R4 クラチダ粥
目が見えない弟が家出した。
そう聞いて、メイソン兄弟も雲官も当惑の表情を真っ先に浮かべた。
「欠け者」は外を出歩かない。そういうものだからだ。
獅従領からは頻繁に文が寄越されるようになったが、ソンの弟はなかなか見つからなかった。
楽月も終わる頃になってようやく、天山のすぐ麓の雲門舎で門前払いを受けたらしいという話が伝わった。
天山まで来たときのために、メイソンは獅従のザハトに対し、盲の者が訪れることの裁可を仰ぎ、フォートも教え子の雲下官を通じて天門を通る子供を見張らせた。
周囲の大人たちが手を尽くすなか、ソンも表向きは明るさを取り戻し、焦燥にまみれた顔を見せなくなっていた。
「おい、粥に入れて食べるんだ。もっと捕まえねぇと」
「まだ要るのか」
胸に抱えた小鉢を抱えて、ざばざばと水底を歩く。白い砂地がぶわりぶわりと舞い上がり、小指ほどしかないチダが膝の間をすり抜けていく。
天泉は明るく澄んでいて、魚が隠れる場所はほとんどない。すくっては小鉢にあけ、すくっては入れると、面白いようにいっぱいになる。ぴちぴちと跳ねる元気な稚魚たちだ。天泉では青色にも緑色にも見える美しい鱗は、白色の鉢に入れると薄い銀色に光った。
「南季までの天寿なんだぜ。旨いときに食わなくちゃ」
「そうだな。……よし、よし」
俯いて稚魚を数えながら、ラティは指を鉢に入れると一匹ずつ頭を撫でた。伏せた睫毛が目元に淡い影を落としている。つい三日前には、卵からチダが還る様子を何刻でも飽かずに眺めて過ごしたのだ。ソンも急に食べるのが惜しい気になったが、結局何も言わずにラティが小鉢を雲官に渡すのを見送った。
ため息が出そうなほど陽気がいい日が続いていた。
今日は東季を祝って、クラチダ粥を食べるのだ。
その、数刻後のこと。
「大変です!大変です、王子!今程、ソン様の弟御が……!」
倒けつ転びつフォートが飛んできたとき、ラティは碧雲閣の雲台でうたた寝をしているところだった。がばり、と身を起こすと、隣で寝転がっていたソンがそれより早く立ち上がる。すぐに追いかけたが、回廊に出たところで厳しい形相のメイソンに止められた。
「いけません!ソン様の弟御は普通のお体ではないのです。そのままでは御身が汚れます」
「そんなの構うか。ソンの弟だぞ」
「せめて禊を終えて、果門に通してからお会いなさい。ソン様の弟御が欠け者の烙印を背負うように、王子も穢れなき王として生きる責を負ってございます。もし、花門へ出て、余計な外聞を広められたら何とします!軽はずみに情に流されてはなりません」
必死の嘆願に、ラティはしぶしぶ身を引いた。
欠け者は蔑称を「穢れ者」という。主格で生まれた者でも特別扱いはされない。
門前で天泉の水を体にふりかける禊を終えて、ようやくソンの弟は清浄な離宮に入ることを許された。ひとまず果舎に通して兄弟水入らずの場を設けたはいいが、なかなかラティには声がかからない。落ち着かない顔で、クラの香りが漂う膳房のあたりを行ったり来たりしている姿に、茶を持って果舎へ向かいかけたフォートは呆れた。膳房の脇から細廊を抜ければ果舎に出る。気になるならそう言えばいいのに、どうやら家人に断らずに入るのを躊躇っていたらしい。
「ネム様は王子の二つ年下のようですね。ソン様をひと回り小さくしたような、かわいらしい弟御でしたよ」
細廊を渡り、ソンの果房に向かいながらフォートは見てきた様子を伝える。
頭巾を目深に被ったまま離宮に出入りする商人に付いて天門を通ってしまった機転には、門官も驚いていた。気をつけて見ていなければ、子供が盲であることには気づかなかったということだ。
「まぁ、そういうところを含めて、ソン様によく似ていらっしゃいますね。ご兄弟の仲もとてもよろしいようで、先ほども泣いている弟御を慰めていらっしゃったのですが……」
と、フォートが果房の前で立ち止まった。
帳子の向こうから、泣きじゃくる子供の声が聞こえる。
フォートはまだ泣いていると言いたげに苦笑してラティを見やったが、漏れてきた叫び声に一瞬で顔を強張らせた。
「どうして?天山の王は、母上を僕たちから奪っていった悪い奴だ。それなのに、どうして兄さんまで奪っていくの?!帰ってきて、……いやだっ聞きたくないっ、天山なんか大嫌いだっ!」
うわぁぁっと、悲痛な叫びが歩廊にまで響き渡る。
ソンが何かとりなす気配があるが、声はくぐもっていて聞こえない。ラティはまるで雲台から突き落とされたような顔になり、続きを聞くまいと後ずさった。
「王が穢れてないなんて、僕は信じてない。僕は王なんか信じない!」
走り去ってしまいたいのに、足はひどく重くてのろのろとしか動かない。長上衣を翻して両足を叱咤しながらラティは歩いた。ネムのしゃくりあげる声は、なおも背中を追ってくる。
「僕には王が見えない。この手で触って、確かめることもできない。分からないよ。兄さんだって、王が嫌いだったじゃないか。母上を殺したのも、僕を欠け者にしたのも、あの天壇に居座った王だろう!」
乾いた唾を飲み込む。
ソンが雲海を指さした日のことを思い出し、思わず目を瞑る。
聞きたくなかった。聞きたくなんかなかった。
クラチダ粥を家人と囲むつもりが、浮き立った気持ちは消え失せていた。
チダが浮かぶ粥を分けてしまうと、ラティはひとり天泉に立った。
ぬるい風にのって、泣きじゃくる声がまだ聞こえているような気がする。
ソンの弟は果舎に泊まることになったが、顔も見ないままだ。
波ひとつない水面の下には、稚魚の群れが蒼珠のように光って泳いでいる。
今日死んでいったチダたちは、この天泉に浮かぶのだろうか。
ソンの母御が、天泉に浮かんだように。
天泉はしんと静まり返って、ただ立ち尽くすラティの姿を映していた。




