かなめは嫁入り修行中(2)
ダンボールが粗方片付いたところでコーヒーを淹れた。
外はとうに暗くなっているということに気付いたのもこの頃であった。さほど正確ではない僕の体内時計が眠気を指したようで、ベッドの端に座りながら荷ほどきしながらうつらうつらと舟を漕いでいた。明々後日には入学式があるのでそれまでにはこのダンボールを片付けておきたい。そういうわけで引っ越してきてから一週間程放置を決め込んでいたダンボールを、ようやく空ける気になって、買い物から帰ってきてすぐ取り掛かったーーーだから多分6時間は作業していたと思う。
中学3年生から使い続けているCDコンポからビル・エヴァンスの緻密で流麗なピアノが流れているのもまた、眠気を誘っていた。だが、しかし、激しい音楽などをかけていれば、それはそれでギターを弾きたくなってしまうのだからCDを替えられずにいた。
眠いが眠ってはいけない、眠ってはいけないが眠くなるCDしかかけられないというジレンマに陥った僕はここでやっと回想から意識を目の前のコーヒーに戻し、一口飲んだ。
本棚にダンボールから取り出した本を並べる作業の途中でふと気になるものを発見した。
「落窪中学校卒業アルバム……こんなの持ってきたっけなあ。」
持ってきたつもりはなかった。決して楽しいとは言えない中学時代の写真を今更めくりたいとは、とてもじゃないが思わなかった。とはいえ一方では決して楽しくないとは言えないので、もしかしたらめくりたいと思うのかもしれない。しれないから持ってきた……のかもしれない。
中学時代の僕の趣味はギターで、放送委員会に所属しのちに放送委員長を務めたやや一般的な生徒であった。
落窪中学校には一応軽音楽部なるものが存在したが、カバーしている曲はどれもポップに寄っていて且つ、機材も貧弱極まっており、なにより部員が2人しかいない為入ることが憚られた。ならばと音楽好きの僕は放送委員会に所属したのだが、その委員会での先輩の1人に目を惹かれた…どんな先輩かというと。
…美人で、清楚で、気取ったふうでもなくむしろ屈託のない笑顔を振りまいている先輩だった。
しかし、その先輩は何故か僕だけに冷たく当たった。あらゆる場面でこき使った。
それでも僕は先輩が好きだった。断言しておくがマゾヒストではない。しかし、こき使ってくれるということが、何故か中学生の僕にとっては心の距離が近いような気がしてならなかった。今では愚かではあったと思うけれど、それに応えることによっていつか僕にもあの屈託のない笑顔を向けてくれると期待していたのだ。
程なくしてその期待は裏切られた。僕より1年先に卒業した先輩はすぐに彼氏ができたらしいことを人づてに聞いた。結局僕は想いを打ち明けることもなく恋に破れてしまったのだと、残り1年間をこのアルバムに写っている通り、委員長の椅子に座って漫然と過ごしたのだった。
ーー気付けばアルバムをめくっていた。そしてそのページには3年間の委員会のメンバー変遷が繁雑に載せられている。
僕の2年生のときの放送委員会。そこに写る波並先輩を見つけ体のどこかしらがむずがゆくなる。田舎町の、生徒数の少ない学校ではあったけれど、いや、だからこそ彼女の華々しさは一層引き立てられていたのだろう。高校を卒業してからどこか遠くの大学へ入学したという彼女を、もう、鮮明とは言えない記憶をアルバムと共に本棚に並べた。
コーヒーを啜る。既に冷めていたので一気に飲み干し、もう一杯淹れようとしてキッチンに立った。
前述した通り、キッチンは玄関のすぐ近くにあるのでドアの向こうから聞こえる連続した物音にもすぐに気づくことができた。
「……?」
その音は聞き方によればしゃっくりともすすり泣きともとれた。恐らくは後者であろう、そしてその主は幽霊かなにかだろうと僕は半分おちゃらけた予想を立てながらドアを開けた。
ゴツン!ーーと音をあげた。ドアの向こうにはどうやら実体があるらしいことが分かった。バタリ!ーーと音を立てた。音を立て倒れたことが分かった。
みると仄暗い夜の空の下で、柵にもたれかかり座った姿勢で啜り泣くフードを被った女がいた。黒い長い髪だったので女であることは確実だったのだが、それ以外のその女に関する要素は意味不明なものだった。パンパンに何かを詰め込んだアウトドア用のリュックサックに、4月に入ったとは言えまだ肌寒いというのにサンダルを履いていた。そしてモッズコートに黒いスキニーを履いている。ここでもう1つ僕は発見をする。胸は、ある。やはり女である。サイケデリックな、或いはヒッピー風な男では決してないわけだ。
女には優しくしろという男の界隈では一般的な思想のもと、大丈夫ですかと声をかけるも、
「大丈夫じゃ…ないです…」
と、顔も上げずに言うものだから
「どこか具合悪いんですか?救急車呼びましょうか?」
「いいんです…何も…訊かないでください…」
「何も訊かないでって言われても…」
「何も訊かないでください…そう、約束してください…」
弱々しい声でこう言うのみで会話は成り立たない。
すると次は警察だ。警察に通報しよう。
部屋の中にスマートフォンを取りに戻る。
ガチャン、とドアの閉まる音で僕は振り向いた。女がふらつきながら部屋に入ってきていた。
刹那、僕は押し倒されていた。
あ、殺されるのかな。と僕は思った。そしてその恐怖心の為に抵抗することも叶わなかった。
「やっと見つけた…」
見つかった。…誰に?
「チカちゃん…覚えてますか…?」
チカちゃんという女を僕は知らない。確かに僕は近森という苗字であるが、これを縮めてチカちゃんと呼ぶ女もまた、僕は知らない。
だが、その声だけは覚えていた。
放送委員会であったからこそ、覚えていた。
「波並…先輩…?」
「良かった…思い出してくれた…」
「思い出すも何も…」
先ほどまで卒業アルバムを眺めていたのだ。これほどタイムリーなことはない。しかし、同時に、今になって、しかもこんな夜遅くに波並先輩が僕に何の用があるのかという疑問が新しく脳髄に浮かんだ。
「チカちゃ…近森くん…」
「は…はい。」
「私を…
ここに住まわせてください。」