R9 残り香
「泉の底に沈んでいるみたいだな。すごい色だ」
雲台から身を乗り出していたソンが感嘆を込めて呟く。
北彗宮でラティと肩を並べて雲海を眺めるのが、この頃の日課になっている。
ソンにとって、雲上から見る景色が日々移ろいゆくのはただただ目に新しい。
「雲海が青いのは、下界の実りが多いからだと聞いた。理屈は知らん」
「へえぇ、地表の緑が、雲上では青に見えるんだな。今頃、天樹の枝を家の前に飾って、実りを祝っている頃だ。東季は一年の中で一番平和だからな」
楽月とはよく言ったもんさ、と生あくびをしながら寝転んだ。
ラティほどではないが、ソンも惰眠をむさぼるのが好きである。
「お前は東季が好きか」
「好きに決まってる。昼寝をするのに最高じゃないか」
「そうか、……そうだな」
目を閉じたソンとそんな会話が交わした、数日後。
ラティは果舎で書き物をしていたメイソンを捕まえていた。
「花宮の調度を売り払うですって??」
メイソンが仰天した顔になるや、確かめるような目でラティを見返す。
薄い翠の瞳に映るのは、ふてぶてしい顔をしたいつもの王子である。
「……よいのですか、王子」
やや改まった声が尋ねると、ラティはこくりと頷いた。
「がらくたも、少しは金のたしになるだろ」
憎まれ口を叩くが、メイソンはそれには取り合わず、膝を折ってラティの真向かいに視線を置いた。金色の瞳と、一瞬だけ交錯する。
「王子が決めたのでしたら、従いましょう。よく、ご決心なされましたね」
ぷいと目を逸らしたラティにそう言って、メイソンはそっと手を伸ばし、寝ぐせがついたままの金髪に触れた。身を強ばらせたラティを怯えさせないよう、ゆっくりと手のひらを動かす。よしよしと撫でていると、すぐ居心地が悪そうな顔になり、ぱんっと邪険に腕を振り払われた。
乱暴で、利かん気で、負けず嫌い。弱さを見せるのは大嫌いな王子である。
北妃が亡くなって、三度目の東季。
ずっと手つかずだった花宮の片付けが、始まった。
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「これはまだ使えるのではないですか?」
「誰が使うんだ。女物じゃねーか」
衣棚からせっせとシスルを出しながらも、メイソンの手は止まりがちになる。
懐かしさがこみ上げるたびに、売るのはやめて着ればいいと言い出す侍従に、ラティはうんざりした顔になった。
「王子は北妃様に生き写しなのですから、成儀を迎えられる頃にはこの衣も似合いましょうに」
「いくら俺が美しい顔でもな、女物の衣は付けられねぇっての。選妃で男が寄越されたらどうしてくれんだ、あぁ?」
「あぁ……その口さえなければ……」
嘆息すると、メイソンは力なく衣を下ろした。
寒い北領を家領としていただけに、花宮の調所は大量のシデルやシスルがしまいこまれていた。北妃が花宮に入った時分、北方貴族サモワール家は絶大な富と権力を手中にしていた。
その後、政争に敗れた北方貴族が没落するなか、北妃はかなりの衣を売り払ったはずだが、なお余りある衣がしまいこまれていたことに、往年のサモワール家の絶頂ぶりが伺えた。
「獅従儀も明けて、こうして片付けて差し上げられてよかった」
しみじみ言い、フォートも袖をぎゅっと背中で縛った作務姿で衣棚の整理に励む。
官位を持つ学官とは異なり、フォートのような学博の立場はかなりあいまいだ。
家主に認められさえすれば雲上遥か離宮に出入りすることができるが、官職でないから官舎には住めない。扱いも学官並みの高待遇から年に数度招くだけのぞんざいな扱いまで様々だ。フォートの場合、兄が侍従であることもあって、離宮の家人として果舎で暮らし、雲下官に教えを請われて月に数回離宮を出るほかは、侍従と同じようにラティに仕えて雑事をこなしていた。
「そうかよ」
「北妃様、王子は学博を敬まず、学事にも精を出さず、学師の言うことも上の空、暇さえあれば昼寝をし、従士とは三ヶ月も口をきかず、侍従を困らせてばかりおりまする」
「死んだ奴に嫌味を言ってどうすんだ」
白い目になるラティに、フォートは片眉をあげた。
「おや、こういうときだけお耳がいい」と言い返し、衣棚の抽斗をひとつ開ける。
何年経っていても、焚き染められた香はほのかに漂った。香の調合を趣味にしていた北妃の面影がよぎり、フォートは静かに息を吐いた。
……でも、北妃様
ご安心ください。王子はお元気ですよ。
胸のうちでそっと伝えると、フォートは抽斗に両手を差し込み、積み重なった衣を持ち上げた。
煌びやかに刺繍を縫い付けた北季の衣は、大人の腕でもずしりと重量感がある。
絢爛な衣を纏い、透き通るような微笑を浮かべて兄と自分とを離宮に迎え入れた、北妃の姿を思い出す。
胸いっぱい抱えると、東季にそよぐ風のような、甘く爽やかな残り香が広がった。
話が飛んでおりましたので掲載しなおしました。失礼しました。




