幕間 メリー・デ・アンブレの焦燥
「解せぬっ、なぜわらわの離宮にアッサンは来ぬのじゃっ!」
「始相におかれましては、政務にお忙しく……」
戸口近くで膝をつけた顔は、深く伏せられたままだ。
西妃は憤然として拳を握りしめる。
「嘘じゃな。東の離宮には月ごとに顔を出し、媚びへつらっているという話ではないか。第一王子のことは下の者に押し付けて、第二王子ばかり構うとはアッサンも大した学師ぶりよ。だいたい、獅従儀を迎える前から学師が遣わされるなどこれまでなかったことじゃ。それが東に許されて、西に許されぬわけがあるものか。特例とあればなおのこと」
「今生帝のお許しなれば、何卒……」
うんともすんとも言わず同じ繰り言をする遣いの官に、「もう、よいっ」と言い被せる。うやうやしく拳礼を捧げる頭上から、「そなたの名を覚えておくぞ」と震える声を浴びせかけ、西妃は裾を払った。
息子のリンディは数えて四歳になる。天授儀も過ぎて、専属の学官や学博を迎えはじめた西妃だったが、さらに高い品の雲上官を招聘したいと願ったところ、ザハトからは却下され、アッサンからも色よい返事は返ってこなかった。
憤然として椅子に腰を下ろす顔に、隠しきれない焦燥がにじみ出る。赤い唇は酷薄そうに薄いが、白く整った面長には水色の瞳がよく映えて、怜悧な美しさを放っている。たっぷりとしたシスルを重ねて、蜜色の髪が豊かに流れる。気が高ぶってかその額にはうっすらと汗が見えた。きつい目元を苛立たしげに逆立てて、華奢な手首が忙しく檜扇を振るう。
「忌々しい東の連中が、なよなよと今生帝に擦り寄ることばかりしおって」
「きゃっつらは、我ら西方貴族を侮っております。恐れながら今生帝が過分な恩寵をお与えになっていることが増長を招いておるように思います。スプーク様にもよくよく諌めていただかねばなりますまい」
人払いして近づいた侍従に囁かれ、西妃は我が意を得たりと目を細めた。
侍従のクインは西妃よりも七つ八つ年上の男ざかりである。低く潜めた声は耳障りがよく、心の内をよく汲んで、先を見通す眼力にも優れている。花宮に入る前からその有能さを知っていた西妃が侍官から引き抜き、側に侍らせている男だった。
異性の侍従を日夜花宮に入れていることに、表立って物申す者などなかった。西妃は既に御子を授かり、離宮での務めは半ば終えている。王の渡りが途絶えがちな離宮では、少々の妃の鬱憤ばらしは仕方がないというべきものだった。
「東妃め、さんざん憎んでおった北妃が消えて、さぞかし気分がよいであろうな。今や王は己の意のままと思うておろう」
「さよう、西妃様の恩義にも報いず、全く浅はかなありさまです。しかし、ザハト獅従といいアッサン始相といい、高官どもの間では東の王子に肩入れする動きが強うございますな。ゆくゆく容易ならぬことにならぬとも限りませぬ。できる手は打っておかねば」
「ふぅむ」
手を止めて、閉じた扇の先を顎に当てると、西妃は思いを巡らせた。
「さすがに、東妃に第二王子を王に祀り上げる野心はないと思うがの……」
「いいえ、西妃様。獅従儀で南の従士が与えられたことを忘れてはなりませぬ。あの陰謀好きな南妃が、裏で何を企んでおっても不思議ではないかと」
「そなたは賢い男ぞ。そこまで言うのならば、王に妓を見繕って差し上げるのはどうじゃ。東妃や南妃よりもずっと若くて美しい女がよい。身の程知らずにはいい薬であろ?」
凭れていた脇息をずらし、西妃は男のほうに身を崩した。互いの息のかかる距離になって、熱い手を取って包む。
「西妃様のような方を?」
「ふっ、家格は私より高くてはならぬ」
「分かりました。三下の者から選ばせましょう。それから、北の王子にも我が西領の官をもっと頼りにしていただかなくてはなりませぬな」
「こう、もっと、か……?」
大きくはだけた襟口の中に男の手を差し入れて、西妃は息を荒げて胸を上下させる。もう片方の手で焦らすように腰紐を緩めてやりながら、クインはなおも囁いた。
「もっとです。北の王子はこれから朝儀にも顔を出され、官との付き合い方を学ばれます。ご自分の後ろ盾を探す大事な時期を迎えられているのです。まずは学師として西妃様に従う官たちを遣りましょう。そして我ら西方貴族こそが王子を支える者であることを教えてさしあげるのです……」
腕の中で身じろぐ西妃は答えられない。真白な肌を薄紅色に染めて、金地のシスルとシデルがしどけなく床に広がった。膝を割られるうちに左手に握ったままだった檜扇がせつなく落ちる。クインは身を沈めると、侍従の仮面を外してただの男になった。
ついこの間、濡れ場を覗き見をした若い雲官を、西妃は鞭で打った。
血を流すまで打たれ、雲官は泣きながら赦しを請うていた。
新入りの雲官とはいえ、つまらないことが起きたものだ。
西の離宮では、家主と侍従の密事には、決して触れてはならないというのに。
人払いされたら雲官たちは申し合わせたように花楼を離れて、侍従が出てくるまで何刻でも知らぬ顔で控えている決まりになっている。
クインは柔らかな身体にむしゃぶりついて、女の顔になったメリーを見つめた。
今生帝に愛されなかった女。
ただ自分だけを求めてあがいている姿が、男心を激しくそそった。
選妃から十年余。主従とはいえ、もはや切っても切れない一心同体の間柄である。
今となっては何もかもが変わったのだ。
北妃は死んだが第一王子は生きながらえ、数年も経てば成儀を迎える。
第二王子も獅従儀を過ぎて着実に地力をつけている。
手をこまねいていればメリーの立場は時間とともに弱くなる。
次代を見据えて動く時がきたのだ。
次第に仇花のように淫らになっていく女を味わい尽くすように、クインは目を閉じて荒々しい波に乗った。




