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千年王  作者: 奥山まゆこ
32/50

R16 大道天渡の辻


「うひゃー、高い高い!」

「ふっ怖いだろう」


がたがた船縁を揺すられて、ソンではなく雲官がきゃあと悲鳴をあげた。

炉天祭の夜はどの離宮も待ちかねたように雲海船をくり出す。北の離宮では、ソン以外にもこの年初めて雲海船に乗る雲官が何人もいて、船全体がそわそわしているようだった。


「ほらほら、子供のような真似はよしなさい。皆が怯えているではありませんか」

「船から落ちたって死にやしねぇよ」

「またそんなことを言って」


呆れた顔でメイソンが二人を席に連れ戻して、箱膳の前に座らせる。

この日のために前々日から用意した馳走は、小箱を組みあわせた膳に所狭しと詰められている。色とりどりのサハシに彩られた箱を見つけるなり、ラティはいそいそと箸を伸ばした。


「まったく、いつまでたっても変わりませんねぇ」


満足そうに好物を頬張っている顔を眺め、フォートはぼやきながら同じようにサハシをつまむ。雲官たちも今日は給仕がいらないと聞いて、少し離れた場所ではあるが同じ宴席を囲んでいる。


「なぁ、本当に船から落ちても下界に落っこちないのか?」

「ん?うん、そうだぜ。南季に天泉で泳いでも平気だっただろう?あれと一緒だ」


何でもないことのように言うと、ラティは汁物を口元に運ぶ。半信半疑でいるソンに気づいたのか、斜め向かいで座るフォートが薄緑の目を向けた。


「昔、しでかしたんですよ」

「え」

「下界に行きたいとかなんとかおっしゃって、ちょっと目を離した隙にですね…」


遠い目になると、フォートは話しはじめた。

ラティが五歳のときの炉天祭のことである。例によってちょこまか動いていたラティの姿が急に見えなくなり、大騒ぎになったのだ。


「結局、船の真横で犀をすくって遊んでいらっしゃいましたけどね……」

「だって、行けると思うだろ。あんなに近くに見えるんだぜ」

「引っ張り上げるまで私がどんな思いをしたことか……おまけに顔も衣も犀だらけで……」


嘆かわしいと言いたげに、フォートが額に手を当てて大げさなため息をつく。


「そうそう、あの日は結局、北妃様に叱られてわんわん泣いていましたねぇ」

「おいッ」


離れて座っていたメイソンが懐かしむように口を出す。メイソンもフォートもラティの子供時分の話題なら事欠かない。雲官にせがまれるままメイソンは幼い頃のラティの失敗談を披露して、そのたびに雲海船に笑いが波立つのだった。


「あっはっは、そんなに拗ねるなよラティ」

「けっ、ちょっと俺より長生きだからって、好きなこと言いやがって」


昔の話になると、どうも分が悪い。

自分では覚えていないことでも、メイソンとフォートは事細かに記憶しているのだ。

宴も落ち着いてようやく抜け出すことができたが、向こうではまだ笑い声が続いている。


「でもよかったじゃないか。皆が楽しい話なんだからさ」

「俺は楽しく……ま、そうだな」


楽しくない、と言いかけて、ラティは思い直してやめた。

雲官は入った時期も違うし、家領もばらばらなうえ平民と下級貴族が混在していて共通の話題が生まれにくい。メイソンの発案で、今年初めて全員が揃って年の瀬を楽しむことにしたのだ。萎縮していた雲官たちも笑い合って気がほぐれただろう。

これはこれでいいのかもしれなかった。


「どうだ?雲官の名前と顔は覚えたか」

「そんなの、とうに知ってるっつーの」


炉のぬくもりを背中に感じながら、ふんと鼻を鳴らす。

雲官に物を言いつけることはあっても、言葉を交わさすことはほとんどない。

珠の一件があってから雲官の働きぶりには目を配るようになったが、別に接し方まで変える気はなかった。


「なんだ、それなら名で呼んでやればいいのに」

「呼ばねぇよ」

「なんでだ?雲官も俺と同じなんだぜ。皆、あそこから天山に登ったんだ」


舳先に立って、ソンは天山の麓を指した。

山を取り囲むように光が満ちているところだ。

四方から轟音を立てるように伸びた光の大道は、天山の麓で煌々とした渦を巻いている。


「下界からはどうやってここまで来るんだ?」

「どうって、そうだなぁ。異門に向かって歩いて、大道天渡の辻を渡るんだよ」


辻というのは、人の目には見えないものだとソンは教える。


「天渡月には大道が開いて、雲上と五領の異門をつなぐ辻ができるんだ。どの領からも異門に向かって一日天山を念じて歩けば、辻を渡って雲上にたどりつける。ちょっと心細いんだぜ。どこをどう歩いているのかさっぱり分からねぇし、一緒にいたはずの姉貴も途中で見えなくなっちまうし。ばば様に言われてなきゃ、途中で引っ返したと思う」

「……そうか」


ラティは小さく頷いて、眼下を見下ろした。犀の雲海は澄み渡り、触れれば手が届きそうなほど、耳をすませば声が聞こえてきそうなほど下界は近く見える。丸一日歩かないとたどり着けないほど遠い場所にはとても思えなかった。


「大道天渡の辻、か……」

「帰るときは辻はなくなって、天門を通って麓の獅従領に出るんだけどな。そこでうんと遊んで土産を買うのも天山詣の楽しみなのさ。天渡の頃はどこも賑わっていて見飽きないぞ。お前も成儀が終わったら、離宮から出られるんだろ。そしたら俺が連れて行ってやるよ」


舳先に器用に腰掛けるソンの言い分は、自由そのものだ。

ラティは苦笑するしかない。

成儀が終わったら自分は正式に王の後継者として指名される。


そうしたら、もう即位式まで天山を離れることはできない。


切れ長の目を細め、ソンはどこまでも続く炉の光を追っていた。

シデルをたくし上げて腰掛けると、ラティも黙って同じ光の道に見入るのだった。


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