お嬢様の嘆き
リーシャはドアの隙間から、クリスティアンが父専用の客間に案内されて行くのを見ていた。
今日も落ち着いた黒っぽい装いで、しなやかな身のこなしがいっそう引き立つ。
いつもながら、見惚れるほど格好いい。気を引き締めないと、うっかり本当に恋に落ちてしまいそうだ。
「リーシャ、気持ちは分かるけれど、お行儀の悪いことはやめてこちらへいらっしゃい」
母親にそう言われ、リーシャはそっとドアを閉めた。
母は、娘と公爵の間にロマンスめいたものが生まれていると信じているようだ。
少しばかり後ろめたい。
リーシャは、今日のクリスティアンの訪問は、自分に対する相談――もしくは苦情ではないかと考えていた。
ここしばらく、外出すると、クリスティアンに出くわす機会が多かった。ほぼ毎回と言っていいかもしれない。
リーシャの方は例によってヒルダと一緒なので、クリスティアンに声をかけずにはいられなかった。が、会話の練習相手といっても、毎回リーシャと話していたのでは上達もしないだろうし、何より、付きまとっているみたいで迷惑だろうなと思うのだ。
外出を控えることも考えたが、そうなるとヒルダも家にいることになる。悩みどころだ。
それにしても、父もしぶとい。
リーシャが望むほどヒルダとウォルフの縁談は進んでいなかった。
ウォルフが言うには、ヒルダはまだ若いので、二年くらいこのままでも問題ないと父は思っているのだそうだ。
「お前が片付くまで、俺もヒルダも身動きが取れない。お前が公爵に結婚前に返品された場合、俺に引き取れって事だろう」
引き取ってもらわなくて結構だ。
とは言え、三竦みのような現状をどうすればいいのか……
「リーシャ、うろうろしないで。檻に入れられた穴熊みたいよ」
リーシャは、はあっとため息をひとつ吐いて、母の隣に座った。
今日、ヒルダは、メリッサ大伯母様に引きずられるように出かけていた。母と二人きりになるのは、久しぶりだ。
「お母様、ごめんなさい」
「何に対して謝っているのかしら?」
「えーと……長女なのに家を継ぎたくないと思ってること」
「それは仕方がないわ。まさか、公爵様に婿養子になっていただく訳にはいかないもの」
(それ以前に、夫になっていただく訳にもいかないでしょ。おそれ多すぎるわ)
「ウォルフが嫌な訳ではないの。気心も知れているし、いい人だと思う。でも――」
「そうね。恋ってそういうものよ。知ってしまったら、次善では満足できなくなるの」
そうじゃなくて、こっちがウォルフの次善なのよね、と、リーシャは項垂れた。
(次善なんて嫌だ)
――そう、嫌だった。妹のため、とか言って、本当は自分が次善の位置にいるのが嫌だったのだ。
自分の方は『ウォルフでいいか』くらいにしか思っていなかったくせに、ウォルフにはもう少し深い気持ちを期待していた。
ずるいし、みっともない。
「あらまあ、リーシャ。何を泣いているの?」
「お、お、お母様ぁ……」
リーシャは、えぐえぐと泣きじゃくった。
「わたしだって……誰かに好きって言われたいぃぃぃっ!」
「大丈夫よ。真剣に好きって思えば、公爵さまだってリーシャの気持ちを分かって下さるわ。ね?」
そこ、違う――と、思ったが、リーシャが訂正する前にノックの音がした。
「あの……」
家令がドアを半開きにして、その間からおずおずと顔をのぞかせた。
「お取り込み中でしょうか? ディートハルト公爵閣下が奥方様とお嬢様にご挨拶されたいそうです」
(早すぎだよ、閣下)
社交が苦手なクリスティアンのことだ。父には用件だけ言って終わったのだろう。
(今の、絶対聞かれたな)
リーシャは、母のハンカチで鼻をかみながら、遠い目をした。
彼女は気づいていなかった。
ドアが開いている今、盛大に鼻をかむ音が、先程の会話よりもはっきりとクリスティアンの耳に届いていることを。
淑女としては、そっちの方がよっぽど問題であることも。