S6 音舎
蒼雲閣から見渡す下界は、暗月の頃と比べて曇りがちになっていた。
天門鳥が鳴いてからはや十日ばかり経つ。
天渡月は一年の中で最も短い。あと数日で月が終わってしまうのだ。
「音舎にいて民の声を聴く今生帝のご苦労が思いやられます」
年の節目だからと挨拶に訪れていたザハトは、そうこぼして去っていった。
天渡月は、下界から天山への道ができる特別な月である。その月中、王は門前の舎殿にこもって、下界からやってきた民の声を直接聴くことになっている。
「音舎にいらっしゃる今生帝はお元気にしておられるのでしょうか」
「今年は禍が酷うございました。とりわけ北領では渡異が迷い込んだこともあって、直訴や願訴が続いているようです」
セイの答案を確認していたフォルカが、顔もあげずに正確に応える。知識の塊のようなフォルカは、四十にもならぬ若さでダルシャン学官長と同じ三品まで上り詰めた英才である。離宮付の学官としてセイの学事を見ている傍らで、雲上宮で働く現役の官でもあった。
「ふむ、文章力はまだまだですが、論旨はよろしい」
「フォルカ先生、渡異というのは、前に獅従領でたくさん現れたというものと同じでしょうか?」
答案をそっちのけでぐいぐい質問するセイに、フォルカはやっと顔を上げた。青みがかった灰色の髪に、真っ青な瞳をしている。
「なるほど、王子は学事よりも渡異がお好きですか」
「そんなことはありません。でも、今生帝が心配なのです」
はぁそうですかと、他人事のように呟いてから、フォルカは脇にあった綴子をひらいて、五領の図を指し示した。
「渡異というのは、異門から現れる《怪異なる鬼》の総称です。王子のおっしゃるのは、三年前に西の異門から現れた渡異でしょう。あれも酷いものでしたが、今回とは方角が違います」
フォルカが絵図を指しながら言うが、セイはよく分からずに首を傾げた。
生まれたときから雲上で暮らすセイにとって、「異門」がどんなものか想像することは難しい。そこから現れる「渡異」についても、恐ろしい厄災を振りまくものだと言い聞かされるだけで、実際には姿を見たこともない。
「ご存じのとおり、領によって異門の方角は決まっています。たとえば、王子の家領の東領では、天山が見える東方向が《異門》となり、西季はそれを避けて暮らします。王子も病の折は果楼でなく鬼楼でお休みになるでしょう。あれは、家中でよくないことが起きたら異門を忌むという、下界の習俗を取り入れたもの」
身近な習わしごとの話になって、セイはようやくひとつ頷いた。
広げられた綴子へと目を落とす。
フォルカが言うとおり、絵図ではどの領でも異門の方角には高い山が描かれている。獅従領は、領の真ん中に天山が描かれ、四方を異門で囲まれていた。
異門の先には、清らかにそびえ立つ天山が見える。
そして、西季入りすると、異門は渡異が出没する迷いの門になり、その先がどこに繋がっているのか、誰にも分からなくなる……。
「王子は、なぜ渡異が現れるのだと思いますか」
フォルカが淡々とそう尋ねる。
セイが考え込んでいる間、フォルカは黙ってさらさらと芯筆を滑らせる。まるで答えを期待していないようなそぶりに、セイは悔しくなりながら頭をひねった。
「えぇと、月のせいでしょうか」
「と、言いますと?」
「異門から渡異が現れやすい月は、異門が歪んだり、弱くなったりしているのではないかと思います。だから西季に異門を忌むのではないでしょうか」
フォルカは形のいい眉を跳ねさせて、「その答えは半分ですね」と言った。
「異門が歪むのは、禍が起きるためです。昔から、禍は悪政が招くものと信じられています」
「えっ」
言葉に詰まったセイに、フォルカはきちんと対面する。
まだ小さな王子だが、いずれ知らなければならない。この王子ならば、なりは子供でも、聞く耳は育っているだろうと思った。
「むろん、禍が起きぬ王などおりません。今生帝は決して悪い王ではありません。それでも天山を信じ、政事を信じ、禍に苦しんだ民がいるならば、王に責がございます。お辛い立場ですが、音舎で民の陳情を聞くのは、王として生きるが故の義務なのです」
「……今の政事は悪政なのですか?」
「悪政でもないですが、ハルト王や始祖ロン賢王と比べれば善政でもありません」
さらっととんでもないことを口にするフォルカに、セイはびっくりする。
母様も、カナタも、今生帝の悪口など言ったことがないのに。
「私の生まれた獅従領は四方を異門に囲まれ、渡異に悩まされる領民が多うございます。渡異には乱暴な者、火をつける者、盗みを働く者、土地を奪う者がおり、その数も多いときには数百。そして渡異が現れる年には決まって大きな洪水が起き、何百、何千もの失民が出るのです」
珍しくフォルカは多弁だった。
青い澄み切った瞳を見ながら、セイはその眼が見てきた光景を想像しようとする。
火のつけられた田畑、家財を盗まれて泣く領民の姿、洪水で流された家々。
「王子は第二子。慣例に従えばいずれ今生帝になるのは兄君の北の王子。しかし、天山でお生まれになった以上、あなた様も天山の政事を支えられる御身であることを、お忘れくださいますな」
セイは圧倒されるまま、こく、と頷いた。
聞き返すことも、言い返すことも自分にはできない。
国を思い、領民を思うフォルカの本気をただ噛み締めた。
いつも淡々とした調子を崩さずに、高みから見下ろすように自分に接していたフォルカの視線を、セイは今はじめて受け止めたような気がしていた。
今生帝は、責務を果たされているのだ。
フォルカの前では、自分には王を心配する資格など、ないのかもしれなかった。
「さ、では次までにこの問を考えておくように」
急に静かになったセイに、フォルカはいつもの澄ました顔に戻ると、指先で軽く卓上を叩いて書き付けを示す。セイは気を入れ直して姿勢を正し、「はいっ」と声を張った。
謝意を込めて、師への膝礼を取る。
フォルカに恥じない王子になりたい。そう強く願いながら。




