R5 手触り
「あのさ、俺の弟が、お前に触ってみたいって言うんだ。その、目が見えない分、触って確かめないと気が済まないらしくて……」
歯切れ悪く言い淀みながら、ソンは上目遣いになる。
北彗宮の欄干で寝転んでいたラティは半身を起こした格好で、顔中から表情を消して眼差しだけくれていた。陽気にそよぐ風がまるで嘘のように静かだ。いつになく目線を彷徨わせながらも、ソンは一度閉じかけた口を開き、掠れた声で続けた。
「だから、その……ラティ、少しだけ触れてもいいか?」
ー
学事にやってきたダルシャンに向かい合いながら、ラティはその言葉を思い返していた。
「おや、珍しく花宮に招かれたと思ったら、ソン君の姿が見えませんね」
「うん、まぁな」
うわの空で応えるラティを、茶器を運んできたメイソンが心配そうに伺う。
ダルシャンはふと笑って「聞きたいことがあるのではないですか」と切り出した。
「そう、顔に書いてありますよ」
ラティはばつが悪そうに片手で頬のあたりを拭って、「雲台に行こう」と促した。追おうとするメイソンを制すると、ダルシャンはひとりで階上へと続いた。
雲台に出ると、一面に緑青の雲海が広がり、どこからともなく静かな風が吹いていた。柵を両手で掴んで、言葉を探すラティの後ろ髪も、風に合わせてかすかに揺れている。しばらくそのままでいて、やがて思い切って口を開いた。
「身を返すって、どういう意味なんだ?……お前も、フォートやメイソンも、俺が王になったら、この身を民に返すのが天命だと言うだろう」
「その身を返す、という言葉のままに受け止めてよいのですよ。離宮で得るものは全て、民からの借りものです。この雲の下に住む者は、天山を信じて生きています。そして王子は、王を信じる民に生かされている。
今息を吸うことも、よい衣を付けていることも、学事をすることも、民からの借り事にすぎません。ですから、王子はいつか全てを返すことになるのですよ」
ラティは雲海の下に目を落とした。
自分が息をしていることと、遥か彼方に見える山野で暮らす人がいることは、全然繋がらないと思ったが、それをどうダルシャンに伝えればいいのだろう。
「天山を信じていたって、禍は起きるだろう」
「そうですね。そして命を落とせば天泉に浮かびます」
「じゃあ俺は、禍で死んだ人に、何をしたら等価になるんだ?」
等価ですか、と静かに反芻する。
ラティが感じているであろうわだかまりが、ようやくダルシャンにも飲み込めた。
立って項垂れている姿に、優しく語りかける。
「何をしても等価にならないから、王は全てを返し、人のために尽くすのですよ。王は禍で死んだ者に、責を持つ者。天壇に座る者は、己が欲の一切を捨てて、この責に耐えなければならないのです」
「天壇は罪人のための椅子なのか」
振り返った顔に、ダルシャンは頷いた。
「そうですよ。誰もその代わりを務める者はありません。王子は一人でそこに座るのです」
口調こそ優しかったが、その答えはラティが求めていたどんな答えよりもずっと手厳しいものだった。
ー
「王子、ネム様にはお引き取りいただくべきではないでしょうか」
碧雲閣に向かうラティに、何度となくメイソン進言する。学官長と話してからの様子は傍目にもひどいものだった。今もいつになく険しい気色で、青ざめた唇を結んでいる。
「私どもは既に手を尽くしております。盲の者を果宮に入れることだって、並大抵のことではないのですよ。それを対面して、おまけに触れてみたいなど……失礼ながら、あちらの無礼にもほどがありまする」
後ろに控えた雲官や付番たちも心中で大きく頷いたが、ラティは無言のままだ。
碧雲閣では知らせを聞いてフォートが待ち構えていた。
こちらはメイソンと違い落ち着き払った様子だが、額に布を巻きつけ、どこから持ち出したのか長棍を手にして一歩も譲る気がない。
「ネム様にご対面するのであれば、私がこの棍を帯びることもお許しください」
そうして、ものものしい雰囲気の中、顔合わせは離れの鬼間で行うことになった。
ソンも神妙な顔つきで入ってきて、メイソンとフォートに膝礼を取り、弟を連れてラティを拝した。雲官は引き下がっていたが、間の内には緊張が張り詰めている。
「ネムと申します。ラティ様」
澄んだ口上に、ラティは白い顔をさらに白くさせて物も言わない。
「この両手で触れても、よろしいでしょうか」
うん、と頷いたのを見て、ソンはその意を伝えてやった。
弟の背後には棍棒を掴んだフォートがぴったりと付くが、ソンはじっと我慢するほかない。ラティは穢れとは無縁の存在なのだ。無茶を言っているのは自分たちの方だった。
ネムは後ろの気配を気にするそぶりもなく、臆することもなく前に進み出た。小さな足で段差にも転ぶことなく、兄に頼ることもない。
ぱっと膝元で広げられた子供の手を見て、ラティはぐっと喉を詰まらせたが目をつぶって耐えた。
身を返すんだ。
ラティが思ったのはそれだけだった。
ネムに届くよう、椅子から身を乗り出すようにして手を差し出した。
冷たい手が、己の手首に触れて全身が総毛立つ。ネムは小首をかしげながら両手で確かめるように腕を触り、肩に触り、フォートがあっと長棍を構えた時には頬に触れていた。
青ざめたまま辛うじてまつげを上げると、ラティはそれを激しい目で止めた。
一刻か、二刻か、
途方もなく長い時が経ったように感じられた後、手はそっと離れていった。
「王子っ!!王子!」
力なくその体が傾いでいくのを、メイソンが飛んできて受け止める。がばりと両腕で抱えるなり、そのまま脇目も振らずに荒々しく床を蹴った。
ただならない事態に、ソンは血の気が引いていた。
今になって、自分がとんでもなくひどい過ちを犯したことが分かったのだ。
いつも隣にいるのが当たり前で、手や肩が触れても払われたことがなかった。
だから、気づかなかっただけだ。
ラティは欠け者だから触れることに逡巡していたわけではない。
「触られること」そのものが、耐えがたい苦痛だったのだ。




