17 来去
「……事情は、把握しました」
執務机に置かれたハンカチーフの残骸を、静かに見下ろす初老の男性は、ため息混じりに零した。
あのすぐ後、アンナたちは支配人の事務室へと連れていかれ、室内には、支配人とアンジェラ・レイトンと3人だけにされていた。
「そう。分かったのなら、今すぐこの無礼な娘をここから追い出しなさい」
「…いいえ、当ホテルから出て行かれるのは貴女の方です。アンジェラ・レイトン様」
支配人の言に、アンジェラ・レイトンは二の句を告げなかったのか、何の言葉も返らなかった。
「今回の件、こちらは厚意で穏便に済まそうとしていたというのに、そちらの都合で蒸し返したばかりか、あまつさえ、こちら側に責任をなすり付けようとしていたとは。もはや面倒を見きれません。早々に当ホテルからお引き取りを」
「何を仰っているの。あれは、ただの手違いだと申し上げたはず」
「貴女こそ何を仰っているのか。30人以上の従業員が、貴女からハンカチーフを受け取ったと証言しているうえに、さらなる不祥事を起こしたのです。人の口に戸は立てられない事を理解なさい。もはや手違いで済まされる段階にはない」
怒気を滲ませたそれに、アンジェラ・レイトンは反発するように語気を強めた。
「そう。なら、仕方ないわ。貴方の対応は、お養父様に報告させていただきます。ベルフォルマ商会にもよ。あそこの子会社に過ぎない身で、わたくしを無下に扱えばどうなるか、すぐに思い知ることになるわ」
あからさまな脅しに、支配人は軽く片眉を上げる。
「ベルフォルマ様が、貴女を助けてくださると?」
「ええ。必ずね」
「……その割には、まだお会いできていないようですが?」
容赦のない当て擦りに、アンジェラ・レイトンは眉根を寄せた。だが、すぐに好戦的な笑みへと切り替える。
「――今は、ね。教えておいて差し上げるわ。わたくしを助けてくださる方は、お父様やキール様だけではないの。その時になって、後悔しても遅いのよ」
さも意味ありげな言葉に、しかし、支配人も引かなかった。
「そうですか。では、その方に何卒よろしくお伝え下さい。どうぞ、お引き取りを」
そうして両者はしばらく睨み合っていたが、アンジェラ・レイトンの方から先に動き出し、足早に部屋を横切ると事務室をあとにした。
ばたりと、扉が閉められたことを確認すると、支配人はゆっくりとアンナへ向き合った。
「さて、君の処遇だが、仮にもお客様である方を、衆目のある場所でやり込めてしまったのはいただけない」
「……はい」
「だが、君の機転がなければ、こちらも謂われなき泥をかぶっていた可能性が高い。よって、今回の処罰は、私からの忠告のみとしよう」
「……訓告処分、ということですか?」
「ああ。だから、これからは気を付けるように。という言葉を君に与える。それから今日一日は騒ぎが収まるまで部屋で大人しくしていること。明日から通常通りの業務に戻りなさい。私からは以上だ。行きなさい」
支配人は、そう言ってアンナに退出を促すが、アンナはその場に留まったままだった。
「……どうした? 戻ってくれて構わないが?」
「…あの、本当によろしかったのですか?」
支配人から訝しげな目が向けられる。
「その…今回のことは、ベルフォルマ商会に、何らかの影響を及ぼすのではと……あの、不確かな事を言うようですが、ベルフォルマ様は、アンジェリカ候補を捜しているのかもしれないという話を聞きました。彼女がその候補だとしたら、ベルフォルマ様には大変なご迷惑をかけてしまったのでは……」
「……憶測で物を言うのは、感心しないな」
「…申し訳ありません」
音域の低くなった諫めの言葉に、アンナは身を小さくする。
アンジェラ・レイトンのあまりの悪辣さに、思わず短慮を起こしてしまったが、すぐにクリスタの言葉を思い出していた。
そのうえ、さきほどされた彼女の発言である。気にしないわけにはいかなかった。
支配人は、しばらくアンナを眺めていたが、軽く息をついて机の上で両手を組む。
「これは、内々に通達があったことなので、口外しないで貰いたいのだが」
そう前置きをしてから、続けた。
「アンジェラ・レイトンの動向を注視し、報告するよう“上”からお達しがあってね。その上で、もし何らかの威圧、脅迫行為があった場合、いつでも追い出してかまわないと言われている。だから実は、今回のことでほっとしている。問題行動の多いお客様を、ようやく追い出しても良いことになったのでね」
「…………」
「それと君の語った憶測だが、私から言わせると、これまでの方針とあまりに違うのでね。絶対に、とは言えないが、アンジェリカ“候補”なんて、いかがわしいものを捜している可能性は低いように思う」
さらりと零された支配人のその言葉を、アンナはどう受け止めるべきか迷った。
「さて、どうやら喋りすぎたようだ。今度こそ業務に戻りなさい。こう見えて私も忙しい身でね」
「――は、はい。面前でお騒がせして、申し訳ありませんでした」
そうして深々とお辞儀するが、次に頭を上げた時、何故か支配人は苦笑していた。
客室長のもとへ報告に行く最中、中庭の渡り廊下でエルシーとクリスタが待っていた。
「アンナっ、どうだった? 大丈夫だった?」
アンナの姿を認めるなり、エルシーが駆け寄ってくる。
「はい。大丈夫でした。今後は気を付けるようにと、訓告処分のみで許していただきました。明日から通常業務に戻っていいそうです」
「そっか、良かった」
エルシーは、そう言って笑顔をアンナに送り、その隣に立ったクリスタもまた微笑みを向けてくれた。
それからアンナは、騒ぎが収まるまで大人しくしているよう申し渡されたことを話すと、2人もその方がいいと、大きく頷いていた。
何でも今は、アンジェラ・レイトンがもの凄い形相をしながら、荷物を纏めている最中だかららしい。
このまま仕事に戻って、もし遭遇してしまったら、また一悶着起こされるに違いない。そう2人は断言して譲らず、そうなるとアンナも笑いながら同意するしかなかった。
「……ところで、アンナ」
ひとしきり話し終えたあと、クリスタがふとしたように切り出した。
「はい。なんでしょう?」
「確かに、絹は織物の頂点だけど、でも同時に、とても繊細な織物で……だから、裂けるわよね。けっこう簡単に」
「……はい」
「え、そうなの?」
うつむき加減になってアンナが頷くと、エルシーの驚きが割って入ってくる。
「でも、まあ。本物の絹は簡単に裂けたりしない、なんて、あの時言ってないものね」
「……はい」
「え、そうなの?」
再びエルシーの驚き声。
「それに、本物の絹を迷いなく裂いてみせる人間なんて、そうそう居ないもの。まわりは偽物だって思っちゃうわよね……でもさ、もし相手が、絹の性質を知ってたらどうするつもりだったの?」
「ええと、その時は……私はあの時、ハンカチーフを偽物だと断じましたので、あのハンカチーフを本物だと言うには、あちらの方が本物という証明をしなければいけません。しかし、そうするためには、偽物が必要になります。ですが、偽物の方を回収したホテル側にそれを頼むことは出来ないと思いました。そうするためには、事の次第を説明しなければなりませんし……」
「そっか。それでも偽物を持ってくるつもりなら、自分たちが持っているヤツしかないわけね。でも、偽物を持っている時点でアウトだし、出せやしないでしょうね。部屋を調べられるのがオチだもの……―――ふふ。ちょっと、やだもう。惚れそう」
言って、クリスタはアンナを抱きしめる。
肩越しに伝わってくる笑い声に、褒められているのだと気付いて、アンナも笑った。
エルシーは「えー…」と呟きながらも、ついでとばかりに、反対側から引っ付いてくるので、アンナは2人に挟まれた。
こんな状態では動けないと、くすくす笑いながら2人に抗議するが、2人とも笑い声を返すだけで放してくれず、しばらく3人で意味のない立ち往生をしていた。
「おやおや、若い娘さんたちが仲良さそうに。こんな所でどうしたのかな?」
不意に聞こえてきた声に、3人はほとんど同時に振り向いていた。
そこには、三つ揃えのスーツに丸眼鏡をかけた、40代ほどの紳士が一人。
その立ち姿に、アンナには見覚えがあった。
「……トムおじ様?」
「やあ、アンナ。久しぶりだね」
数ヶ月ぶりに再会したその人は、アンナに旧都市ミラへ旅立つための紹介状を書いてくれたトムだった。
それほど、遅れませんでした。