R5 歓待
「あぁ、うっとおしい。暑いから炉を落とせ」
ラティは碧雲閣に入ってくるなり大声で言いつける。
さすがに今日の衣はひとりで脱ぐことができず、メイソンの介添えが必要だった。
汗だくで水場に飛び込んで、一枚布を着ようとしたところでメイソンに叱られ、シデルを着て調所から出てきた頃には、ラティの機嫌は底辺になっていた。暑いというのは本心らしく、雲官が慌てている間にバサリと檜扇を取り出して、乱暴に扇ぎながらどすどすと足音を立てて雲台に登ってしまう。雲台はちょうど碧雲閣の物見台のようになっていて、ぴゅうぴゅうと冷たい季風が吹き抜けている。
幸か不幸か、正殿から果宮まで伴っていた従士のソンは、果舎と呼ばれる家人の住まいを案内されているところで、このありさまを見ていない。フォートもその付き添いのためおらず、メイソンは脱ぎ散らかされた衣の片付けで手一杯である。騒ぎを聞いて駆けつけた雲官も腫れ物にさわるような顔で、顔を見合わせたり、雲台を見上げたりするばかりだった。
「まだ髪が濡れていますよ。何をなさっているのですか」
「風で乾かしていただけだ」
メイソンがやってきて、ようやくラティは振り向いた。階下をちらと見下ろし、手にしていた檜扇を片手でパンと閉じる。自分と同じシデル姿になったソンが、フォートの傍でこちらを見上げていた。
「ふん、来やがった」
口の中だけでそう呟くと、ラティは雲台を降りて、ソンの真向かいに立った。
礼をしようとするソンを無視するように、いきなりびしりと檜扇を突きつけると、ラティは相手を睨めつけるように見据えた。
「おい、王城のくそったれ貴族、俺の従士になったのが運の尽きだったな。ここの離宮費は年中すっからかんだし、雲上官の出入りも碌にねぇし、俺の家格は第一式だから四方族の箔もない。贅沢がしたいならてめぇの家で金を出せ。権を張りたいならさっさと辞めちまえ。箔はおまえ、主格の出なら今さらいらねぇだろ」
開口一番、息をつく暇もなく言いまくったラティに、メイソンが危うく膝から崩れかけた。後ろで控えた雲官は白眼をむいている。
「お、王子!いきなり何を言いだすのですか!今すぐお取り消しください。あぁ、まったく、何てことを……っ!」
「けっ、楽して甘い汁をすすろうなんざ、甘いんだ。言っとくが、俺は従士なんかこれっぽっちも欲しくねぇ。王になっても取り立ててやる気なんかねぇ。辞めたいならいつでも認めてやるからそう言えよ」
言いたいことを全て言ってしまうと、ラティは鼻をふんと上向けた。ダメ押しのような暴言に、メイソンがこれはもう手遅れだと半泣きになってうなだれる。
向かいでは、髪と同色の橙色の瞳をした少年が、ぽかんととした顔になっていた。
その隣でフォートが顔に青筋を立てて震えている。
「王子……あなたという方はぁっ!」
「今日は疲れた。もう寝る」
くるっと顔を背けると、ラティはさっと身を翻した。
ぶち、とフォートの堪忍袋の尾が切れる。
「コラァっ!謝罪をしなさい!それでも獅従儀を受けられた王の御子ですか!!」
眦を立てて、かっと鋭い声を発するが、ラティは逃げ足だけは早い。
追いかけてくるのを察知したのか、シデルを両手でたくし上げて飛ぶように果楼に逃げていく。フォートが灰褐色の髪を振り乱し、樹鞭を引っつかんでそれを追う。
暴風が過ぎ去った碧雲閣は、文字通り、犀が凍てついたように静まり返った。
「……何なの、あいつ?」
やっとソンの声が出た。
仮にも王子に対して「あいつ」呼ばわりはやめなさい、などと言えるわけもなく、メイソンは項垂れていた顔を上げた。今さら何をどう取り繕うこともできまい。
「ああいう、王子なのです」
疲れた顔で呻くメイソンに、ソンは呆れた顔になる。
「俺、どうすりゃいいんだ?」
「……王子はああ仰いましたが、獅従儀で与えられた従士を辞めさせるなど、私は聞いたことがありません。ソン従士には大変申し訳ございませんが、しばらくの間ご辛抱ください」
平身低頭とはこのことである。獅従領を家領とするディンブラは別名を王城貴族といい、土地は持たないが官職につく者が多く、貴族の間でも別格扱いだ。
しかも、その王城貴族の主格の子息なのだ。ぞんざいな口調のソンはさして怒っている風には見えないが、腹の中は煮え繰り返っているに違いなかった。
「あぁ、分かった」
ソンは短く言って、ふっと笑った。
少し大人びた笑い方で、斜に構えた切れ長の目が細くなる。
「メイソン侍従、俺のことはソンでいい。俺もあなたのことをメイソンと呼ぶ」
少し改まった口調になってそれだけ言うと、ソンは後ろに立った雲官を見渡した。
「しばらく世話になる。皆の呼び名を教えてくれないか」
「わ、私、雲官のシアンと申します。あの、その、じ、従士様っ、お寒くはないでしょうか?炉を立て直しますので、どうぞお座りになっておくつろぎください!」
しどろもどろで何やら必死になっている雲官に、はっとメイソンは我に返った。
今日は獅従儀を終えた祝いを兼ねて、従士をもてなそうと朝から総出で用意させていたのだ。炉を落としたせいで薄寒い空気になっているが、今からでも祝いの席をはじめればよい。
「さ、さ、こちらにどうぞ。家人の紹介は食べながらでもいたしましょう」
「??」
「ソン様は何がお好きでしょうか?今日はたっぷり馳走を用意しておりますので、お好きなものをお好きなだけお召し上がりくださいませ」
あれよあれよという間に膳が運ばれ、かいがいしく両脇から世話を焼かれ、ソンはわけも分からずに馳走を頬張った。膳にラティの好物であるサハシが並んでいるのは物哀しいものがあるが、この際誰に食べてもらってもよい。
半ばやけくそになった北の離宮の家人は、その日夜を徹して歓待をしたのだった。




