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千年王  作者: 奥山まゆこ
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R6 メイソン兄弟


混乱しきった場でなすすべもなく、ほとんど自失茫然となっていたソンは、自分がいつ果房に連れて来られたのかも曖昧だった。


とんとん、と卓上で綴子の背が整えられる。

それを腕に抱えると、フォートは格子の脇にかがんだ。膝丈ほどの棚に、綴子がぎっしりと並べ置かれている。

戻ってきたときには、手に水差しを持っていた。


少し長い話になりますが、よろしいでしょうか。

一対一になって前置きすると、フォートは感情を抑えた声で、語り始めた。


「もう、ずいぶん前のことになります。北妃様が北の離宮にお入りになられてしばらくした頃、大禍が起こり、サモワールはその責を負って、雲上殿から一掃されました。私どもサモワールに名を連ねた者にとって、先の見えない零落の始まりでした。そして北の離宮でも、選妃の折に同行したすべての家人が暇を言い渡され、雲上を立ち去らねばなりませんでした。北妃様は気丈にもひとり離宮に残られたのです。


幸いにも北妃様は、まもなく王の御子を宿されました。他の離宮の妃たちからは、相当に恨まれたことでしょう。天山ではサモワールの者が厳しく罰せられている最中というのに、あろうことか北妃様が第一王子をお産みになったのですから。中には、これでサモワールへの風当たりが和らぐと申す者もあったようです」


まったく浅はかなことでした、とフォートは自嘲するように続けた。


「今生帝は北方貴族を許してなどおりませんでした。逆に触れを出して、北方貴族の登上は雲中殿までと言い渡したのです。北妃様の元に、毒入りの菓子が貢物として届けられるようになったのは、この頃からでした。他領の息がかかった雲官は知らぬふりで菓子を差し出します。それを知って、北妃様は深くお心を閉ざし、王子を腕に抱いたまま離さなくなったそうです。


これは皆、母から聞いた話ですよ。私はまだ雲門舎におりまして、将来を考えあぐねておりました。兄も雲下官になったばかりで、やはり肩身は狭かったようです。


私たち兄弟の母は、末系のしがない家の三女でして、戸を分けて独立する力もなく、家主に仕えて養われている身でした。そんな母の元に、ある日雲上遥か離宮からお声がかかったのです。なんでも、今生帝が北妃様のご様子を哀れんで、北領から雲官を迎えることをお許しになったとかで、益体もない者から選ばれたそうです。それはもう、母は喜んで引き受けましてね」


フォートはいったん言葉を切って、杯を取った。

ごくごくと飲み干して、銀縁の水色の器がからんと小さな音を立てる。

向かいに腰掛けたソンは、初めて聞く話に身を固くしていた。

おしゃべり好きな雲官たちも、メイソン兄弟の母御の話などしたことがない。

背中を蟲が這って行くような、嫌な予感がした。


「それで、母御は……」

「天授儀も無事済み、母が王子を連れて果宮に移ってから、次第に貢物だけでなく雲官から直接王子を害そうとする者が現れはじめたのです」

「っ、どうして」


フォートは薄っすらと口元を歪めた。

「幼な子のうちであれば、只人のようにたやすく殺せるからですよ。

獅子の天来を持つ御子は、離宮にひとりしか生まれません。王子が死ねば、後に生まれた他の離宮の子らが王位を手にできるというわけです。花宮には今生帝が御渡りでしたので、滅多な振る舞いはできなかったのでしょうが、果宮には王の目はございません。最初は花茶の色が淀んでいるのに気付き、出される膳の匂いで察し、度重なるうちに貴族の駆け引きに慣れない母は、信頼できる家人も見つけあぐねて、孤立してしまったのです」

どうしようもなかったのですよ、と淡々と言葉を重ねる。


「その日、母は王子の衣を付けるために調所におりました。衣立てに掛かった衣をいつものように取り、袖を合わせてやり、襟布を整えている途中で、母は血へどを吐いて倒れました。縫い付けられた毒針が指に刺さったのです」


そうして、幼い王子の目の前で、悶えながらあっという間に死んでいった。


分かったでしょう、

目の奥にほの暗い影を宿したまま、フォートは言った。


「王子は、それで人に触れられるのが怖いのですよ」



怖い、か……


血なまぐさい事件を経て、果宮の雲官は総入れ替えとなり、フォートとメイソンは後を継ぐ形で離宮に迎えられたという。

ほどなくして、北妃も亡くなってしまい、花宮は打ち捨てられた。


ソンは果舎の内廊をとぼとぼ歩きながら、北の離宮を襲った数々の不幸を思った。

まるで牢の檻のように冷たい静寂に取り囲まれて、逃げることもできずに天寿が尽きていった人たちがいる。

さぞ心残りだっただろうに。


しんみりした気持ちになりながら、自分が軽はずみなふるまいをしてしまったという後悔がさらに心を塞いだ。


ラティに何と謝ればいいのだろう。

果舎の南端にある自室に戻ると、ちょうど弟が身支度を整えているところだった。

耳のいい弟のことだ。足音が聞こえていたのだろう。こちらの気分まで察しているらしく、もう荷物をまとめきっていた。


「世話になったね、兄さん」

「……いいのか」

「だって、一緒に天山を降りてはくれないでしょう?」


萌黄色の瞳が開き、まるで何もかも見透すような遠い目になる。

ソンは少しの間黙って、「従士だからな」と短く応えた。

「違うよ、兄さんがここにいたいんだよ」


そのとおりだ、とソンは思った。

伸ばされた手に触れられるままになって、別れを交わす。

身ひとつで家を飛び出してきた弟の気持ちを、結局、俺は受け取ってやれない。

目が見えないかわりに耳がいい弟は、周囲から謗られるたびに耳をふさいで俺の名を呼んだ。遊びたい盛りなのに、人の話を聞くことだけが楽しみで、外に出ることもできない。一年のほとんどを屋敷の奥で隠れるようにして暮らさなければならない弟にとって、血の繋がった本当の兄弟がどんなに慰めだったか。

俺はそんな弟にひとりで帰れと言うんだ。


淋しげに目を伏せながら、ネムは兄の目や鼻に触れて、その表情を確かめる。

兄の頬の温度は、ラティのそれとよく似ていた。


「兄さん。僕ね、王がどんなものなのか、ずっと不思議だったんだけれど」

「?」

「少しだけ、分かったよ」


目を閉じたまま、ネムは淡い笑顔を浮かべていた。

えっと聞き返す間もなく、伸ばされた両手は滑るように離れていった。


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