11 動揺
劇場『レ・クラン』へと向かう途中、アンナは若干迷子になっていた。
劇場への道のりを何度か人に聞きながら歩いていけば、近道として教えられた裏通りへと入り込み、そこで奇妙な2人組の男性に出くわした。
初対面なのにとても親しげに話しかけてくる彼らに、アンナは変わった人たちだと思いながらも、彼らの質問に答えていった。
その内、一方の男性がギルバート王子に会わせてくれると言うのでアンナは喜んだが、初対面の人に付いていく危険性は何度も教えられていたため、日を改めようとしたのだが、何故か男たちの態度が豹変した。
腕を乱暴に掴まれ、どこかへ連れて行かれそうになって、ようやくこれが世に聞く人攫いかと気付いた一瞬後、男性の1人が忽然と消える。
消えたのではなく、突然と後ろ向きに飛んで行き木箱の山にぶつかって、とても大きな音を立てたと思ったら、隣にいた男の方が呻き声を上げながら、地面に突っ伏していた。
そして、すぐ近くに見知らぬもう1人が立っていることに気が付いた。
正確に言うなら、視界に入ってはいた。あまりことが連続して注意がいかず、しかし彼は、アンナに目もくれずに悠然と歩いていき、起き上がろうとしていた男性を蹴り上げる。
その直後、警吏の格好をした2人がかけつけてくれた。
警吏と会話を交わしながら、アンナを助けてくれた彼はこちらを振り返り―――その灰色の目と視線が合った瞬間、アンナの全身を何かが駆け抜ける。
整えられた灰色の髪。身なりの良い服装。16、7歳くらいの、アンナと年の変わらない彼も、アンナを見つめたまま目を離さない。
「――――き、みは」
彼の声。目が合う前とは全く別物のそれに、胸が灼け焦げるように熱くなった。
ギルバート王子の生まれ変わりだというベルフォルマの御曹司に、写し絵のような感情しか抱けなかったアンナはショックを受けた。
ばかりか、あの人の前に立った時のような、かつての高鳴りすら感じて、自分自身に戸惑い、そして、失望する。
気付いた時には、走り出していた。
制止の声は耳に届いていたが、アンナの足は止まらなかった。
走りながら、自分に言い聞かせる。
きっと、物語で語り聞いたような、悪者から姫君を助け出す騎士様に見えたから、少しどきどきしてしまっただけなのだと。
でなければ、自分はとんでもない浮気者になってしまう。
けれど、走っている内に、助けてもらった礼も言わずに逃げ出している事実に思い当たった。
アンナは足を止めた。振り返り、たったいま駆け抜けた人通りの中を見返す。
どうすべきか迷ったが、助けてくれたあの人の目をもう一度見てしまうのが怖くて、アンナは己の不作法を、心の中で謝りながら歩き出した。
キールが戻ってこない。
あってはならないその事態に、内心とてつもなく焦っていたが、ネイサンは表面上、何事も起こっていないように振る舞い続けた。
劇場『レ・クラン』での上演が終わった後、指定の時刻になっても一向に姿を見せないキールを可能な限り待っていたが、それ以上とどまっていては、外の警備スケジュールに支障を来たしかねなくなってしまい、やむなく馬車へと乗り込み劇場をあとにする。
ただし、その行き先は変更された。予定通りならベルフォルマ商館での執務だったが、ネイサンは体調を崩したと言って、馬車をキール・ベルフォルマの私邸に向かわせる。
何か、不測の事態が起こった場合、そこへ行くようあらかじめ指示されていた。
市街地から少し離れた場所にあるキールの私邸は、寝食目的ではあまり帰らないため、使用人は屋敷を管理維持できる最低限しかない。
その使用人も、ベルフォルマの実家から連れてきており、ネイサンの正体もきちんと知っていてくれている。家政を取り仕切っているハウスキーパーのヒルダに直ぐさま事情を話し、義弟のヨハンを呼びつけてもらう。
こちらの事情を知っていて、ある程度以上行動の自由がきく身内は、ヨハンしかおらず、彼ならベルフォルマ商館や商工会議所にも出入りできた。
ヨハンの肩書きは、そのままネイサン・キール―――本物のキールの弟分として、商館で下働きをしている。
実年齢は17歳で、16歳のキールより年上だが、これまでの生活環境が良くなかったためか、身長はほとんど変わらず、むしろヨハンの方がまだまだ細いくらいである。
ネイサンたちが孤児院出身であることは周囲にも知られているため、顔が似ていないことも含めて、体格など気にするものはほとんどいなかった。
劇場で別れてから何時間経っても、連絡のひとつも寄こさないキールにやきもきしながら、日もとっぷりと暮れた頃、呼び出してもらったヨハンが私邸に到着する。
「なに、どうしたの? 珍しいね、兄ちゃんからの呼び出しなんて」
ネイサンの自室まで、ヒルダから案内を受けたヨハンが呑気に言った。
ブラウンの髪に、グリーンの瞳。ネイサンと血は繋がっていないため、もちろんギルバート王子とは似ていない。
キール曰く、可もなく不可もない顔立ちらしく、だからこそ、変装ひとつでがらりと印象が変わる顔立ちをしているらしかった。
普段下働きをしているヨハンは、地毛のブロンドにキャスケットを被り、シャツにサスペンダーという格好だが、今は色付きの整髪料で髪を整え、流行りのブランド品で身を固める、いかにも親の金で遊んでいる成金の出で立ちをしていた。
仕事場から取って返して来たのだろう、ネイサンは立ちあがって出迎えるが、その際、ヨハンから甘い香水の匂いが香る。
ネイサンは、気にしないことにした。義弟の役目上、女性と接触することが多いのだから仕方がないことなのだと、どうにか頭を切り換え、ヨハンに事情の説明をしていった。
「――え、帰ってこないの?」
「それで、いま捜索の届けを出すべきかどうか考えてるんだが、どう思う?」
「…いや、そんな大げさにしたら、あとで怒られる可能性大だと思う」
「だよな……」
「あの人、アホみたいに強いから、そっち系で何かあったとは考えにくいね」
「……そこが問題なんだ。彼が、こんな風に無断な行動を取ることあるとしたら、アンジェリカ王女関連しか思いつかない」
「んー、そうだな……あ。アンジェリカ王女を見付けた、とか?」
「…………」
充分ありえた。
だが、そうだとしても、これほどの長い間連絡がないという事に説明が付かない。
「まあ、何にしても、今はここで待機が最善だと思うよ。明日の朝になっても、帰って来なかったら、その時はオレが市警に届けを出すよ。ネイサン兄貴を探してくれって。そうすれば一帯の診療所とか詰め所に調べが行くはずだし。キール・ベルフォルマが捜索依頼するよりは、騒ぎにならないだろうし」
「……そう、だな」
「それよりさ、兄ちゃんはもうメシ食った? オレまだなんだよね。腹減った。何かない?」
義弟の懐かし過ぎるフレーズに、ネイサンは張り詰めていた気が一気に抜けていく。
要望どおりにヒルダへと食事を頼み、準備が整う間、ヨハンを風呂に入らせる。
それまで食事どころではなかったネイサンも一緒に食べる事にし、色々と洗い落としてブロンドに戻った頭と、シャツとサスペンダー姿のヨハンと食事を取った。
昔とは比べものにならない実に静かな食卓風景のあと、ヨハンはおもむろに立ち上がり、隣の寝室からブランケットを持ってくると、勝手にソファへと横になってしまう。
「どうした?」
「んー。夜中に動くことになるかも知れないから、寝とく」
「……それって」
「あ、大丈夫。そんなに嫌なカンジはしないから」
思わず嫌な予感を募らせてしまったネイサンに、ヨハンが付け足した。
ネイサンの義弟はとても勘が良い。ヨハンがそういう予兆めいた発言をした場合、十中八九的中してきた。その勘付きの良さに、今までも何度も助けられただけに、義弟の言葉を疑うつもりはない。だが―――
「じゃ、お休み」
そう言って、ヨハンはソファのクッションを枕にして丸まった。
そんな風に、あくまでも普段と変わりない態度を崩さない義弟が、ネイサンは時々うらやましくてならない。
今あれこれと考えても仕方ないのは、ネイサンも分かっている。
というより、考えるだけ考えるなら、ヨハンが来る前にとっくに考え尽くしていた。
まず第一に思ったのは、今がセントリーズの領主来訪という大事な時期であること。
しかし領主は、本物のキール・ベルフォルマが誰かを知っているし、この旧都市ミラには特別な思い入れのある人だから、キールが居ないだけで、この都市にとって不利益な行いを働くとは考えにくかった。
そして、その領主来訪という一大行事に、キール・ベルフォルマのスケジュールは合わせてあるため、今後しばらくの予定は、ほぼ決められている。
ネイサンたちの“頭”であるキールがいなくても、すぐに行き詰まるということはない。
数日もすれば、キールの父、ベルフォルマの当主とも連絡がついているはずだろうから、あとは彼の判断を仰げばいい。
ただ、彼なら息子の代わりなる参謀を、少しの躊躇いもなく送ってくる気がした。
もともと、ベルフォルマの御曹司はネイサンということになっているのだから、頭のすげ替えは滞りなくできるはずなのだ。
そこに、ネイサンの複雑な心境が、考慮されることは無いだけで。
「…………」
考えたところで埒は開かない。ネイサンはもう一度繰り返して、もっと建設的なことをしようと、机に向かった。
読みかけの経済書を開き、金本位制の大別である金貨本位制、金地金本位制、金為替本位制の違いを別の紙に写し書きしながら、それぞれの有用性も頭の中に落とし込んでいくが中々はかどらず、そうこうしている内に、部屋の柱時計は夜半過ぎを示していた。
それに気付いたのは、ソファで横になっていたヨハンが、突然がばりと起き上がった時だった。その直後、部屋のドアがノックも無しに開かれる。
ドアを開けたのは、キールだった。
夜分でもその顔がはっきりと分かったのは、その後ろでヒルダが不安げな顔をしながらランプを掲げていたからだ。