R2 背中
「へー、それを着ろってか。で、その派手で悪趣味な模様は何だ?鍬虫か?」
衣立に飾られた衣を眺めながら、ラティが小馬鹿にしたようにこき下ろす。
側に侍従らしき男が控えているが、さっきから一言も口を挟まない。
膝礼をした衣官は、半口を開いたまま呆気に取られていた。
話を切り出した途端に浴びせられた罵詈雑言は、とても目の前に立つ王子の口から放たれているとは思えない。
「王子の獅従儀のために用意された衣でありますぞ」
「この俺に似合うと思ってんのか?」
薄い唇が面白いとばかりに意地悪く釣り上がる。美しい弧を描いた目端が少し垂れて、夢のような淡い笑みを浮かべている。
「そ、それはもう……!」
礼を返されずにいる非礼をなじるよりも、惹き込まれるような美貌に呑まれて何度もうなづく。
黙っていさえすれば、この豪奢な衣は王子にとてもよく似合うに違いないのだ。
布地も北の離宮にちなんだ鮮やかな翠色である。縁起物の蓉花文様と王を象徴する獅子文様が金糸で織り込まれており、貴族の着るシスルとしては最上の品である。
「どうだか。くそったれな嫌がらせしやがって。ソレ持ってとっとと消えろよ」
「はっ?」
腰に手を当てると、ラティは踏ん反り返るような姿勢で衣官を睨みあげた。
「上官には渡しましたっつっとけ。てめぇ、どうせ三下だろうが」
「ぶ、無礼な…!」
「あーあー、無礼で結構。てことでこいつはてめぇの那夏にでもくれてやれ」
衣官の顔色が変わったときにはもう身を翻している。邪魔だと言わんばかりにひらひらと後手を振ると、止める間もなく帳子をあげて果宮の奥に姿を消してしまう。
「王子のご気分が優れず、失礼いたしました」
王子の代わりに返礼して詫びたのは居残った侍従である。落ち着いた物腰で滑らかに膝礼を重ねる。どうやらいつものことらしい。詫びのつもりか蓉果をいくつか持たせられ、雲官に衣を畳まれ、来賓の間である暗舎からぽいと追い出される。
細廊を渡って果門をくぐると、そこから先は家主のない無人の宮舎が連なっている。
掃除はかろうじてしているようだが、季替えはしないらしい。
二年前の東季支度のまま、まるで時を止めたように冷えた回廊を、衣官は怒気で顔を赤くしながら早足で抜けた。
初めて来たが、いい気分がしない離宮だ。
天寿とはいえ、北妃があまりにも早く、あまりにも陰惨な死を遂げたからだろうか。
大股で歩きながら、怒気と共にうっすらと憐憫の情が湧いてきた。
こんな離宮に住んでいて、ああも片意地ばかり張っているとは。
-
衣官が離宮正面の花門を出た頃、碧雲閣ではラティが蓉果をかじっていた。
北の離宮の前庭に育つ天樹は、北季に入ると実をつける。
それを頬張るのがラティの北季の楽しみのひとつだ。
かじるとしゃりしゃりと冷たくて甘い。
「よいのですか、あんな追い返し方をして」
ラティの陣取った欄干の脇に立つと、侍従がその背に声をかける。手づかみで食べているのを見ると、行儀が悪いとぼやきながら木皿にのった蓉果を取って皮をむきはじめた。
「いいんだよ。言わなきゃ帰らねぇだろ」
蓉果の皮を欄干から吐き捨てていたラティが、面倒くさげに振り返る。
弟のフォートと同じ、灰褐色の髪に薄い翠の目をした侍従のメイソンが、剥き終わったばかりの蓉果を差し出していた。欄干の上に座ったラティの目線とちょうど同じ高さに、探るような眼差しがある。
「衣官が来たということはザハト獅従のお許しあってのこと。固辞すれば厄介ではないですか?」
「誰が金を出したか分からねぇ衣だろ。着ても着なくても厄介じゃねぇか。なら、好きにするさ」
ラティはあっさりとしたものである。
貢物の下心をかわすのには慣れている。当たり前に断れば社交辞令としてあしらわれるため、ああして言葉で追い返すようになっただけだ。
「万一にも官費で仕立てられた衣だったらどうします」
「あの吝嗇じじいのクレハが官費を出すかよ。年々離宮費を削っているだろうが」
「……それもそうですね。今回は仕方ないですね」
はぁ、と先々を思い、俯きがちにため息をつく。
角を立ててしまったのはまずかった。とりあえず、あの怒り狂っていた衣官の機嫌をとっておかねばなるまい。
「メイソン、俺に従士が来るのか」
不意に投げられた言葉に、メイソンは顔を上げた。
ラティは蓉果を手にしたまま欄干の外を向いている。
「来ますよ。王の御子は、獅従儀で従士を迎える習わしとなっています」
「……へぇ」
気があるのかないのか、ラティはぼんやりとした返事を返したきり口をつぐんだ。
顔は分からないが、何となくその背中が年相応に小さく見えて、メイソンは言葉を探した。
「王子は獅従儀を受けて、半人前と認められるのです。北妃様の耳珠をいただき、よい従士を授かり、民と同じく学びの時間をお過ごしになり、そうして成儀には王として相応しい姿になっていなければなりません」
「うん」
「そうやって、王子はいつか今生帝となられるのですよ」
「……あぁ」
背中は振り向かなかった。メイソンも口を閉ざして同じ景色を見つめる。
衣ひとつ受け取らない矜持の高さが、この王子を支えている。
雲海に降り積もった犀は、仄かな銀光を放ちながら鏡のように下界を映していた。