R6 手打ち
下界は、今頃どんな様子だろう。
雲海の犀は、ほのかな翠を帯びて波立っていた。犀が溶け始めたのだ。
雲台の木枠に肘をついた格好で、ラティはその揺らめきをぼんやりと眺めていた。
一年の中で最も寒い幻月に入ると、下界では犀雨が降りはじめる。
「王子っ!どこにいるかと思えば、またこんなところへ出て!」
立って雲海を眺めていたラティが嫌そうな顔で振り返る。
今日も今日とて、ラティの学博は眦を釣り上げていた。獅従儀からこのかた、眦が下がったことがない。
「チッ」
「何度言えば分かるのですか!学師がいらっしゃる刻限でしょう!ほらっ、出てきなさい!」
「イヤだ。季病みをこじらせているから帰れと言ってこい」
「阿呆ですか、この間も寝込んでおいて、そう何度も寝込む王子がおりますか!」
「今日は腹の具合が悪いんだ!」
「ははぁ、ならば苦い弘薬粥を飲まれますか?たっぷり作らせますよ?」
ああいえばこう言う王子を脅しすかしながら、フォートはその襟首をつかんで雲台から引き摺り下ろす。残念なことにラティは学事が苦手だ。もっと残念なことに、ラティには学師を敬う気持ちが欠片もない。
初回の学師だった始相のアッサンを季病みであるとの一点張りで帰らせて以降、並み居る高官たちを次々に追い払った。それで一日中、誰も近寄らせずに雲台で外を眺めている。
ラティの気が乗るまで好きにさせようと考えていたフォートだが、さすがに二度は許さなかった。
「いいですか、王子っ!あなたは雲上で生まれたのでしょう!そして民の恵みで生きていなさる。あなたはソン様を甘い汁をすすろうとしていると誹謗しましたが、ご自分こそ甘い汁をすすっているのですよ!雲上で生まれた者の責を果たし、御身を民に捧げなさいっっ!!」
ぱぁんっと平手で激しく頰を打たれ、ラティの顔がわっと歪む。
「何十回も言いやがって!しつこいんだよ!クソフォート!!」
涙こそこぼさないが、目と顔を真っ赤にさせてラティが叫ぶ。
割って入っていいものか雲官がおろおろするなか、フォートは構わずにずるずるとラティを引きずって碧雲閣を出た。
学師は既に暗舎に通されて、メイソンとソンの向かいに座っていた。
「!アッサン始相ではー…?」
「げっ、どけちジジ…っぃでッ!」
隣の頭を容赦なく叩きながらも、フォートが目を丸くしている。先に迎え出ていたメイソンは、情けなくも青ざめた顔で弟を見上げた。
「学ぶ気のない者は学ばずともよいと仰られて、代わりにクレハ天官をお寄越しになったそうだ」
「なんと……っ」
フォートは二の次が告げずに、絶句する。学師が自ら来なくなるなど、前代未聞だ。
しかも代わりの者として寄越したのは六つも位の低い、八品の天官。
アッサンの怒りは明白だった。
「では、はじめるとしよう。あぁ、それから侍従と学博はお疲れのようだ。外してよろしい」
クレハはそう前置いて、礼もしないラティに席を示す。
年に二度ほど離宮費の通達と収支の検分のためにやってくる顔見知りである。
「君が礼を取らないようだから、私も礼をよそう。君が私をどけちと言うなら、私も君に敬意は表しない」
「実際、ケチだろうが」
口を尖らせたラティに、クレハは少し笑った。
冴えた鳶色の一重の瞳が印象強い顔だ。南領出身の官にしては色白で、頬には若々しい張りがあった。きれいにくしで梳かれた髪は淡い亜麻色で、横髪だけ肩のあたりにかかっている。
「等価交換というものだよ。与えない者はもらうことができない。金1角と君の屁が等価でないのと同じだな。始相の政務の時間と、君という人間の器は等価ではなかったというわけだ」
物を計算するような冷静さで論理を解かれ、ラティは返事に一瞬詰まる。
それから、用心深く相手の様子を窺うような顔になった。
「で、お前は何を等価だと思ってここにいるんだ?」
「ま、私も雇われの身なのでね。等価でないものに時間を割くことも政務の一環というわけだ」
ひらっとかわすと、クレハは懐から一冊の綴子を取り出した。
「私が君に教えることは極めて簡単だ。しかもそれに取り組めば、あの疲れた侍従たちを少しだけ楽にさせてやることができる」
言いながら、クレハは無造作に綴子をソンとラティの間に置いた。
この綴子は見たことがある。離宮費の出入りを書き付けた天帳だ。
一瞥し、訝しげになったラティに、クレハはにやりと笑みを投げかける。
「これで何をするのか、察しはつくだろう?ただし、侍従を頼ってはならないし、学博に答えを聞いてもならない。従士の手は借りてもよいことにしよう。どうかね、やるかね?逃げるかね?」
楽しそうな含みのある顔で迫られ、ラティは今度こそぐっと詰まった。
無残なほど赤く腫れた頬を、クレハの目が追っている。
ソンも横目で、この気難しい王子の顔色を見やった。
「……っ、やる」
沈黙が煮詰まって、絞り出すような声が言った。
ソンはさりげなく視線を戻す。
なんで、泣きそうなんだろう。
今にも泣いてしまいそうで泣かない横顔が、目の裏に焼きついていた。
まともに会話すらしたことがない同い年の王子。
ただ、なんでだろうと思った。




