25 反旗
旧都市ミラの封鎖。
それによって引き起こされる惨事に、ネイサンは戦慄を覚える。
しかし同時に、腹の底からこみあげくるものを感じていた。
旧都市ミラは、確かにアンジェリカ王女を捜すために作られた都市である。
けれど、ここまで大きく成長させたのは、彼女を悲しませないためでもあったはずではなかったのか。
それを、この人は自ら手で壊そうとしている―――
キールは手を洗い終えたのか、蛇口の水を止め、手ぬぐいを手に取っていた。
彼の、落ち着きを払ったその様子を見ながら、ネイサンは声を絞り出す。
「――――断る」
キールの手が止まった。
「……俺が、貴方の言うことを聞かなければ、貴方は何もできない」
その台詞に、キールはゆっくりと首が巡らし、ネイサンを振り向く。
「貴方は、俺の口を介さなければ、何一つ命令なんてできないはずだ」
「…………」
本物のキール・ベルフォルマが誰なのか。
それを知っている人間は、ほとんどいない。
ベルフォルマ商会の人間も、旧都市の市民も、そのほとんどが知らない。
この旧都市ミラで、ベルフォルマの御曹司の“顔”として知れ渡っているのは、ネイサンに他ならないからだ。
一介の従者としか思われていないキールに、権限などありはしなかった。
それを、本人が分かっていないはずはないだろう。
キールは、ネイサンを凝視したまま、口を開かない。
「旧都市の封鎖? それのどこが、アンジェリカのためだ。貴方が今しようとしていることは、全部自分のエゴじゃないか。そんなことはさせない」
ネイサンは、挑むようにキールに言った。
そして、自分に言い聞かせるように続ける。
「この都市はもう、貴方がいなくとも機能するし、発展もしていく。セントリーズの領主だって、この都市と王女の味方であって、貴方の味方じゃない。誰も貴方の言うことなんて聞きはしない」
「…………」
「貴方に、旧都市の封鎖なんて出来はしない」
言いきったネイサンを、待っていたのは静寂だった。
互いが、互いの出方を待つような沈黙が続くが、やがて、キールが口角を上げる。
何の兆候かと思えば、彼は笑い出していた。
堪えきれないとでも言うように口元を覆い、肩を震わせて、小刻みに笑ってる。
場にそぐわない笑い声というのは、周りに恐怖を与えるものでしかなかった。
ひとしきりそうしていたかと思えば、ふとした拍子に顔をあげる。
「キール・ベルフォルマを乗っ取るって?」
引きつった笑みが張り付いていた。
昔の――いや、今までのどれとも違う、狂気じみたその目に気圧され、ネイサンの対抗心が揺るがされる。
けれど、ここで引くわけにはいかなかった。
「――ええ。必要なら、そうします。貴方が、このまま妄言を吐くようなら、そうするしかなくなる」
すうっと、温度が下がるようにキールの表情が冷えていった。
彼の視線が、ネイサンの隣に移る。隣にいたのは―――ヨハン。
瞬間、ネイサンは飛び出していた。キールに向かって。
躱そうとしたキールを、近距離という偶然によって捕まえ、壁に押し付ける。
「ヨハンっ、お前を脅しに使うつもりだっ!」
逃げろと、叫ばずとも、すでに廊下を駆けていく音が聞こえた。
明確な体格差があったから、数秒間は押さえ付けられていたが、身体の間に足を入れられ、蹴り出すように弾き飛ばされた。
浴室のタイル床にネイサンは転がり、視界の隅ではキールが走り去っていくのが見えた。
鳩尾に響く鈍痛に、咳き込みながらも起き上がる。立ち上がるのにもふらついてしまったが、すぐさま2人の後を追った。
痛い腹を押さえながら、ネイサンは2人の行方を捜していた。
争うような音はどこからも聞こえず、道すがら開いていた扉などを覗いていけば、玄関ホールに差し掛かったところで、歩いて戻ってくるキールと出くわした。
一人で戻ってきたその姿に、ネイサンの口元は笑っていた。
「そういえば、貴方自身のお墨付きでしたね。ヨハンが本気で逃げを打ったら、貴方でも捕まえられないって」
「…………言うようになったじゃないか」
不機嫌さを隠しもしない彼は、けれど、それ以上は動こうとはしなかった。
ネイサンは、再び笑いたくなった。
キールは、今のネイサンを傷付けることは出来ない。
もし、人目に付くような怪我や、足腰の立たなくなるような重傷を負わせたら、必ず誰かが見咎めるだろう。
かといって、どこかに拘束することも出来ない。ベルフォルマの御曹司がいなくなれば、市警隊が動くのは目に見えている。
要するに、ネイサンに危害を加えた分だけ、アンジェリカ王女の捜索にも遅れが出るだけだった。
「ヨハンはきっと、貴方の父親ルーク・ベルフォルマと連絡を取るでしょう」
ネイサンは、つとめて平静な声を装っていた。
「貴方も知っての通り、彼は根っからの商人だ。封鎖なんていう、莫大な損害額しか生まない暴挙を許したりするはずがない」
「…………」
「本当は、分かっているはずです。この都市に要らないのは、今ではもう貴方の方だ」
言葉とは裏腹に、ネイサンの心臓は、嫌な音がしそうなほど脈打っていた。
しかし、キールから答えは返らない。
「別の方法を探しましょう。彼女が生まれ変わっていて、貴方に会いたがっているなら、いくらだって方法があるはずです」
ネイサンはとにかく喋り続けた。恐怖からなのか、興奮からなのかは分からない。
キールを説得できるなんて、ちっとも思えはしないのに、口は動き続けた。
「考え直してください。王子なんていう付加価値は、貴方にはもうない。上から強権振りかざすだけの暴君なんて、とうに時代遅れになった。貴方は商人でしょう。だったら、最小の損失で最大の利益を出してみせたらどうなんですか」
それが、まるで合図だったかのように、出し抜けの出来事が起こる。
2人の間に割って入ったのは、一発の銃声だった。




