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千年王  作者: 奥山まゆこ
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S7 舟遊び


「なーなー、いつまで寝てんの?」

「めっずらし〜、爆睡じゃん」

笑う声が、離れていく。さわ、さわ、と穏やかな風が頬を撫でた。

起きてるよと思ったが、顔を起こすには気持ちがよすぎる。

もう少し、あともう少しだけ………


ここは心地いい。

このまどろみの中でずっといたい。

不意に肩を揺さぶられて、セイは眠りから引き戻された。

「……っ、と………」

「王子、どこかお具合が悪いのですか?し、しっかりなさってください!」


ここはどこだ、と一瞬思った後、銀髪の青年を見てはっと我に返った。

夢を見ていたんだ。


カナタはかわいそうなほど動転していた。

あれよあれよと言う間に鬼楼に運ばれて、医官を呼ぼうとするのをやっとの思いで押しとどめ、セイは冷や汗をかいていた。

またいつかのように、訳の分からない薬を飲まされたらたまらない。


「本当に大丈夫でございますか?今日はお休みになられた方がよろしいのでは」


朝粥を支度するカナタは気が気でない顔だ。

南季入りに大病になった去年の例もある。ほんの少しの変化も見逃すまいと気を配るカナタだが、当の本人はもう辟易とした顔だ。


「心配性だなぁ、カナタは」

「王子は気病みを軽んじておいでです。確かに、獅子の血をひく王子は、私などよりも強い天寿をお持ちですが、まだ半人前のお身体です。滅多なことがないとも限りませぬ」

「はいはいはい」


普通より天寿が強いとか言われても、僕はモヤシ王子だからな。

匙を受け取りながら、ついいい加減な返事をしてしまう。こういうときのカナタはまるで日本の母さんのようだ。

はぁ、とため息をつくカナタに、セイは朗らかに笑ってみせた。

「大丈夫さ。僕だってこれでも体力をつけてきたつもりだよ。それに、今日の園遊会は、母様も楽しみにされていただろう?水を差したくないんだ」


もっともな言い分に、カナタは渋々ながら同意する。

この一年の、セイの成長は著しい。東季を過ぎた頃から背が伸び始め、体つきもしっかりしてきた。身体的な面だけでなく、周囲への接し方もこなれ、いい意味で顔を使い分けるようになった。果宮の内にいるときは、気心の知れた相手に砕けて接することも増えた。身近な話し相手にウージを得たことが、よかったのだろうか。


いつの間にか、守って差し上げなければならない王子ではなくなったのだな。

粥を美味しそうに食べるセイが、自分の手から離れていくようで少しせつない。

それでも、立派になったと感慨深く思うカナタだった。



どうして、あんな夢を見たんだろうな。


花宮の中庭に設けられた席からは、赤い月転の月が、薄い霧がかかった空にぼうと浮かんで見えていた。

華やかな衣装を着た楽士たちが姿を現すと、ひときわ大きな歓声が上がった。大人たちには酒が振舞われ、宴もたけなわとなっている。年若い楽士たちが化粧して紅顔をさらし、金色に輝く鈴鐘を打ち鳴らしながら舞い踊る様子は壮観だ。羽獣を模した衣装は鮮やかな緑色で、袖を跳ね上げさせると、鳥の翼のような白縁の半円を描く。

それを目で追いながら、セイは懐かしい日々を思い返していた。


クラスメートの声が聞こえていた。

ええと、あれは誰だっけ……。


「さぁ、そろそろ舟遊びをいたしましょう」

玉簾で覆った鉾傘が動いて、母の輿が四方から持ち上げられる。

力仕事は番の役割だ。セイも物思いにふけりながら同じように宙の人となった。

広大な中庭の奥へと進み、天泉の湧き出る湿地に入る。


番たちは泥で足を汚しながら二つの輿をそれぞれ舟の前まで運んだ。担ぎ手を変えて、輿は船室の奥へと運ばれる。

舟遊びは水入らずの場ということになっていて、舟に乗るのは限られた家人だけである。セイが乗った舟では、ウヴァとカナタが迎えてくれた。戸口は簾子を深く垂らして、船内はまるで客舎のように整えられている。


「うわ、すごいな」

「舟遊びは雲海船だけではないのですよ。舟遊びに高じると、一晩でも二晩でも泊まって遊び続けてしまうほどなんですから」


いつもより綺麗に着飾ったウヴァが嬉しそうに教えてくれる。

普段ならもうとっくにお休みになる刻限ですが、今夜は特別な宴。

ここからが、本当のお楽しみですよ。


ジャン、ジャン、ジャン、と鐘を打ち鳴らす音が聞こえ始め、やがて船影は月の映る暗がりに滑り出す。舟は全部で五隻あり、後に続いて楽士を乗せた舟も漕ぎ出した。ウージはそのうちのどれかに乗船しているはずだった。

辺りは急に静かになって、ぎっぎっという櫂と水音だけになる。


船内では花を浮かべた酒とつまみが用意されていた。大声で話したり物音を立てたりといった不粋なことはせず、泉に浮かんだ月をしっとりと楽しんでいると、やがて、ゆったりと風琴の音色が響き始めた。

まるで水面と共鳴するように、その波長は心地いい。

あれはウージが奏でているのだろうか。

風琴と合わせて、別の舟に乗った唄い手が、天鎮祭のしらべを歌声に乗せる。

こちらは少女が歌っているらしく、靄を晴らして月に届くかと思われるような澄み切った高音だ。



幻来たりて、夢うつつ、花は散り、五領の楽土は、陽炎に消ゆ

今生帝の明あれば、月は転ぜよ天は鎮まれ、


現来たりて、迷えども、鬼は散り、五領の焦土は、不知火に消ゆ

暗路に灯せ、天渡に捧げよ



唄を彩るように、はらはらと花弁が飛ばされて、流れつくと舟の周りを五色の泉に変えた。御簾の向こうからは薫風が吹き、その幻想的な光景に一同は息を忘れた。

「すばらしい獅子唄ですね」

カナタが感極まって声を震わせる。セイも無言で頷いて、歌の余韻に酔った。

もう一度聞きたいと願ったのは自分だけでなかったようで、繰り返し、風琴に合わせて同じ唄が続いた。ハープよりもまろ味のある風琴の旋律が、どこか労わるように、甘美な調子でかき鳴らされる。

幻月、夢月、散月、……と、順々に十四の月名を唄いながら、哀愁を帯びた鎮護のしらべが響いていた。



幻来たりて、夢うつつ、花は散り、……


その清らかさと物哀しさに、セイはいつしか涙を浮かべていた。

すっかりフタをしていたつもりの胸のうちに、優しい手が忍び込んでくる。


『いってらっしゃい、忘れ物はない?』

ないない、とぞんざいに返して、塾に向かった、あの日。

いつものように母さんは夜食を作ってくれて待っていたかもしれない。

うちに帰れば、父さんはビールを片手に、おかえりと言ってくれただろう。

機嫌がよければ、「お前も飲むか?」なんて、丸い顔を赤くして笑ったりして。


この記憶だけが、知っていること。


普通の高校生だった。

教室の机のにおい、先生たちの声、校庭の土ぼこり。

昨日読んだマンガの話、サッカーの話、憂うつな試験の話、好きな女の子の話、

何でもない会話をして、どうでもいいことに笑っていた。


そんな自分も、確かにいたのだ。

《母様》も《家人》も、僕を柔らかな繭の中で守るように育ててくれたけれど。

皆、やさしい人たちだけど。


でも本当は、ずっと淋しかったのかもしれない。

「王子」と呼ばれても、たまに自分が自分じゃないように思えて。


ここが、僕の居場所じゃないような気がして。




……帰りたい。


両親がいて、友達がいて、王子でも何でもなかった自分に、戻りたい。

どうして、僕には日本の記憶があるのだろう。

どうして、自分の名前を覚えていないんだろう。

どうして、こんなところにいるんだろう。

どうして、


ふいに胸を貫くような強烈な郷愁が沸き上り、セイは震える唇をかみしめて、懸命に涙がこぼれるのを堪えた。


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