S4 天来
下界では、月は朝に昇って夕方に沈み、昼は明るく夜は暗いのだという。
夜には空がきらきら輝くこともあるというから、星のようなものが見えるのかもしれない。
話を聞く限りでは、日本の空模様とよく似ている。
雲上は違う。
月は沈まないし、昇らない。
昼も夜も、いつも同じ位置にいて、満月のまま輝いているだけ。星もない。
雲上での一日の時間の流れは、雲海の光り方で感じるものだ。季節ごとで色味には違いがあるけれど、昼間は白光に満ちていて、夕方にかけて少しずつオレンジ色を帯びて、夜になると灰色にかげっていく。
「あぁ、この客舎はいい眺めですね。まさに楽月にふさわしい」
青色の雲海に、黄金の光が波のように浮かんでいるのをひとしきり眺め、洒落た一枚布姿の男は目尻の小じわを垂らして深く笑んだ。小脇にはいくつか綴子を抱えている。もてなしを気に入ってもらえたようだ。セイはカナタと目をあわせて微笑み、こっそりと労をねぎらった。
「今日は東季祭にちなんで、花の菓子を用意いたしました。花茶とあわせて花尽くしでお召し上がりください」
花を模した盆に銘々皿。茶托や蓋のついた湯呑まで天樹の花を模している。桃色の桜のような形をした菓子はリカに特別な香料と色素を混ぜ込んで型を取ったものだ。
この時期、下界では天樹の枝を門前に飾って田畑の実りを祝い、各地で東季祭が行われる。祭りでは、花浮茶という塩で揉んだ花を湯に浮かべた飲み物と、マスタラ粥を食べる習わしだ。三品以上の貴族は花浮茶の代わりに花を模した菓子で趣向を凝らし、クラチダ粥を食べる。
「誠に結構なもてなしでした。さあ、さっそくはじめましょうか。私のことはフォルカ学官に聞かれたとか」
「はい、先生からはカンヤム裁官が公平な裁きをされるお方だと伺っております」
相手はその先を促すように見返してくる。自分を試している目だ。
ヤンと対面したことで、セイは官を招聘することが、学師を迎えるのとはかなり勝手が違うことを知った。こちらが真剣に向き合わなければ、変に警戒されたりおざなりに対応されるだけなのだ。
「民が安心して暮らすことができるのは、悪いことをした人間が正しく罰せられるからだと思います。それには裁官の働きが欠かせません」
「ほう、ほう。それは結構なご見識ですな。それで、私からは何を学びたいとお考えで?」
「裁きの心です。私は成儀を迎えたら、王を支える身になります。正しいものが分からず、迷うこともあるに違いありません。そのときにはカンヤム裁官のように振る舞いたいのです」
間髪入れぬ受け答えに、面白そうにしていた初老の男は息をのんだ。
獅従儀を過ぎたばかりとは、とても思えない返しだ。
「……お噂にたがわず、王子は格別な半人前でいらっしゃる」
ひとつ頷くと、カンヤムは持っていた綴子を卓台に広げた。法書、律集とそれぞれ銘打ってあり、大ぶりの綴子には刑張と書かれてある。法書には裁官の心得が、律集には裁のすすめ方や刑を判断するための考え方がまとめられいるとカンヤムは説明した。
ここの法律を見るのは初めてだ。
どきどきしながら刑張をめくると、そこには直近の裁判結果がずらりと並んでいた。たまに朱書きがされていて、刑の重さが変更にされているものもある。
ひとつひとつ、目で追っていく。
盗みで髪を丸刈り?殺しは刺青がひとつ……?
いくらなんでも刑が軽すぎるんじゃないだろうか。
放火で片目つぶし、親を殺してやっと手首切り落としだ。刑が直裁的なのは仕方ないにしても、罰の基準がよく分からない。
カンヤムは自由に閲覧させて質問を待っているようだった。
セイは刑張をウージに回してやり、とりあえず目先の疑問を払拭することにした。
「これらの刑は、妥当なのですか?断髪や刺青で、悪人が改心できるものでしょうか」
「えっ?」
「いえ、あの……、私はこの髪を切られても、どうという気にもなりそうにありませんが……」
「「えぇ!?」」
仰天した声にカナタの素っ頓狂な悲鳴が加わる。
やばい、ウージまで変な顔をしてる。
半口を開けたカンヤムを眺め、セイはこれはしくじったなと思った。
これまで一度も散髪したことがなかったのをもっと考えるべきだったか?
毎日髪を結ってくれる雲官のためだけに、面倒な長髪を我慢していたつもりだったんだけど。
「王子、髪は天来のもの。いえ、髪だけでなく、その瞳も、口も、耳も、鼻も、手足も、何ひとつ欠けることない五体そのものが天来のもの。決して粗末にしてはなりませんよ」
「そうですとも。王子も天来儀をご存知でしょう?家主は、戸に赤子が生まれるとその髪と瞳の色を見て、子どもの天来を祝います。それを大切に守るのは何よりの人の務めというもの。髪を切ることなど、ありえませぬ!」
そんなに大げさに言わなくても、と思うが二人の顔は真剣そのものだ。
「天来は、文字どおり天からやって来るものだから、大切にしないと無事に天寿を迎えられないんだ。天山で生まれる御子は、なかでも特別な天来がもたらされる。その髪と瞳の色は、セイ王子が天に近しい方だという証だよ」
でも、まあ、特別だから気にしなかったんだよね、とウージは黒髪を耳横に垂らして首を傾げたまま、取りなすように言った。
そうか、無意識に日本の常識で考えていたんだな。
日本では当たり前のように床屋に行くし、髪も染めるし、タトゥーも平気だった。
セイは項垂れて、自分のなかの常識を上書きする。
人の五体は天のものーー。
誰もかれも長髪なのには、そういうわけがあったのか……。
「王子がご想像されるよりも、これらの刑は厳しいものでございますよ。刑を受けた者は、一生欠け者のそしりを受けて生きなければなりません。安らいで天寿を迎えることもできなくなります」
ダメ押しのようにカンヤムが説明する。
……急に頭の上が重くなってきた。今日は編んでまげを作り、布の髪飾りを巻いている。髪を下ろせば背中半分くらいまでになっているだろう。
「心配せずとも成儀を迎える頃には髪は伸びなくなりますよ。もう前髪は伸びきっておられるようですし、あと数年で後ろ髪も生えそろうかと」
「ははは、そうですか……」
十二歳で髪が伸びなくなるってか。
短い顎髭をいじくるカンヤムを眺め、微妙にずれた世界にいることを再認識するセイだった。
……髭については、今は聞かないことにしよう。
「それにしても、刑の書き直しが多いのではありませんか?……えぇと、こちらの刑帳は、西領のもののようですが」
刑帳の表紙をめくり、領印を確認しながらウージが疑問を呈する。
朱で刑が上書きされているのはセイも不思議だった。
「いい質問ですね。裁は州所で行っているのですが、同じ法書と律集にもとづいて刑の吟味を行っても、領や州が違うと偏りが生じてしまいます。そこで、私ども裁官が在野官として州に赴任し、裁を正すことがあるのです」
カンヤムは言葉を切ってやや苦い顔になった。
「また、尚官長が勅書をお出しになれば裁はいかようにも変えられます。西領はもともと裁の歪みが激しいうえに、このところ勅書による裁の取り直しが多くなっているのです。尚官長は西領の方ですから、厳しい裁を嫌がるお気持ちがあるのでしょうが、これでは在野官も示しがつかず、困っておるのです」
セイが今まで聞かされたことがなかった類いの話だ。
離宮の奥にいては決して耳に入ってこない。学師を通して、離宮の外の世界のことが少しずつ聞こえてくる。千年王の伝説はあっても、ここはユートピアでも何でもなくて、厄介そうな現実と隣り合わせになっているのだ。
そのまま、カンヤムの話は、西領の話題に流れていった。




