10 劇場
劇場『レ・クラン』で、舞台演劇が催される。
その公演タイトルは『短剣と毒杯』という、セントリーズの悲恋を下敷きにした群像劇である。
恋愛面よりも、登場人物たちの心理状態を掘り下げることに重点が置かれ、王女や王子他、最後の場面で、悲鳴を上げる侍女と、杯を拾い上げる侍女の人物像にも焦点が当てられており、ご高尚なものを好む層からは特に人気が高い。
劇場『レ・クラン』ではもうひとつ、『終わらない奇蹟』という同じくセントリーズの悲恋を下敷きにした恋愛劇もあり、国と国の国力差によって、簡単には結ばれない2人の葛藤が丁寧に描かれており、こちらは若い女性層からの支持が高かった。
けれど、そんなもの、キールに言わせれば全部同じである。
勝手な憶測で勝手な脚色をして、勝手に悦に入っている。ただそれだけの、見るに堪えない代物にすぎない。
『短剣と毒杯』や『終わらない奇蹟』だけではない。セントリーズの悲恋を題材にした全てのモノが駄目だった。それでも何度か、無理をして観ようとした事もあったが、どうしてもあの場面で吐き気を堪えきれなくなるため、今では最低限の線引きである脚本にしか目を通さなくなっていた。
だが今回、セントリーズ領主による旧都市ミラの視察がある。
その際、領主は劇場視察も希望しているため、お披露目用の第一候補である『短剣と毒杯』の内容と出来の再確認をする必要があった。
ベルフォルマの御曹司が劇場観覧に訪れるのは、何もこれが初めてではない。
偽王子のネイサンが、いつも通りキールの代わりを務めていた。
提出されている脚本通りの内容か、極端な食い違いはないか。ひとまず、その確認だけをさせている。あと10年ほど多様な演劇を観せていけば批評もできるようになるだろうが、今はまだ、感想らしい感想を述べることすら出来ていない。
だから今回は、自分で確認すべきかキールは迷ったが、やはり止めることにした。
2階の1等席とはいえ、途中退場すると分かっているのに静寂を尊ぶ劇場に入るのは、観客にとっても役者にとってもただの迷惑行為でしかなかった。
内容の確認はネイサンでもいいとして、作品の出来は観客、特に2階席にいる客の様子を教えるようにと、改まった服装に着替えさせたネイサンに言い付けてから劇場入りし、領主が観覧する予定の1等席である小部屋にネイサンを押し込める。
キールも、場にふさわしい格好に着替えてはいたが、いつも通り適当な理由をつけて、もう1人の従者であるヴィンセントに後を任せると、早々に舞台ホールから退場した。
エントランスへ下りれば、そこからに正面玄関にかけて、通常の公演時より多くの警吏が各所に配備されている。
ベルフォルマの御曹司が劇場『レ・クラン』に来ていることは事前に周知されているため、ここまでの警備態勢が敷かれているが、領主がここを訪う時も同じ配備になる予定だった。
ネイサンには、ときどき公の場所に顔を出させている。
定期的にギルバート王子の顔を晒しておくという目的が大きいが、その時の警備態勢は、国賓級の来客を公式に招く時の良い演習にもなっていた。
キールは、『短剣と毒杯』の上演が終わるまでの時間、ついでだからと警備状況の様子を見ておくことにした。
警吏には、劇場を中心に前後左右3軒先までを警備させている。待機組と見回り組に別れ、通行の邪魔になりそうな野次馬などの整理をしていた。
警吏たちも野次馬さばきには慣れたもので、特に混乱もなく動いていた。
ひとつひとつ表通りから裏通りまで、警吏の警備状況と彼らの態度を見ていくが、やがて警備の陣が途切れる地点までたどり着く。
裏通りから表通りへと引き返そうとした時、向かいの通りから話し声が聞こえてきた。
「…あの、そこを通してくれませんか?」
若い女の声。そこに、いかにも軽薄そうな男の声がかかる。
「まあまあ、そう言わずに。ねえ、いま1人?」
「はい、1人です」
真っ正直に答える女に、キールは呆れた。
「へー、そうなんだ。それじゃあ、これからどこ行くの?」
別の男の声。どうやら、2人以上いるらしい。それを知らされたキールは、通路の影から通りの様子をのぞき込む。
あまり身なりが良いとは言えない男の背中が2つ見えた。女の方は、男たちが邪魔になって見えないが、自分で申告した通り1人のようだった。
キールは舌打ちしたい気分だった。いくら警吏を都市中に配置しても、毎日大勢の人間を外から招いている以上、どうしてもこういう輩が沸いて出る。
降りかかる身の危険に気付いているのか、いないのか、女はやはり素直に答えた。
「行き先は、この近くにあるレ・クランという劇場です」
「そうなんだ。なに君も観光? あ、その格好かわいいね。まんま村娘ってカンジ」
別の男から小馬鹿にした忍び笑いが聞こえてきた。
キールは、通路の隅に積まれた木箱に目をやった。そこには片付け忘れたのか、手頃な長さの釘抜きがあった。
しかし、今は偽王子の従者中であるため、できれば揉め事は起こしたくない。警吏を呼びに行くか、どうするか、考えている合間にも状況は進んでいく。
「ええと、その……」
「あ、分かった。王子サマ目当てでしょ? そこの劇場に来てるって言ってたし」
「…………」
「へーそうなんだ。……ねえねえ、オレたちが王子サマに会わせてあげよっか?」
「本当ですかっ?」
「ほんとほんと。だからさ、ほら、一緒においでよ」
はあ、とキールはため息をつき、釘抜きを手にして一歩足を踏み出そうとした時、
「――いえ」
女から、制止が入った。
「知らない人に付いて行ってはいけないと、父母に、それと天使のような友人たちにも固く言われておりますので、できれば後日、日を改めてから伺いたいと思いますので、お名前と連絡先を教えてくださいますか?」
一瞬にして、場が静まりかえった。キールも思わず、足を止めていた。
だが、すぐに男の苛立った声が返った。
「――あーもう。いいから、来いってっ」
「……え、あ、あの――痛っ。は、放してくださいっ」
はっ、と我に返ったキールは、動く。
抵抗する女を拐かそうとする男たちの背後に近づき、一方の後ろ襟を掴むなり力任せに引っ張った。勢いのまま後方へ引き倒せば、木箱の山へと突っ込んでいく。
わざとそこへ突っ込ませたので、盛大な崩落音が辺りに響いた。
それで近くにいる警吏が聞きつけられるように。
「なんだっ、おま」
残りの男が振り返りざま吠えるが、釘抜きの裏をその鳩尾に叩き付ける。
問答するつもりは端からない。見苦しい呻き声をもらしながら腹を抱え、丁度良い高さに屈むので、顎を拳で強打して脳震とうを起こさせる。
その場に崩れ、気絶したことを確認していると、木箱の山に突っ込んだ男が起き上がろうとしていたので、逃がさないよう、そこまで歩いていく。這いつくばったところを蹴り上げてやれば、地べたに転がった。
釘抜きを使うまでもなかったと思いながら、まだ動こうとした頭を踏みつける。
「何をしているっ」
タイミングが良いのか悪いのか、警吏2人がかけつけた。
キールは早々に釘抜きを放り捨てるが、どうみても凶器を持って暴れていた自分の捕縛は、避けられないことは分かっていた。
「事情は説明する。だが、その前に彼女の保護と怪我の――」
そこで、はじめてキールは彼女を見る。
彼女もキールを見ていた。
藍色の髪に、藍色の目。黒いリボンを髪に飾った、素朴な格好の少女は、キールと目が合うなり、藍色の目を驚愕に見開いていく。
その目。その目が全てを物語る――――彼女だと。
「――――き、みは」
喉がまともに動かず掠れた声に、彼女がぴくりと反応した。
自分の胸を押さえ、そこへ視線を落としたかと思えば、ショックを受けたような顔で再びキールを見る。その目が映し出していたのは―――失望だった。
とたん、彼女は身をひるがえし駆け出した。
逃げた。としか言いようがない、その行動があまりに予想外すぎて、キールは対応しきれない。
「――――…ま、待って」
「おいっ、動くな!」
警吏に腕を掴まれる。
下に振り払い外すが、2人がかりで取り押さえようとするので身を屈めて躱し、一度は手放した釘抜きまで滑り込めば、拾い上げざま警吏の眼前へ突き出す。
「――っ」
一度怯んでしまえば、体はすぐに動かない。
それを警吏から見て取って、キールは走り出す。
彼女の後ろ姿はもう見えていなかったが、それでも走った。