S3 歴
「土なんて触ったこともなかったよ」と言いながらも、ウージは前庭の豆撒きに付き合ってくれた。手先が器用なウージは呑み込みも早く、鍬を振るうのも等間隔で種を植えるのも苦にしない。せっせと汗を流して畝をつくる姿は、ぶきっちょなセイよりもよほど堂に入っていた。
「僕も畑が好きになれそうだよ」
爽やかな汗を拭いて笑っていた姿に、内心ものすごく悔しくなったのは内緒だ。
南領の主格に生まれたウージは、王族の次に身分の高い四方族の御曹司だ。
離宮ほどでなくても広い大屋敷に住まい、常に誰かにかしずかれる生活をしてきたのだろう。いずれは雲上官として、平民からかけ離れたエリート官僚になる身分なのだ。土を触ったことがなくても不思議じゃない。
「すごいなぁ、もうこんなに伸びたよ。先月種を蒔いたばかりなのに」
「今年は土をよく慣らしたから、だんだん畑の土になってきたのかな」
「畑の土に?どういうこと?」
その貴族の御曹司が、今では揃いの編み靴を履いて、前庭の畑に通うようになっている。
まずは順調に育っているようだ。黒々とした柔らかい畝に沿って、鮮やかな新芽が生えている。今年は畑を拡張してマス豆とタラ草以外にも、イモ類やハーブに似た香草をいくつか植えていた。種類を増やしたほうが、発育の具合を比べられる。
「菜物を育てるには、土づくりが一番大切なんだよ。深く掘って柔らかくして、水や空気を通しやすくしてあげると、自然に根を張るようになる。天山は菜物が育ちにくいから、余計に手をかけなくちゃならないんだ」
「なるほど、土を耕したのはそういう意味があったんだ。セイ王子は雲門舎でも教わらないことまでよく学ばれているね」
しきりに頷きながらウージが書付を取る。
勉強熱心なのはいいけれど、大した知識じゃないからきまりが悪い。小学生のとき、理科の授業で野菜を育てていた時のようにやっているだけだ。
畑を始めたのは、ただ退屈を紛らわすためだった。
マスタラ粥を食べたいと思いついて、思いがけずフォルカに褒めてもらえて、庭の片隅に畑を作り続けるうちに、すっかり家人を巻き込んでいた。
年々作付け面積は広がり、今では季ごとに庭の菜物が食卓に並ぶ。
「そろそろ新しい学師がいらっしゃる頃だね。行こうか」
穏やかに促す声にセイは我に返った。すぐそばに自分よりひと回り大きな手がある。それを握り返すと、こそばゆい笑みがこぼれた。
今、畑にいるのは自分ひとりじゃない。たくさんの家人に支えられている。
なにより、自分にも天山の友達ができたのだ。
「……うん!行こう!」
ーー
今日は招聘していた歴官が初めてやってくる日だ。
セイもそのつもりで支度をしたのだが、刻限を過ぎても先触れが来ない。
迎えの用意をしていたカナタがやきもきして様子を見に行かせたところ、ようやく花宮から知らせが入った。どうやら触れもなく花門を潜ろうとして足止めにあっていたらしい。
「ずいぶんと常識のない学師のようだね」
冷や汗をかいてあれこれ指図している侍従を眺め、ウージはすっかり呆れた様子だ。雲上官ならば、離宮に訪れる前に先触れの遣いを寄越すのは当たり前のことだ。三品に満たない官なら余計にしきたりには気を使うはずなのだが。
アッサンの推挙だから間違いないと思ったけれど早まったかな……。
口には出さなかったが、セイもそう思わざるをえなかった。
散舎に新顔の学師が現れたのは、約束の刻限から半刻ほど後のことだった。
「ヤンと申します」
遅れてすみませんとか、お呼びいただいて光栄ですとか、何かお決まりの言葉が続くと思いきや、紅色の目はそのまま静かに伏せられて膝礼のために屈んだ。ひとまとめに結われた髪はくすんだ芥子色である。簡素だがこざっぱりとした身なりで、全くの無頓着というタイプでもなさそうだ。
立礼を返しながら、まずは人物を知ることから始めようとセイは考えた。
「お越しくださりありがとうございます。私は歴に興味があり、ヤン先生から歴書のことをお伺いしたいと思ってお招きしました」
「……何なりと」
一拍置いて、ひやりと冷たい声が返される。派手な色合いの瞳だが、波立ちもなく感情が読みにくい。
まるで試されているようだなと思いながら、セイは意識して笑顔を向けた。
「この間、ロン賢帝にまつわる歴書を読んだのですが、年代や系譜が書かれていないのを不思議に思いました。アッサン始相にお伺いしたところ、歴のことであればヤン先生にぜひ、とご紹介いただいたのです」
返答はない。誘い水のつもりだったけれど、仕方ない。気を引き締めて相手を見据えるとセイは上唇を湿らせた。
「暦書がなければ、本当にロン賢帝が千年以上も生きていたかどうか分かりません。ただの伝え話かもしれない。これについて、先生はどう思われますか?」
「これは異なことを。あなた様が千年王を信ぜずしてどうしましょうか。長い平穏をもたらす不老の王だからこそ、人は天山を仰ぎ、王を信じているのです。“衰えることも穢れることもない御姿で、王が下界を守ってくださる”、と」
無遠慮とも言える口調で断じると、ヤンはそっぽを向いた。つまらないことを聞くなと言わんばかりの態度に、さすがに笑顔が引きつりそうになる。
だが、セイが聞きたいのはここからだった。
「千年王がいたとして、いったいどうして一千年も政事に励むことができたのか、いつから王は短命になってしまったのか、私はそれが知りたいのです。そうすれば正しい政事への道が開けましょう。先生も歴官という立場にいて、そうはお思いになりませんか?」
不老の王。
その寿命のしくみは、文所にある綴子のどこにも書かれてはいなかった。
自然災害と王の政治を結びつけて宗教心を煽るのは、昔の日本でもあったことだ。
『禍もなく善政を敷いた王は、人を超えた長寿不老の存在』
と、信仰のように千年王の神話が流布されただけなのかもしれない。
実際、セイが知る限り、系譜を辿れる王は、五十年も在位しない短命な王ばかりなのだ。
人は老いて死んでいく生き物だ。
不老だからと言って、千年も生きるなんてありえない。
そう冷静に思う一方で、でも、もしかして、と頭によぎる。
これだけ長い間、かたく信じられているのだから、王の政事と災害のことも、寿命のことも全部本当で、真に優れた王なら、何百年と生きるのかもしれない、と。
静かだった双眸が少し見開かれる。
表情こそ浮かんでいないが、何か響くものがあった顔だ。
「王子は、先のハルト王のことをご存知でしょうか」
しばし黙考してから、ヤンは口を開いた。
「ハルト王も晩年になってから千年王のことをお調べになりたいとおっしゃり、歴書の編纂を命じられました」
「え、そうだったのですか!」
「はい、私の前任の官が編纂にあたっておりました。今生帝がご即位されてからは取り止めになり、今は残った資料を私が細々と整理しておるだけですが」
相変わらず無表情だったが、ヤンの口調は滑らかになった。
「あれほど優れた王にすら届かなかったのですね」
思わず呟いて、セイはぐっと重責をかみしめる。
ハルト王と同じものを求めることになるのだ。きっと父や兄を支えるための答えがそこにある。そう直感した。
「歴書の編纂は後々の王のためにもなると思うのです。どうか、少しずつでいいので私に歴を教えてくださいませんか」
「……よいでしょう。共に学ばせていただきます」
それからしばらく歴書の種類や成り立ちを話して、ヤンは来たときと同じように静かに礼をして離宮を去っていった。
—
「いいのかい、あんな非礼を許して。結局ひと言も謝らなかったよ」
見送り終えてウージが首をかしげる。カナタも物言いたげな視線を寄越した。
「いいんだ。僕がお招きしたんだし、ヤン先生には学ぶことが多そうだ」
「セイ王子がいいならそれでいいけどね。ま、獅従領の主格は偏屈が多いから仕方ないか」
「偏屈?」
「よく言えば媚びていないし、悪く言えばひねくれ者なのさ。ヤン歴官だって、最年少で雲上官になったほどの才がありながら、閑職の歴官をわざわざ選んで、低位の品に甘んじているんだよ」
なるほど。確かに対面した限り、ヤンには自分をよく見せようという欲が一切感じられなかった。ああいうタイプの雲上官は珍しい。
セイはまたひとつ視野が広がった気がした。




