S1 記憶
小さい頃から不思議だった。
どうして自分には、自分でない記憶があるのだろう。
記憶のなかに、もう一人、別の誰かがいる。
侍従のカナタに聞いても、王子は王子ですとしか答えてくれない。
母様に聞いたら、少し困ったように微笑んで頭を撫ぜられた。
「なぜって、あなたが特別だからではないですか。あなたは今生帝に愛された御子なのですから、少し普通とは違っていてよいのです」
母様はのんびりした方だ。子供心に、こんなにおっとりとした性格で、よく妃を務められているものだと思ってしまう。たぶん、子供の冗談かたとえ話だと思われたのだろう。
……本当に、もうひとりの記憶があるのに。
学官長のダルシャンに相談したら、あまり聞いたことがないと遠まわしに言われた。人は死んだら天山に上るので、二度生きることはないのですよ、と。
あれから、もうひとりの記憶のことは、誰にも話していない。
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東の離宮に、北季が訪れていた。
例年より早く涼風が吹き始め、今朝から雲官が総出で季替えをしている。
セイの住まう果宮でも、帳子を替えたり、桟に木枠を入れたりする賑やかな音や、衣を山ほど抱えてつんのめるようにして細廊を渡る雲官の姿で、一気に北季支度を整えていた。
「母様はのんびり屋なのに、どうしていつも季替えを急ぐんだろう」
ロウにシラルとシデルを重ねて着せられたセイは辟易とした顔になった。
一枚布の長上衣を着慣れた身としては、着ぶくれして太ったような心持ちだ。
「東妃様は、王子を心配されているのです。まだお小さくいらっしゃいますから」
「せめてシラルだけで許してよ。暑くてたまらない」
側付きの雲官はまぁと残念そうな顔になった。
「とてもよくお似合いですのに」
「明日の茶会には着るさ。ウヴァの選んだシデルをね」
にこりと笑うと、セイは口答えを許さないとばかりにえいと上衣を脱いでしまった。
金糸の刺繍をふんだんに縫い込んだ青地の生地は、暑いだけでなく重いのだ。
ウヴァと呼ばれた雲官は、赤らんだ顔を隠すようにシデルをかき寄せる。
幼年を過ぎた王子ともなると、常人とは思えないほど大人になるのだ。
意思を通すところは通して、角を立てずに人を喜ばす術をもう心得ている。
「今日は、学官様がいらっしゃる日ですね」
「うん、フォルカ先生がいらっしゃるんだ。あ、髪は仮結いで構わないよ」
衣を整えて、いつものように櫛を取って眩いばかりの柔らかな髪を梳かす。
セイは適当で構わないと言うが、ウヴァのような雲官にとって、この仕事は絶対に欠かせない。
雲官の間で取り合いになるほど大事な仕事なのだ。
手のひらにのせた白金の髪をそうっと撫ぜるように梳くと、さらさらと櫛が通る。
控えめに鏡を見れば、髪の色と同じ色の瞳とかちあって、夢見心地になる。
雲官になる以前から、噂には聞いていた。
天山は雲上にお生まれになる王の御子は、金髪金目の獅子のような美しい容姿だと。
その姿を一目見たいと願って、天山の下で生きる民は天山詣でをする。
一生に一度でいいから詣でたいと願ったまま死んでしまうことも多い。
それに比べたら、雲官は夢のような仕事だ。
髪を痛めないように水紐でゆったりと結う。
ちょうど、肩まで伸びてきた頃だ。来年には背中まで届くだろう。
やっと解放されたと子供らしい軽口を叩くと、セイははずんだ足取りで調所を出た。
戸口で待っていたカナタは、まだ一枚布の西季姿だった。ロウの上に膝下までの長上衣を羽織るという格好は同じだが、一枚布には腰の高さまで両傍に切れ込みが入っているから、違いは一目で分かる。
「おやおや、遅いと思ったら、着せられましたね」
「母様の心配性を何とかしてくれ。これでも一枚脱いだんだ」
からかうような眼差しに言い返しながら、セイは細廊を渡る。
身支度をしているうちに、果宮はすっかり季替えを終えていた。
走り回っていた雲官の気配もない。
『もう、冬かー…』
懐かしい言葉を心の中で浮かべる。
あの国とは違って、天山の北季は急に訪れる。
暗月の一日目には、犀が降りだすのだ。