34 再会
アンナは見ていた。
広場を見渡せるバルコニーから、舞台の上に立っている、その人を。
簡易なシャツにベストを着て、灰色の髪をした彼は、キール・ベルフォルマに2通の手紙を渡したのち、舞台の端へと下がった。
舞台の上では、彼によって届けられた手紙が事態をさらに一変させていくが、アンナは彼らの会話にまったく集中できずにいた。
とても重要な話だと分かっているのに、耳を傾けようとしても、目が同じ場所から離せなくて内容が頭に入ってこない。
舞台の上には、キール・ベルフォルマや領主、貴族や有力者たちなど沢山の人がいるはずなのに、舞台の端にいるその人しか、そこには居ないかのようだった。
きっと、危ないところを助けてくれた人だから。
そうやって、一度は抑えつけたモノが、再び自分の内から溢れ出てくることにアンナは気付いた。
無意識に、キール・ベルフォルマへと目をやっていた。
けれど、彼はギルバート王子ではない。感じるものが何もないのは当たり前だった。
なら、彼の近くにいるあの人はいったい誰なのか。
どうして、キール・ベルフォルマに仕えるようなことをしているのか。
どうして、こんなにも―――
抑えつけることを止めた想いが、とめどなく溢れてくる。
アンジェリカに全て押し付けて、閉じてしまったものが、再び溢れ出してくる。
“彼女”が見せてくれるのは、昔々に、けれど、アンナにとってはそれほど昔ではない情景を、呼び起こすモノばかり。
胸が痛かった。懐かしさに心が震えて仕方がなかった。
泣きたくなるほどの感傷が、ありのままアンナに告げてくる。
もしかしたら。
もしかしたら、途方もなく愚かな思い込みをしているのではと、そう思った瞬間、眼下に広がる光景が、瞬く間に塗り替えられていく。
一度は失った願いが、まったく別の姿を取って現れた。
まるで、奇蹟のようなその光景を、アンナは確かに見た。
その時、領主の声が広場に響く。
はっ、とアンナが現実に引き戻された時には、貴族の男を捕らえるために警吏が呼ばれ、貴族たちを取り囲んでいるところだった。
広場の誰もが、連れて行かれる彼らを見ていたが、灰色の髪をしたあの人は、貴族たちには目もくれず、舞台下の観衆たちを見ていた。
舞台の端に控えた時からそうだった。一人一人の顔を確かめるように見渡している。それは、あたかも誰かを捜しているようで、アンナは焦燥感にかられた。
こちらを見て欲しかった。
こちらを見てさえくれれば、きっと。
けれど彼は、観衆ばかりに目をやっていて、バルコニーのある高さへは視線を上げようともしてくれない。
ここにいるのだと、声を上げたい衝動が湧き上がる。
アンナは知らず、手摺りから身を乗り出していた。
やがて、貴族たちを乗せた馬車が出発し、取り残された人たちがざわめいていたが、領主が再び発言をはじめると自然におさまっていく。
キール・ベルフォルマが、観衆に向かって何かを話し始めた。
けれど、どうしても耳を傾けることが出来ない。
あの人が、ついに視線を巡らすことを止めてしまった。
目線を落とし、何かを諦めたように足もとを見下ろしている。
アンナは、出すに出せない声を喉に引っかけたまま、どうすればいいのか必死に考えたが、誰にも悟られず、彼にだけ気付いてもらう方法など見付からず、もう叫んでしまおうかとした時だった。
ふとしたように、彼が目線を上げた。
空を仰ごうとしたのか、しかし、どこを見るでもなく視線はさまよい、おもむろにバルコニーから身を乗り出すアンナの方を見向く。
はじめは、本当に何も見ていない虚ろな瞳だった。
それがまるで、子供のようにキョトンとした顔へと変わる。
灰色の目が、アンナを見返していた。
この距離ではおぼつかない彼の色を、アンナは見ずともはっきり思い描くことができた。
その目が、これ以上ないくらい見開かれていくことも。その口が、言葉を発そうとわずかに動いたことも。アンナは、どれだけ距離が離れていても見逃さなかった。
3百年前に途切れたものが、もう一度、繋がり合った。
それなのに。
どうしようもなく開いた距離が、2人の間には横たわっている。
そこにいるのに、届いているのは視線だけ。声をあげることすら、ままならない。
そのもどかしさを感じたのは、アンナだけではなかった。
視線の先であの人が動き出す。
視線をこちらに向けながら、舞台端の階段を下りていく。
アンナの身体も動いていた。
「――――私、行きます」
「アンナ?」
すぐ隣から困惑した声が返ってきたが、応えられず、アンナは駆け出していた。
バルコニーから部屋へと戻り、部屋の扉を一直線に目指す。
廊下へと出て、そこから続く長い通路を走れば、通り過ぎる人たちから咎めるような視線を感じたが、気にかけてなどいられなかった。
探していた階段を見付け、駆け下りる。
下りていくリズムを崩して、転びそうになった。
踊り廊下を2回、壁をクッションにしながら曲がる。
階段下に敷かれたマットに、足を取られて滑りそうになった。
それでもエントランスホールへたどり着き、広いホールを駆け抜けて、すでに開かれていた両扉から外へと飛び出した。
視界に広がるのは、目の高さになったエルサル広場。
アンナの立った場所は市営銀行の正面玄関で、広場中央の時計台前に設置されている舞台は、集まった群衆に遮られて良く見えなかった。
アンナは、とにかく足を動かした。
あの人がいた舞台に近づくことだけを考えて、人と人の合間を掻き分けていく。
広場には、領主とキール・ベルフォルマの声が響いていた。
観衆たちは一様に舞台の方を向いている。前へ出ようとするアンナにほとんど頓着しなかったが、なにぶん数が多くて思うように進まない。
できるだけ空いている場所を選んで進むが、30人以上は追い越したと思われた時、警吏が等間隔に並んでいる列に出くわした。
バルコニーにいた時に見た、観衆たちの警備にあたっている警吏たちだった。
これまで通り過ぎてきた人たちは、建物から出てきた見物人だったのだろう。
広場を警備している警吏は、舞台に近づけば近づくほど厳重に配備されているはずで、アンナはそんな彼らの横を通り過ぎなければならない。
それは、アンナの足を止めさせるくらいに難解だった。
そのうえ、もう警吏の1人が、足を止めたアンナに目を留めていた。
誰もが――中には警吏の者までが、舞台上で繰り広げられる遣り取りへと目をやっているのに、1人だけ動いていれば不審がられても仕方がなかった。
アンナは、己の馬鹿さ加減にようやく気付く。
どうして動いてしまったのか。
バルコニーで待っていれば良かったのだ。待っていれば、きっとすぐに来てくれた。
今さらのように辺りを見渡せば、人数の多さを思い知らされる。
これだけ沢山の人がいる中で、たった1人の人を捜そうなんて、どう考えても無謀なことだと、アンナは自分を叱りたかった。
今からでも遅くはない。警吏から下手な関心を受けてしまう前に、来た道を戻ろうと警吏の視線から逃れる場所まで退いた。
完全に人の波にまぎれてから踵を返すが、誰かに腕を掴まれた。
「――っ」
脳裏をよぎったのは警吏の姿。
けれど、振り返った先にいたのは、全く別の人だった。
アンナと同じくらいの年齢で、灰色の髪に灰色の目をした―――
今度はアンナの方がキョトンとする番だったが、それはすぐに熱情へと変わる。
そこにいたのは、たった一度だけまみえただけの、まだ名も知らぬ人。
「――――」
言葉が出てこない。
あんなにも、うとましいと思った距離が無くなったというのに、何も言葉が出てこない。
彼も、何も語らなかった。
かつての姿とは似ても似つかない顔と目で、真っ直ぐと射貫くように見つめたまま、わずかに震えてしまうアンナの腕を、固く掴んで放さない。
震えているのは、本当にアンナの腕だけなのか。
かすかに伝わるものに気付いた時、彼が唇を引きむすんだ。
かと思えば、アンナから顔を背けてしまう。
それだけのことにアンナは酷く動揺したが、彼は顔を背けたのではなく、後ろを振り返っただけだった。そして、おもむろに歩き出していく。
アンナの手は彼の手に繋がれているから、彼の意のままに引かれていくが、抵抗するつもりなどあるはずもなく、彼の歩みに合わせてアンナも足を繰り出していく。
いくばくもいかない内に、足が止まった。
見れば、さきほどの警吏を前にして、何かを見せながら何か話をしている。
警吏は軽く頷くと、彼をその先へと通した。
だから、彼の手に連れられるアンナも、実にあっさりと警吏の横を通り過ぎることになる。
警吏の列を抜けると、少し足早になった。
観衆たちは舞台中央に集まっている分、彼らと警吏の間には、ある程度のスペースがあって、ほとんど誰にも邪魔されずに駆けていく。
走りながら、どこに連れて行かれるのかとアンナはぼんやりと思ったが、けれど、行き先などという小さな事柄は、すぐに頭の片隅に追いやられた。
目の前にある、どこか幼さが残る背中を見て、そんな背中が引いている自分の手を見る。
もう一度。そして、もう一度。
確かに繋がれていることを、ただただ見つめていたかった。




