R14 緋色の雲
「困ったことだ。そうして羽獣にのる姿は、リアの子供の頃にそっくりだよ」
家主のネリーは、ソンの腕白ぶりを叱るたびにそう嘆いた。
祖母に言わせると、長子に生まれた母は、いずれ家主となるべく育てられたが、学事よりも武事ばかり好む男勝りの娘だったそうだ。
言い寄る男たちを何人も袖にしておいて、流族の青年を那夏に選んだ奔放さは手に負えなかったと、家主は今でも愚痴を言う。
ソンは母の顔をおぼろげにしか覚えていない。
兄弟の母親が死んだとき、ソンは幼いだけの子どもで、弟はまだ話すこともできなかった。
ー
今年も西季が過ぎていく……。
眼下を見れば、雲海までがどこか禍々しいものを宿しているように見えた。
南季の間たゆたっていた濁った霧は嘘のように晴れて、見渡す限りの雲海が、血がにじんだような緋色に満たされている。
あと少しで、下界も見えてくるかもしれない。
雲海の色は気味が悪いが、天気だけはいい。風も穏やかで、しゃべらないでじっとしていると、とろとろと眠気がやってくる。
さっきからラティは綴子を手に黙々と励んでいた。
学事に勤しんでいるわけではなく、天帳に書付けをしているのだ。
「なぁなぁ、ラティ」
「ぁ、うん?」
生返事をしながらも芯筆は握ったままだ。
「どうして西季の雲海は赤いんだ?」
「土の色だろ。禍の季だから、菜物は植えられないしな」
「ふぅん、それなら今年の禍はひどいんだな」
ラティは意表を突かれたように顔を跳ね上げた。
「えっ?」
「だって、あんなに赤いだろ」
「いつもこういう色をしているぞ?それに、こないだ来たスプークも禍が少ないと言っていただろ」
呑気な奴だ、とソンは思った。
西季は毎年のように日照りと洪水に悩まされる。ひどい年は疫病が流行るし、渡異がやって来る。やつらは黒いつむじ風だ。なぜやって来て、どこへ消えるのか誰にも分からない。ある晩には家屋に火をつけて、大切な天樹をへし折ってしまう。また一晩で家獣を喰らい、生まれたばかりの赤子を屠ることだってある。
それを震えながらやり過ごすしかない民の気持ちを、ラティは考えたことがないのだろうか。
「お前さ、禍を起こしたくないならスプークの言うことなんか聞いちゃいけないんだぜ。西季に禍が来るのは、全部あいつのせいさ」
「スプークがそんなに嫌いなのか?」
「当たり前だろ」
困惑した顔のラティに、これ以上は伝わらないと悟って、ソンは口をつぐんだ。
別にラティを困らせたいわけじゃない。
『天山では西方貴族が政事の全てを握って、今生帝をいいように操っている』
という大人たちの声を、ソンは幾度も聞いたことがある。スプークの評は獅従領ではすこぶる悪い。
でも、天山からは雲海の下なんて見えやしない。
きっとラティにとって西季は他の季と変わらない平穏な日々でしかないのだ。
スプークのことだって、たくさんいる学官のひとりとしか思っていない。
隣から伺うような視線を感じたが、ソンはさも眠いと言うように欠伸を噛み殺し、ごろんと仰向けになった。
北彗宮の雲台は、とても静かだ。
花宮が無人だからというのもあるが、北の離宮自体がしんとしている。
白木の果宮のそこかしこで雲官や番の者が立ち働いていても、なぜかいつも外から切り離されているような静けさがあった。
ソンの思い描いていた天山は、もっと賑やかで華やかで、彩りに溢れたところだったが、北の離宮に入ってからは、毎日が単調で、自分が寂静の中に閉じ込められていくような気さえするのだった。ラティが雲台を好むのは、まだしも雲海が移ろい続けるものだからだと思う。
きっと王だって、こうして雲海を眺めていても下界までは見通せないに違いない。
家主や義兄たちは、今生帝が真に政事の中心となって意を示せば禍はなくなる、と信じているけれど、ソンはそれほど王の力を信じる気にはなれなかった。
だから従士の話だって大して嬉しくなかったし、本当のところ、育ててくれた家主の手前、しぶしぶ引き受けるしかなかったのだ。
そんなことを考えているうちに、うつらうつらと微睡んでいた。
目を覚ますと、辺りはやけに静かになっていて、隣はと見ればラティが膝を抱えて眠りこけていた。半身を起こすと、はらりと渋茶の襟飾りが落ちた。ラティが掛けてくれたのだろう。返してやろうと膝をついたとき、ふと見慣れた天帳が開いたまま放り出されているのが目に入った。
真新しく書付けられているのは、いくつもの朱書きだ。
「……何やってんだ……?」
今年の予算には余裕ができていたはずである。
それなのにラティはこの先の支出をもう一度練り直す気でいるようだ。
首を傾げながら天帳をめくると、思いがけないことに、家人全員の名前が給金とともに一覧にされてあった。雲官と番、半子の給金には朱書きで上乗せがされているが、引き上げ幅に迷ったのか、途中で試し書きは消えている。
「今度は給金を上げたいってか」
そうか、雲官が盗みを働いて辞めていったのを、気にしていたんだな。
ソンは苦く笑うと、落ちていた芯筆を拾い上げた。
「相変わらず、仕方ねぇの」
どうしてだろう。ラティがいくら呑気にしていても、ソンにはそれが悪いばかりとは思えない。一緒にいれば嫌でもその人となりは分かってくるものだ。
下界に疎く、雲海を眺めて昼寝ばかりしていても、ラティは自分なりのやり方で周囲と向き合っている。
襟飾りがずれた一枚布を羽織ってうずくまる姿を、ソンは複雑な気持ちで眺めた。
もっと下界のことを考えろとか、雲上官のこともよく見極めろとか、そういうことを言ってやりたいと思う反面、それを面と向かって言っても、今のラティには重荷になるだけのような気がするのだった。




