そういうことではない気がした。
そういうことではないのは、アンナも同じだったから。
アンナがキールへ伝えたかったことは、そういうことではない。
「……それでも私は、領主様のもとを訪れたと思います」
想いのままに口を動かす。
どれだけ悩んだところで、出していた答えはひとつだった。
そこにあるのは、理屈とか理由ではなく、もっと根源的な想いの一念だけ。
「何故なら私は、貴方にもう一度お会いするために、この世に生まれてきたからです」
「――――」
キールの目が、アンナの目の前で見開かれていく。
見慣れない灰色の虹彩が大きく揺れ、繋がれていた手に力がこもる。
アンナも同じように、彼の手を握り返した。
「それ以外の理由などありません。たとえ可能性がほんの僅かだろうと、そこに望みがあるのなら、私は旅立っていました。何度でも申し上げます。私は貴方にお会いするために、この世に生まれてきたのです。だから―――」
キールの表情が、崩れる。
けれど、顔を隠すように、片手で覆ってしまった。
その姿に、アンナは嗚咽が込み上げる。
アンナはずっと、この世にもう一度生まれてきた理由が分かっていなかった。
それを教えてくれたのは、キール・ベルフォルマがアンジェリカ王女を捜しているという噂で、それは、アンナよりもずっと前からキールはそれを分かっていたという事だった。
ずっと前から、アンナを捜していてくれたという事だった。
彼が、どんな想いで自分を捜してくれていたのか、アンナはそれを思うだけで胸が痛い。
今まで、どんな想いで待っていてくれたのか、それを思うだけで心が軋んでいく。
「――――本当にごめんなさい。とても、とても遅くなってしまいました」
キールは、それを否定するように首を横に振った。
俯いて見えない顔の代わりに、アンナは繋がれた手を両手で包むと、額に押し当てる。
「……やっと、貴方にお会いできました」
自分の涙で、キールの手が濡れてしまうが、祈り捧げるように、アンナはその手を強く額に押しいただく。
懺悔と最敬意。
限りない祝福を込めたひとときに、もう一つ、温かな手の体温が重なった。
顔を上げれば、顔を隠すことをやめたキールの笑顔がアンナを迎えてくれた。
「……うん。ずっと待ってた。ずっと会いたかった。やっと会えた」
目の縁に、涙を残しながら笑っている。
この人の涙を見たのは、これで2度目だとアンナは思う。
けれど、2度目の涙は、いつまでも見ていたいくらいに、何よりも綺麗な想いの欠片で溢れていた。
「アンナに、たくさん話したいことがある。だから、アンナも聞かせて。アンナの事を」
彼の言葉に、アンナも笑う。
そのせいで涙が頬を流れたが、かまうことなくキールへと頷いた。
遠くでは、領主が舞台を締めくくる、最後の言葉が聞こえていた。
※12/7 一部加筆修正




