20 道程
アンナは、客室長へ支配人の処置を報告し終えたあと、帰りを待っていたトムを連れて、従業員部屋へと戻っていた。
エルシーとクリスタはホテル業務がまだ残っていたため、トム1人の椅子を用意して、そこへ座ってもらうと、アンナは自身のベッドに腰掛ける。
丸眼鏡の奥の目が、人懐っこくにこりと笑うので、アンナも笑みを返した。
「久しぶりだね、アンナ。元気にしていたかい?」
「はい、ありがとうございます。トムおじ様も、お変わりありませんか?」
「……うん。やっぱり、いいね。その呼び方」
「……?」
何かを噛みしめるように言うので、アンナは首を傾げる。
「いや、なんでもないよ。それより、君のお父さんとお母さん…特にお父さんの方から頼まれてね。娘の様子を見てきて欲しいと。手紙のやりとりはしているんだよね?」
「…はい。ただ、ラリック村長に、音読と代筆を頼むことになっていますので、それほど頻繁にはできなくて……」
「ああ、なるほど。……まあ、元気そうで何よりだよ。これで君のお父さんに、どやされなくて済む」
トムの軽い冗談にアンナは笑うが、トムから返ってきたのは苦笑いだった。
「そうだ。こっちでは、何やら色々とあったみたいだね。なでも、アンジェリカ王女が現れたとか何とか。けっこう騒ぎになっててね、私の耳にも届いてきたよ」
「……そう、ですか」
アンナは、気まずい思いで視線を下げた。
レーヨンの一件はまだ、トムの耳には届いていないのだろう。だが、すぐに知れ渡ってしまうことは想像に容易かった。
アンジェラ・レイトンが、アンジェリカ王女の名を使ってデパートの宣伝をしようとした事はまだいい。だが、その結果、危うく死傷者が出るかも知れなかった事が、アンジェリカ王女の名と共に広まってしまうのは、気分の良いものではなかった。
「でも、実際に来てみたら、想像とだいぶ違っていて驚いたよ。なにせ私は、君こそがアンジェリカ王女その人なのだと思っていたからね」
「……――――え」
こともなげにされた発言に、アンナは聞き返すが、トムはにこにこ笑ったままだった。むしろ、アンナの反応を楽しんでいるようですらある。
「……あ、あの」
「まあ、聞きなさい。君をそうだと思ったのは、何も当てずっぽうというわけではなくてね。それなりの根拠を述べると……そうだな、まず、ベルフォルマ商会内では、本気でアンジェリカ王女捜しをしている人間が少なくないんだよ」
はじめて聞く話だった。驚きに言葉を失うアンナにかまわず、トムは続ける。
「まあ、ギルバート王子の生まれ変わりが、アンジェリカ王女の生まれ変わりを捜している……なんて噂を聞いた時は、ただの宣伝文句か、でなければ、ご自分をギルバート役に見立てて、アンジェリカ役でも捜すつもりなのかと思っていたが、しかし、その割には、合理的でない部分が多くてね。どうにもあの方らしくない」
トムは足を組み、どこか物語を聞かせるように語っていた。
「そうなると、いよいよ本当に捜しているのではと考える人間も出てくるわけだ。たとえ確信がなくとも、捜してみることくらいはしたくなる。何しろ、もしアンジェリカ王女を見付けられたなら、とんでもない大手柄だ。ベルフォルマ商会、次代の当主である方に、自分を売り込むまたとないチャンスでもある。かくいう、私もその一人だね」
にこりと笑われてしまい、アンナは胸がざわつくような気持ちになる。
「そんなある日、君のお父さんが現れた。娘の独り立ちを、ひどく心配していてね。でも、それ以上に、君のことを生まれついてのお姫様なんだと何度も自慢していた」
丸眼鏡の奥にあるトムの瞳が、アンナを探るように見つめていた。
「最初は単に、親の欲目かと思っていたが、よくよく聞けば、そのほとんどが教えたはずのないことをすでに知っているというものだった。子供が使わないような言葉からはじまって、貴婦人のような立ち居振る舞い。中でも極めつけだったのは、訓練を受けてもいないのに、文字の読み書きができるという異常性だ。だから私は、自分の目で確かめに行きたくなったんだ」
そう言われて、思い出す。
アンナの家を訪れたトムは、アンナに何かを問うことをほとんどしなかった。
滞在中の彼は、親子3人暮らしの家に泊まりに来た、ただのお客様になっていた。
「君のお父さんの言った通りだった。君が、言葉や身振りの端々に身に付けていた教養は、付け焼き刃で真似られるものではない。本当に生まれついてのお姫様だった」
「…………」
「それから君とお話をしたね。旧都市ミラのことと、ベルフォルマ商会のことを。あの時、君がどういう反応をするか見ていたんだ。なかなかの見物だったよ。たとえば、ベルフォルマ商会ミラ支部代表であるキール・ベルフォルマの名前を聞いて、憧れに頬を染めるでなく、決意を固めるような 勇ましい顔をしたこととかね。でも、一番印象的だったのは、旧都市ミラが、セントリーズ領地で最も安全な場所だと教えられた時、泣きそうな顔で喜んでいたことかな。普通、そんなことで喜ぶ娘さんはいないよ。だからその時、私の疑念は確信に変わった。この子だと、そう思った」
「…………」
「その後は知っての通り、君へ紹介状を書いた。旅行許可書の手続きも、こちらで済ませた。もしかしたら不思議に思ったんじゃないかな。アンナの作ってくれた料理が美味しかったのは本当だけれど、さすがに不自然だったしね。まあ、その実は、君がアンジェリカ王女だと確信する下心があったからなんだよ。言い方は悪いけど」
皮肉めかして笑うトムに、アンナは心の中で身構える。
彼のことを、アンナは人好きのする素敵なおじ様だと思っていた。けれど今、彼はもう一つの顔を見せている。おそらくそれは、商人としての顔なのだろう。
「さて、そうした諸事情を踏まえてたうえで、聞きたいんだが……君は、どうしてまだ、こんなところにいるんだい?」
「…………」
「それとも君は、アンジェリカ王女ではなかったのかな?」
答えなくてはならなくなった。
アンナをアンジェリカ王女だとする根拠を、あれだけ並べ立てたあとである。その質問はどう考えても、アンナに有無を言わせない返答の義務を迫るものだった。
そのうえ否定するならば、列挙された根拠を覆せるだけの論拠が必要で、それだけの反証を、一瞬にして組み立てるのはあまりにも難題だった。
アンナはすぐに答えられなくて、知らずうつむいていた。
とたん、「ああ、すまない」と慌てたような声が上がる。
トムが椅子から立ち上がり、アンナをいたわるように足下へと膝を折った。
「違うんだ。少し遊び心が出てしまって。クセなんだ。職業病というヤツだ。もちろん、違うなら違うでそう言ってくれて構わないんだよ。その場合、私が馬鹿な勘違いをしていただけだ。手柄だとかチャンスだとか色々言ったけれど、そうなったら良いなくらいの話で、何か損失が出るわけではないからね。それくらいで怒ったりもしないよ」
アンナは目を丸くした。
垣間見えていたもう一つの顔が、あっという間にかなぐり捨てられていた。
どこかあやすような口振りに、もしかしたら泣き出しそうに見えたのかも知れない。
「……あの、大丈夫です。ただ、どうお答えすべきか迷ってしまって……」
「――…あ、そうなのかい。……そうか、うん。それなら、良かったよ」
そう言って頷きながらも、トムは決まりが悪そうに眼鏡の位置を直す。
それから、何事もなかったように椅子に座り直すと、こほん、とひとつ咳払いをするが、その頬にはわずかに朱が差していた。
そんなトムおじ様の様子に、アンナは心の構えがほぐれるように笑ってしまう。
「……本当に、平気そうで何よりだよ」
「ご、ごめんなさい、おじ様」
「……いや、さすがに年若い娘さん相手に商談をしたことは無いからね。つい、やり過ぎたのかと焦ったよ……まあ、つまり、おじ様はね、どちらでもいいんだよ。君と君のご両親のことは個人的に好いているから、良い出会いがあった、という意味では、すでに得をしているしね」
そう言うトムの顔には、アンナの家で何度も見た人懐っこい笑みがあった。
「ただ、ね。やはり色々と腑に落ちないんだ。あれだけの思い入れを見せた君だ。ここで働きたかっただけとは考えにくい。……もしかして、何かあったのかな? たとえば、彼に会おうとして会えないでいる、とか」
「…………」
思わず黙ってしまったアンナに、トムは何故か驚いた顔をする。
「…え。……いや、うん。そうだな。だとしたら、話してみてくれないかな? 私は、これでも一応ベルフォルマ商会の人間だからね、何かしらの協力はできるかもしれない」
トムの提案はアンナの胸を打った。
本当の事を言えば、とうに気付いていた。アンナ一人の力で出来ることはとても小さくて、彼との間にある壁に立ち向おうにも、非力すぎて手も足も出ないのだ。
一方でトムは、アンナよりもずっとベルフォルマの御曹司に近い立ち位置にいる。
確かに彼は、アンナをアンジェリカ王女だと思う下心があったから、紹介状を書いてくれたのだろう。だとしても、あの紹介状がなければ、アンナは旧都市ミラの地を踏むことさえ出来なかったのだから、その事でトムに何かしらの利益がもたらされるなら、むしろアンナにとっても喜ばしいことだった。
しかし、アンジェリカ王女であることを明かすリスクが重くのしかかる。アンジェラ・レイトンの事があっただけに、忌避する気持ちはさらに強くなっていた。
すぐに答えを出せず、手間取るアンナに、けれどトムは何も言わず待っていてくれる。
やがて、アンナの中でせめぎ合う二つのものは、自分と自分の両親との出会いを有益なものだと言ってくれた、トムおじ様を信じてみる気持ちに傾いた。
顔を上げ、彼の顔を真っ直ぐと見つめる。
「トムおじ様……私の、長いお話を聞いてくださいますか?」
「…ああ、そのために来たようなものだしね」
優しく微笑んでくれるトムに、アンナも微笑みを返した。そして、
「――…私は、かつてアンジェリカでした」
アンナは、自分が辿ってきた、これまでの長い話を語った。
セントリーズの王城で、命を終えたことから全てが始まったこと。
気付いた時には、今の父母の元に生まれていたこと。王国の滅亡を知ったこと。村での生活に慣れることがとても大変だったこと。十数年の時が流れ、旧都市ミラとギルバート王子の噂を行商人から知り、行かなくてはと思ったこと。父の説得に、とても長い時間がかかったこと。その後はトムから紹介状をもらい、ようやく旧都市ミラへたどり着くことができたこと。
旧都市ミラの発展と有りように驚いたこと。寄り道のせいでベルフォルマ商館の門が閉まっていたこと。門番の人にアンジェリカ王女を自称する人たちについて指摘を受けたこと。それでも、実際に会って確かめたくて、今もここに留まっていること。ただ、会おうとしても、簡単に会えるような立場の人ではないこと。そうこうしている内に、アンジェラ・レイトンが現れてしまったこと。
彼女に関しては、まだ語っていないことがあったが、アンナは一端そこで止めることにする。トムが、口元に手を当てながら難しい顔で考え込んでいたからだ。
とりわけ、門番にたしなめられたあたりで、大きな間違いがあったような顔をされてしまい、アンナは不安に駆られていた。
トムの口が開かれるのを大人しく待っていたが、彼の口より先に部屋の扉が開かれた。
何の前触れもなく開かれた扉と、そこに立っていた人物にアンナは目を見張る。
クリスタとエルシーだった。
クリスタを先頭にして、彼女の背中からエルシーが手を振っている。
「話は、全部聞かせてもらったわ」




