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千年王  作者: 奥山まゆこ
24/50

R12 来客

明月も半ばになると碧雲閣から臨む下界はかすみ、翌月の月転になると全く雲海の下は見えなくなる。雲海を眺める楽しみもなくなり、ラティは学事が終わると毎日のように泉で泳ぎ、暑さをしのぐのだった。


「チダも大きくなったな」

「あぁ、かわいいな」


くすぐったそうな笑みをこぼしながら、ラティは両手にすくったチダを見つめた。

学事では見せない無邪気な微笑は、同性のソンでも胸が震えるほど愛くるしい。

なるほど北妃に生き写しだと騒がれるわけだ。


よく笑うようになったなと思いながら、ソンはざぶんと冷たい水に頭を沈めた。彗珠色の透き通った水中で、青く光る背びれをした小魚が慌てたように散じた。ぴらぴらと尾を振りながらチダが遠くに泳いでいく。ソンは心地よい冷たさに満たされながら、両目を閉じた。


……情など決して持つまいと、思っていたのにな。


-

「ほら、いい加減着替えなさい。今日はソン様の兄御がいらっしゃるのですよ」

「分かってる」


回廊に立って仁王立ちしたフォートに急かされ、ラティは小橋にしゃがんで濡れた衣を絞る。

北の離宮に学師以外の客が訪れるのは珍しい。


「いいですか、天泉で泳いでいたなどとは口が裂けても言わぬように」

「なんでだよ」

「王子がいかに阿呆であろうと、ディンブラ主格のご子息まで不可侵の天泉で泳がせていたとあっては、申し訳が立ちません。普段の生活について聞かれたら、学事に励んでいるとおっしゃいなさい。空いている時間には文所で綴子を読んでいることにするのですよ、えぇと、ソン様とは学事を競いながらも良好な関係であると、そう言い添えたほうがいいでしょう」


乾いた紗布とロウに着替えて髪に櫛を当てているラティに、あれこれとフォートが言い含める。手を休めるラティに向かって、もっと丁寧に髪をとかせと叱るのも忘れない。


「あのなぁ、フォート……すぐばれると思うぞ」

「よいのです。黙っていれば分かりませんから」


鏡越しに胡乱げな目がよこされるが、フォートは知らん顔である。

三ヶ月も口をきかない間柄であったなどと言い出されては困るのだ。


「それで、本日いらっしゃるソン様の兄御のお名前と品、官職、家格、家領は」

「下雲四品の武官、名前はウィリー、獅従領ディンブラ家の主格」

「武官は左陣代のお立場です。ディンブラ家は第一子でございますよ」

「ふーん」


細廊を歩きながらフォートは興味のかけらも示さないラティに向かって、左陣代の説明をする。

月転は、五領に派遣されていた武官と在野官にとって年に一度の配置換えの月で、多くが天山に戻ってくる。左陣代であるウィリーも年に一度の休暇を使って、北の離宮に従士となった弟を訪ねに来たわけである。


-


「王子にはご機嫌麗しゅう存じます。この度は愚弟がお世話になり……」

「俺が世話してんだけど」

「お前は黙ってろっ、……えー、」


ソンに脇から口をはさまれて、目の前の青年の口上がふっとんだ。膝礼をして挨拶をしかけたばかりである。口を開けたり閉めたりしている青年の髪は橙色で、色はソンよりも赤みが強い。

なぜか自分と兄を見ているようだなとフォートは同情のこもった眼差しになった。


「一番上の兄貴だよ。来なくていいって言ったのにさ」

「ふぅん、年が離れているんだな」

「うん、まぁ、母親が違うからな」


固まっているウィリーをよそにソンはラティにこそこそと話しかけている。メイソンは眉根を寄せてラティに声をかけた。


「きちんとご挨拶なさい、王子」

「……ウィリー武官。よくお越しくださいました。不肖私は第一王子のラティと申します。従士である弟御に助けられて学事に励んでおります。……学事がないときは文所で綴子を読んでおります。……、おい、フォート、これでいいだろ?」


流れるように上品な物腰で、しかし最後に余計な一言を付け加えたのを聞かないふりで、フォートは目を丸くしている青年に向かって口端を吊り上げてみせた。控えていた雲官を呼んで、花茶の用意をさせる。茶菓子を添えて、赤い月転の月に似た色の花茶が湯気を立て始めると、ようやくウィリーの口が滑らかになった。


「いや、お恥ずかしい話、今日はご挨拶がてら愚弟の様子を見にきたのです。このとおりまるで従士にふさわしくない性格で、王を敬う気持ちも物足りず、どうしておるか家中で心配しておった有様でして。はぁ……」


出てくるのは思いもよらぬ愚痴ばかりである。

ソンは横を向いているが、フォートとメイソンはため息をつくウィリーの一挙一動を唖然とした顔で凝視した。一体どういうわけなのだ。


「家主も散々持て余しておりまして、北の王子の従士にとお声がかかったときには、これ幸いと喜んでおったのですが、やはりご迷惑をかけているのではないかと、あっこれは失礼を」


語るに落ちるウィリーの生真面目そうな顔を眺めながら、どおりでとメイソンは納得した。

どおりで王子が二人になった気がしていたわけだ。ラティと同類だったとは。


そしてフォートも腑に落ちていた。

どおりで、平気な顔で不可侵と教えられているはずの天泉で泳いで、おまけにチダまで大量に放流するわけだと。


そして、肝心のソンといえば、しばらく居心地が悪そうな顔をしていたが、半刻も経った頃には平気な顔で兄に出された茶菓子を拝借していた。

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