19 行違
回避しなければならなかった最悪の事態が、ネイサンの脳裏をちらつく。
藍色の髪に黒いリボンをした少女は、もう旧都市にいないのかもしれない。
アンジェラ・レイトンが居座っている間は、彼女のせいで名乗り出ることが出来ないのだと、そういう理由付けができていたが、その理由が取り除かれてから10日近くもすると、そんな言い訳は立たなくなっていく。
もしかしたら、偽王女騒ぎで自分も偽物扱いされてしまうのではと、引け目を感じている可能性もあった。
現に、ベルフォルマ商館の受付で、アンジェリカ王女を自称する人間は激減している。彼女だけ例外だとは言い切れないはずだ。たとえ本物だとしても。
仮に、まだ旧都市に滞在しているとして、どうやって滞在費をまかなっているのかという問題もあった。
もしかしたら、どこかで職を得ているかもしれず、ここ最近雇い入れた労働者の中に、件の特徴を持った少女がいないか、商工会議所へ調査を入れたが、反応は芳しくなかった。
自営業者が個人的に雇い入れている場合も多いため、そうなると簡単に調べきれるものではなかった。
他のも、出来るだけのことはした。
彼女は一度、ギルバート王子を訪ねて、劇場『レ・クラン』を訪れようとしていたのだからと、あの時の同じ状況を再現するために、キール・ベルフォルマの外出先を、事前に告知して、公共の場に姿を現すことも何度かした。
はからずも、領主の来訪準備として旧都市の各地を回る予定があったため、それを実行するのは難しくなかったのだが、それでも彼女は現れなかった。
日ごと進退きわまりつつある状況に、キールの纏う空気は張り詰めていくが、ある日、ついに従者の役目を放棄した。
ベルフォルマの御曹司代行にすぎないネイサンの補助を放り出して、自ら街へ出て、藍色の髪の少女を捜し始めたのである。
自分なら、一目で分かるからと。
しかし、従者の仕事を放り出して街中を歩き回っているからには、当然、周囲から不審の声があがった。
そのため、例の方便である親戚の娘が行方不明なのだと、彼にはその捜索に当たらせているのだと、かなり苦しい嘘をつくはめになる。
周囲は合点のいかない顔をしながらも、ひとまずはそれで納得してくれた。
キール自身による捜索は連日に及び、帰ってこない日も続いたため、表向きはネイサンであるキールの、弟分として下働きしているヨハンを追従させることにした。
今のところ、ヨハンの呼びかけや、帰宅の求めには応じてくれているようだが、それもいつまで保つか分からない。
それでなくともセントリーズ領主が来訪するまで、もう間もない。
だからネイサンも説得を試みた。
あの領主は、セントリーズ王家の信奉者である。彼なら、キールの力にもなれる可能性が高い。そのため、彼の到着をとりあえず待ってみてはどうかと意見した。
早朝から街へ繰り出そうしていたキールは、ネイサンの進言にいったん足を止めた。
だが、その背中はネイサンを見向こうとはせず、長い沈黙が置かれる。
「……お前に、分かるか?」
聞き取れるか、取れないかの声だった。
「間に合わなかったんだ」
今度ははっきりと聞き取れるものだったが、ネイサンは返答を持たない。
「間に合わなかったんだよ、あの時」
「……何を」
「あの時、彼女は謝っていた。呼吸のままならない喉で、苦しそうに息をしながら……精一杯に言葉をつむぎながら、最後までギルバートを待つことが出来なかったことを、謝り続けながら死んでいった」
言いながら、彼は自らの手のひらを見つめた。
「ほんの数秒だ。ほんの僅差で彼女は死んだ。間に合わなかった。お前に分かるか? その時の気持ちが」
「…………」
セントリーズの悲恋。
あの悲恋で起こった悲劇は、旧都市――いや、セントリーズ領に住まう人間なら誰もが知るところにあるだろう。
けれど、それをギルバート本人から直接聞いた人間など、おそらくいない。
「父上の説得に時間を取られなければ。隊の編成に議論を交わさなければ。行軍に休息を挟まなければ。敵兵に遭遇しなければ。廊下を間違えなければ。それ以外にも、ほんの些末な迷いが積み重なって、あの結果を招いた。どれかひとつでも、しくじらなかったなら間に合っていたんだ。どれかひとつでも」
淡々とした語り口で、キールは変わらず何もない手のひらを見る。
「あの時、どうすれば良かったのか。それの繰り返しだ。ずっと頭の中で繰り返される。どれだけ繰り返しても、終わらない」
キールが手のひらに何を見ているのか、ネイサンは気付いた。
「この気持ちが、お前に分かるか?」
何も言えなかった。
胸に広がったのは、覚えのある感情だった。
以前から、察せられるものはあったのだ。
キールが、セントリーズの悲恋を題材にした舞台演劇を観ようとしない時から。
ネイサンは、演劇どころか物語さえろくに読んだことがない。批評もまともに出来ない人間に、観劇を丸投げする理由は、おそらく一つしかないだろう。
観られないからだ。
観られないほど、セントリーズの悲恋を拒絶する何かが、彼の中にあるからだ。
そして、ネイサンは知っていた。
もう、何度となく舞台演劇で、その場面を観てきている。
アンジェリカ王女は、ギルバート王子の腕の中で息を引き取ったことを。
「…………」
“あの腕の中”には、きっとまだ彼女がいる。
彼の中で、あの悲劇は繰り返されている。
だとしたらそれは、悲劇なんて易い言葉で収まるはずがない。そんなもの、もはや―――
その先に続いた言葉の重みに、ネイサンはもう、何も言えなかった。
何も言及してこなくなったネイサンを、キールはどう解釈したのか、不意に笑みを含んだような音がした。
「そうやって、いくらでも同情してくれていいよ。君は、ずいぶんなお人好しだから、それだけ裏切りにくくなる」
見透かすような台詞を吐いて、キールは歩き出していく。
ネイサンに、ベルフォルマの御曹司という重責を、ほとんど強制的に押し付けておいて、自分は身勝手にも従者の役目を放り出していく。
文句のひとつくらい言う権利はあるはずだった。
それなのに、部屋を出ていく彼の姿が、何かの罰を受けに行く囚人のように見えるのは、自分がお人好しだからなのかと、ネイサンは思った。
朝早くから、本物のキール・ベルフォルマを失いながらも、ネイサンは御曹司の務めをどうにかこなしていた。
もともと、セントリーズ領主の来訪という催し物が終わるまで、彼のスケジュールは埋められている。
商会の舵取りは、よほどの緊急でもない限り、ネイサンよりはるかに商い事に慣れている部下たちが引き受けてくれているため、外出する予定がない時は、ベルフォルマ商館の執務室で書類にサインをすることが主な仕事だった。
「キール様」
最後の書類にサインを入れ、ペンを置いたのを見計らい、従者のヴィンセントが、覚え書きに目を通しながら呼びかけてくる。
「このあとは、面会の約束が入っております。先方の方々は、すでに応接室の方へ到着されておりますので、そちらへお願いします」
「ああ、そうか。ええと、……すまない。どういう方との面会だった?」
「はい。お名前は、トム・カバネル様。フォート支部の運輸担当主任ですね。この間のレーヨン事件で、シルクを偽物だと見抜いた一件での面談です」
「…ああ」
それは、先日願い出があった面会依頼だった。
なんでも、あのレーヨン事件の発端となった客室係の1人が、ベルフォルマ商会に勤める上級職員の姪だという話で、そのため、出来ればベルフォルマの御曹司から、お褒めの言葉をかけてやって欲しいと願い出があったのである。
こうした飛び込みの依頼は、良くあることだった。
その多くは、旧都市の市長や、商工会議所のお偉方などの伝手を頼った顔つなぎで、用件は商取引が多数を占めるのだが、ただ単に、キール・ベルフォルマの顔を間近で見てみたいという、興味本位であることも少ない。
本物のキールがいない状況で、商売を取り引きするのは心許ないことこの上ないが、今回の依頼者は商会の人間であり、依頼内容からいって、彼らの目的は後者だと思われるため、ネイサン一人でもそれほど問題はなかった。
何より、レーヨン事件を大きく取り沙汰しておいて、その功労者たちに一言もないというのは不自然な気がして、ほんの数分ならかまわないとネイサン自身が許可を出していた。
ヴィンセントを連れ立って、ネイサンは応接室へと向かう。
重厚な両扉を、ヴィンセントが恭しく開けると、向かいのソファに腰掛けていた、三揃えのスーツに丸眼鏡をかけた40ほどの男性が立ち上がる。
ソファの後ろには、控えるようにして女性が3人立っていた。
ホテル『シャトー』で支給させる客室係の制服、黒のワンピースに白のエプロン、白いキャップを被った、20歳にもならない娘たちだった。
時間は、2週間ほど前にさかのぼる。




