S1 選択
主だった雲上官への礼品を整えたり、伯父や家主が祝いにやってきたり、傍系の各家からも文や進物が届いたりと、短い天渡月はあっという間に過ぎ、はや幻月も半ばとなった。
「えーっと、今日はどなただっけ」
「アッサン始相ですよ」
学師が訪れるようになって、身辺はすっかり慌しくなっていた。ウージを従士に迎え入れてから身の回りの世話をする雲官も増えて、果宮はいきいきした活気に満ちている。カナタやウヴァに傅かれた静かな生活にも飽きていたセイは、新鮮な日々が単純に嬉しかった。
「あ、始相に綴子を返さなくちゃ。文所から取ってきてくれない?」
「かしこまりました」
控えていた雲官がさっと立つ。その間にも、両脇についた係りの雲官は手を休めることなく着付けを行う。セイはされるままになりながら、カナタと出迎えの手はずを確かめた。離宮での学問はしきたりが第一で、迎える客舎は季ごとの調度がきちんとしていなければならないし、高官に対しては学事の礼として饗応でもてなすのが習いになっている。アッサンは以前からの付き合いもあり、気楽に迎えられる数少ない高官だった。
アッサンは刻限より少し早めに着いたようで、二杯目の花茶を振舞われているところだった。
「王子、無事に半人前になられたこと、何よりでございました。ウージ君も従士の拝命おめでとう」
「ありがとうございます」
礼を返しながら意外な気持ちになる。この二人は知り合いだったのか。
「雲門舎の大先輩と言っても、お噂ばかりでご挨拶できたのは一年ほど前のことでしたか……」
怪訝な視線を察してか、ウージは誰に向けるともなく言い重ねる。その大人びた気遣いを認めて、アッサンは温和な笑みを浮かべた。
「私もウージ君の評判をよく耳にしましたよ。きっと王子に相応しい素晴らしい従士となってくれるでしょう」
「はい。この身を尽くしてお仕えさせていただく所存です」
きりりとしたウージの謹直ぶりも段々と目に慣れてきた。
確かに従士は王子に仕えるのが役目だけど、もっと普通の友達のような間柄になれると思っていた。もどかしい気持ちで、セイは二人の間に割って入る。
「では、私も分不相応な従士を持ったと笑われぬよう努めないといけませんね」
振り返ったウージは、目を見張り、思いもよらぬ言葉を聞いたような顔になる。
「っ、王子がそのような……」
「ウージ君、王子は謙虚な方なんだよ。常に高いところを眼差しておられるのだ」
いやいや違うから、アッサンは僕を美化しすぎだから。
セイは内心ため息をついて、あいまいな笑いで落胆をごまかした。
残念だけど、仲良くなるには時間がかかりそうだ。
「ところで、アッサン始相が貸してくださった歴書のことなのですが、」
「おお、もう全部読んでしまわれたのですか?」
「はい!大変面白かったです。ロン賢帝の話を読むのは初めてで……」
歴書というのは代々の王の伝記のことだ。活版技術はないようで、一字一句が人の手で書かれている。そういった綴子は天山でも貴重なものとされていて、読みたいと思っても、文所に所蔵されたもの以外は人づてに借りるしかない。
綴子を手に取ると、アッサンは生成りの表紙をそっと撫でた。
「これは私が官になってから写したものですよ。古い歴書でして、写本の写本になります。ロン賢帝の行状を記した綴子は限られますので、当時はずいぶん苦労して探し求めたものです」
「優れた王だったと聞かされることは多いのに、歴書は少ないのですね」
と不満げに言うセイに苦笑して、アッサンはゆるく首を振った。
「どんなに優れた歴書でも、年月には敵わないものですよ。綴子など百年も経てば虫に食われてしまいます。時を超えて続くものはただ一つ、《獅子の血》だけなのですから」
そう言われても、セイはどうにも釈然としなかった。
所謂国始めを書いた歴書では、
「月渡る獅子 / 天山に宿り / 金色の器に /その血を与う / 即ち王立つ」
から始まり、いきなり王が登場する。
その後に続く王も、家系図のようなものはなく、系譜のほとんどは残っていない。千年生きた証も、「王健やかなること千余年」というくだりがあるだけだ。
日本神話のたぐいと似ているかもしれない。
まさか本当に王が獅子の血を引いているわけではないだろう、けれど。
それでも未だに「カミサマ」扱いされているのが、ここ天山を統べる王なのだ。
「あの、王の行状はもっと残しておくべきではないでしょうか」
「えっ?」
「獅子の血を引いているからといって過ちを犯さないわけではないと思うのです。現に、先々の王は禍のため短命でした。優れた先人の知恵を借りて学んでこそ、禍が起こらない政事が成し得るのではないですか」
「禍が起こらない政事……、しかし」
下界の民は、今生帝が「過ちを犯す」など思いもよらないに違いない。王は老いず清く正しいと信じて、疑いの声をあげれば身が穢れるとさえ思っている。
「父様が心配なんです。一昨年にも北領で禍がありましたし……フォルカ先生だっていつも仰ってます。今生帝はロン賢帝の政事からもっと学ぶべきだって」
「……なるほど、フォルカ学官が……」
アッサンは一瞬深く考えるように顔を伏せた。
この王子は聡明だ。遠からず天山の実情に気づく。フォルカもそう思ったから、あえて不敬を口にしたのだ。思いを巡らすうち、次第に熱いものが胸に迫った。
「……それならば、ヤン歴官を学師として招聘されてはいかがでしょう?」
「えっ?歴官を、招聘……ですか?」
「はい。雲上官のうちで、彼ほど歴に明るい者はおりますまい。王子がおっしゃったお考えに近しい意見を持つ者でもあります。まだ品は低いですが、獅従領は主格きっての俊英ですよ」
「獅従領の主格というと……、あぁ、北の従士の兄御ですね」
北の離宮に初めて訪れたことを思い返して、相槌を打つ。
面と向かった兄は、輝かんばかりに美しい少年で、当たり前だが年相応に幼く、王の御子らしい雅やかで見高な雰囲気をありったけにまき散らしていた。
セイが黙ったのを招聘に躊躇していると取って、アッサンは顔つきを改めた。
「王子、本当に優れた官は自らお求めにならなければ、決して得られるものではありません。何も遠慮されることはないのです。学師は王子を選び、王子もまた学師を選ぶ、その互いの選択こそ真の学事のはじまりです。これからは、これぞと思う学師を盛んにお求めなさい。心ある学師はきっと王子を選ぶでしょう」
語気を励ますと、アッサンは内心の熱を抑えて学事に立ち戻った。
それまで控えていたウージも、さすがに雲門舎で名声を轟かせていただけあって、セイに負けず劣らず鋭く論点に切り込んでくる。
教える身として、これ以上のやりがいがあるだろうか。
あぁ、本来なら第一王子を導かなければならなかったのに。
他ならぬ私も、選択をしてしまった。
若木のように青々とした二人に応えながら、アッサンは打ち震える思いだった。




