R1 蓉果
犀は一日中降って、夕方には碧雲閣から臨む景色は銀一色になった。
「あぁあーめんどくせぇ」
文卓に向かっていた少年がひとり、がっくりと頭を垂れる。
瞬間、ぱしりと乾いた音がして、樹鞭がその金髪を叩いた。
「いい加減に覚えなさいと言っているでしょう。この大きな頭は飾りですか」
「てめぇ、俺の頭を何だと思ってやがる。禿げたらどうすんだ」
「即位式の日に笑ってやります」
傍で鞭を握って優しげな笑みを浮かべているのは、ラティ付きの学博だ。
なおも暴言を吐こうとするラティの前で、もう一度文卓に向かって樹鞭を打った。
3つの頃から仕え、ラティの扱いは心得たものだ。
口で言ってもこの王子には意味がない。
「あとで蓉果を食べさせてあげますから」
案の定、何か言いかけていた小さな口が不本意そうに閉じた。
眠たげに瞼を瞬かせながらも、しぶしぶ上体を起こす。
けぶるような明るい金色の睫毛の下に、髪と同色の色素の強い金色の瞳。
透き通るような愛らしい横顔を無造作にさらけている。
「くそっ、貴族の名前なんかいくら覚えたってつまんねぇんだよ」
……口から出てくる残念な言葉を除けば、非常に見目麗しい王子なのだが。
ついたあだ名が「残念王子」、「顔だけ王子」とは情けない。
身近で仕えている侍従と学博もそのあだ名を否定できない。
がっかりして去っていった雲官も数知れず。
おかげで人手が足りず、北季を司る離宮だというのに、季替えがまともに終わっているのは果宮の北端のこの閣だけだ。
「王子も元は北方貴族であられた北妃様の御子ではありませんか」
「何言ってんだ。雲上で生まれたからには、俺は誰の子でもない。ただの王子だ」
「またそんな屁理屈を……」
「ダルシャンもそう言ってたぜ」
学官長を呼び捨てにすると、ラティはへっと唇を曲げた。
卓上には墐格覧と銘打たれた大判の綴子が広げられている。
王城貴族を筆頭にした貴族の格を一覧にしたもので、官位の品を並べた清品覧とで対になる。
「仮にも王子は獅従儀を受けられる身。儀に列席する者の格や品が分からないで、どうします」
「勝手に来るんだ。俺に真名を名乗ればいいのにな」
半ば本気でボヤきながら、ラティはぽりぽりと顎を掻いた。
暗記が苦手なラティには、綴子一冊を覚えるのも至難のわざだ。
「えぇと、フォート=リ=サモワールはリ格か。北方貴族サモワールの末系も末系か。ふふっ、低いなぁお前ら」
「つまらぬことはおやめなさい」
長々とした真名を言われ、フォートは苦い顔になる。
普段の呼称で、家の名を呼ぶことはない。貴族にとって、真名は物言わずとも察しなければならない常識のようなものであり、直に相手に言うのは無礼にあたる。
王子に言われる分には、無礼もへったくれもないので、我慢するしかないが。
「列席筆頭のアッサン始相の家名と家格は?」
「ディンブラだろ、獅従領の……」
「家格は?」
「……デ格。傍系第二式」
一応覚える気はあるらしい。フォートは気づかれぬ程度に頬を緩めた。
名、家格、家名の順に並べると真名になる。この場合は、アッサン=デ=ディンブラが真名だ。
「では、獅従儀を采配されるザハト獅従は」
「東領、キーマンの主格」
「そうですよ。では、東妃様は?」
「げぇ、離宮もか。えーと、トルネ、キーマン主格」
「ザハト獅従との御関係は?」
「知るかよ。どっちも主格の出なら、兄妹だろ兄妹」
芯筆を振り回してラティがうそぶく。
この適当な王子が本当に獅従儀で半人前と認められるのかと思うと、フォートは胸が痛くなる。
「……残念ですね、当たりです」
「ふっ残念だなぁ」
にやり、と底意地悪く浮かべる笑みだけが一人前で、フォートはため息をついた。
さきほど侍従が傍に置いていった杯は、すでに湯気が消えている。
肌で感じる以上に、ここも冷えてきたようだ。雲官を呼んで、炉を点けさせよう。ついでに、熟れた蓉果を捥いでおくように伝えねば。
犀の明かりで今日は夜まで卓に向かえるだろう。
樹鞭を握りなおすと、フォートは再び堪忍袋の緒を締めてラティの学事を見張るのだった。