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千年王  作者: 奥山まゆこ
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R3 炉天祭

「衣を受け取らなかったそうだな」

「はい」


雲海船に乗り、席が落ち着いたところで始まった会話はそこでぷっつりと切れた。

今生帝は眉宇をひそめたまま何か言葉を続けようとしたが、結局諦めたような顔になった。少し離れたところに、王の側近でもあるダルシャン学官長が控え、さらに帳子を隔てた下座でメイソンとフォート兄弟が沈黙に冷や汗をかいている。離宮付きの雲官や付番の者たちも乗船し、今日は家人水入らずの歓楽事である、はずだ。


そもそも、王子といえど今生帝とは滅多に顔を合わせるものではない。

王が顔を見せるのは妃を訪ねるついでであるし、妃がいない離宮には王は寄り付かなくなる。


北の離宮には、ここ二年間、王が訪れたことがない。


その間に王子の性根はあらぬ方へ曲がってしまったのだが、さすがに今生帝の前ではラティもよそ行きの顔である。いつもの暴言ぷりは影を潜めて、今日は物静かな人形のようだ。


「もうよい。衣は北妃が用意していたものがあろう。それでよいわ」


石のような沈黙を破って、今生帝が掠れた声で言う。雲海船に乗るのは一年に一度の楽しみだというのに、その顔色は船に乗る前より悪くなっている。年をとったのではないかとラティはふと思い、すぐに心の中で打ち消した。王は不死ではないが不老だ。目の前の顔は、物心ついた時からシワの位置が変わっていない。頭の中でどうでもいいことを考えながら、両手を捧げ持つようにして膝を落とす。

身を伏せて礼を述べるラティ様子をさりげなく伺いながら、メイソンは隣に座った弟とともに胸をなでおろした。こうして見れば、気品のある王子らしい王子なのだ。指先まで優雅な仕草は、世辞なしにどこに出しても恥ずかしくない。

しかし、王は別に思い悩むことでもあるのか、暗鬱の表情を微塵も和らげることはなかった。


「今日同船したのは、お前に獅従儀について話しておくためだ。明日より大道が開く。私は天渡の間は音舎にこもる故、お前はこれから話すことをよく心得て獅従儀に臨むのだ」

「はい」

「ダルシャン、説明してやれ」


仰々しい言葉の羅列は前紹介だったらしい。鬱陶しそうに膳を片付けるよう言って、ダージ王は少し横になると呟いて、長椅子にごろりと横になった。酒も膳も手をつけていない。

内心呆れながらもラティは仕方なく王の前を辞した。


「さ、では食べながら話しましょうか」


船尾の一角でこじんまりとした宴が始まる。箱膳が寄せられ、杯に花茶が注がれた。上座中央、ラティの対面に座ったダルシャンは、白髪交じりの灰色の髪をした初老の高官である。痩せた髪を一括りに後ろへ流し、顔面にはいくつもの細かいしわを刻んでいる。細っそりとした目尻は少し垂れていて優しい。


「まず、私が今生帝の従士だったことを、王子はご存知ですか?」


いたずらっぽく垂れた暗褐色の目が光り、ラティは当惑した顔で首を振った。

幼い頃から見知った顔ではあるが、ただの学官長ではないのか。


「私は今生帝と同い年でしたから、不老でなければ今生帝も実はこんな年寄りなんですよ」


ふふふと笑うダルシャンは、箱膳をつまみながら、美味しいサハシですねと雛魚を酢で丸めたものを口に入れる。年寄りというほどではないが、確かに壮年は越えているだろう。ダージ王の若々しい顔を思い浮かべ、ラティは妙な気分になった。不老というのも、気持ちが悪いものだ。


「離宮に届けさせた墐格覧と清品覧はきちんと覚えられましたか?ひとつ、問題を出してもよいでしょうか」

「…あぁ」


話の展開が読めない。思わず応じたものの、ラティの頭の中は家格や官位がこんがらがったままだ。不味いことになった。


「私の家格と品を言ってごらんなさい」

「品は雲上三品、………」


途中で黙り込んでしまったラティに、ダルシャンはふっと笑う。


「分からないのが正解です。私の家格は墐格覧には載っていません。私は平民出身の官。あえて言えば、ダルシャン=ハルトが真名となります。先王の御代に流族となりました故」


ラティの両脇に控えたメイソンとフォートが、やや緊張した面持ちで姿勢を正す。《流族》というのは世襲のない貴族のことだ。隠し事ではないにせよ、出自に煩い貴族社会にあって、こうしたことが本人の口から大っぴらに語られることは滅多にない。


先王(ハルト王)は、家格にしばられた天山のありかたを疑問にお思いになり、第一子の従士を平民からお選びになりました。…従士とは本来身分を超えるもの。家格でもなく、品でもなく、自らを磨くために天から授けられる鏡のようなものなのです」

「天から授けられる鏡……?」

「さよう。王子が輝けば鏡も輝き、鏡がくすめば王子もくすむ。どんな従士でも、それは同じ」


何かを達観したような物言いに、ラティはただ目を見開く。

凋落した北方貴族サモワール家は、自分のために従士を出すことはできないだろう。

代わりに平民が寄越されるならいいが、多分そうはいかない。

どうせ、どこかの貴族の子供が、周囲の思惑を背負ってやって来るに違いなかった。

……あの豪奢な衣と、同じように。


「鏡に錆が付いていたらどうするんだ」

「鏡がくすんでいると思うなら、己を磨くほかありません」


きっぱりと言い切られ、ラティはきつく締めていた唇を緩めてほろ苦く笑った。

錆が付いているなら鏡を磨け、とは言われなかった。ダルシャンは厳しい人物だ。平民で従士となり、官職を得て一代限りの貴族となり、人には言えぬ苦労をして辿りついた答えなのだろう。


「ほら、外を見てごらんなさい」


ラティは飲みかけていた杯を置き、言われるままに船から身を乗り出して下界を臨んだ。冷たい風がヒョウヒョウと音を立てる。炉天祭の真っ只中、天門に向かって四方から大波のように寄せる道が、紅く遠く、見渡す限り広がっていた。


「あの灯の下で、その年に七歳を迎えた子は、家主から宝をもらいます。それは、耳珠であったり、綴子であったり、芯筆であったりします。それらを大切にして、学事に励み、学舎を出れば皆一人前となって働きだします。王子も民と同じように励めばよいのですよ」

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