夢路千里
台風一過の空は高く、突き抜けるような青。山には少々気の早い、紅葉が散り始めていた。観光地然としたこの山間の町には、賑わいが戻っている。一日分の遅れを取り戻さんとするかのように、人はせわしなく動き続ける。そんな折、
「この先に行くのは、もう少し待った方が良いですよ」
ある男に、こんな声をかけられた。
夢路千里
「そりゃまた、どうして?」
訝しげに叶が歩を止めると、声の主は二三歩彼の方へ足を進めて、少しだけ困ったような顔をした。どことなく人懐っこいような愛嬌と、それでいて深い海の水面を見ているような底知れなさが共存している。何とも奇妙な印象を受けた。
彼は周囲の人々の動きをぐるり見渡すと、ふと目を伏せてこう言った。
「すみません。あまり時間がないようなので、一つお願いが」
「……俺に?」
「ええ」
叶は一瞬思案したが、彼の声と眼差しには、どことなく有無を言わせない、深さがあった。結局頷いて、
「何だい?」
と、聞いてみる。彼はふっと緊張が解けたように笑って、叶の背中を指さした。
「それ、弾いて頂けませんか?」
「……わかった。いいよ。訳は後で聞かせて貰えるんだろうな」
「聞くまでもなく、わかります」
含みのある言い方は少しだけ引っ掛かったが、叶は大人しく風呂敷を広げ、琵琶を弾き始めた。粋な演芸と勘違いした観光客が、ぞろぞろと辺りに集まって来る。流石の叶もいささか戸惑って、そろそろいいかと話しかけようと顔を上げた、その時。どどんと、山から打ち震えるような音。饐えた臭い。書き割りのようにぱっかりと割れて移動してゆく木々。その場にいた者は総じて、静寂の後喧騒に包まれる。
「大丈夫、ここまでは来ません。落ち着くまでここで待ちましょう」
叶の心中を察したように、男が小さな声で話しかける。周囲の人間が、しかるべき場所へ連絡を取り始めたことを確認し、叶は彼の言葉に従った。
「あんた、未来が見えるのか」
「ええ」
宿に戻れば辺りは騒がしく、その男は他の宿泊客と同様にロビーのソファに腰かけた。叶も後に続こうかと思ったが、腰を落ち着ける気にはならず、そのまま彼の傍らに立っていることにした。
「俗に言う、予知夢と言うものです。過去を見ることもあるので、厳密には違いますけれど」
「千里眼ってやつが、一番近いのかな」
「遠くの風景を見たり、透視をすることは出来ませんよ」
「そうだな、何とも言い難いか」
男の名は、槐と言うらしい。
「千里眼と言うものは、その名の通り見るという感覚が恐ろしく発達していると言う事だと思うんですね。僕の場合夢なので、体験として感じることの方が多いです。音だけであったり、視覚だけである場合もありますけれど」
「夢ってもんが、もともとままならんからな」
「ええ本当に。ままならぬものです。だから僕も、知っている未来の方が少ないですよ。本当はね」
槐はふうと息をついた。叶は黙って小さく頷き、彼を観察する。
背は高く、年の頃は、まだ若い。自分と同年か、もしくは年下だろう。しかしながら、纏う雰囲気は酷く静か。諦観とも取れる、達観したような落ち着きを感じる。反面、彼の口から発せられる言葉は一見穏やかだけれども、何かを求め続けているような、内に含んだものがあるような、そんな印象すら受ける。そしてそれは、ほんの少し、ほんの少しだけうすら寒い。
随分失礼な事を考える、と、叶は心中で自嘲し目を閉じる。恐らくこの印象は、自分の過去と未来をこの男は知っているのかもしれない、と言う、畏れのようなものから来ているのだろう。物語師と言う職業上か、それとも体質的な物なのかは何とも言えないが、叶もまた、言霊、と呼ばれるものには敏感であるらしいし、いらぬ邪推をすることもある。彼自身、その事について自覚はあるから、時折このように、故意に思考を止める。
「あんたが見た未来では、こんな風に皆が助かってたのか」
「いいえ」
叶は、驚いて、
「変えられるのか……! 未来を」
思わず槐を振り向いた。
「どうにも、僕が介入すれば変わることがあるらしいのです」
対して槐は、慣れたものだと言うように、淡々と相も変らぬ穏やかな口調で続ける。
「それはまた、随分と、重いね」
「ええ」
勿論過去を変えることは出来ませんよと、槐は静かに笑った。それはそうだろうと叶は返し、そして考える。
動かせぬ未来を見ることは、それはそれで耐えられぬものでもあろうけれど、変えられるとなれば、そこには計り知れない重圧がかかるだろう。特に、今回のように人の命が関わるような場合は。
「正解は、わかるのか?」
「いえ、どう行動したらよいかはわからないんです。だから、出たとこ勝負ですね。今回のようにわかりやすい場合は、別ですけど」
「なるほどね」
突然、胸を締め付けられるような嗚咽が耳に届いた。振り向くと、家族連れの母親であろう女性がおいおいと泣いていて、傍らに子供らしき人間が寄り添っている。すぐ横では救急隊員らしき男が二人、所在なさげに立ち尽くしている。
「……この宿の人だったのか」
それを見て槐は、微かに目を細めて呟いた。意味深な口ぶりに叶は口を開きかけるが、何も言わずに家族を見守る。母親と子供は隊員に連れられ、すぐにロビーから出て行った。暫し流れた沈痛な空気は、再び動き出して徐々に熱を持ち始める。それを確認して、槐は誰にともなく話しかける。
「勿論、救いきれないものも多いですが……」
「そう、だろうな」
「ええ。あれこれと理由をつけてごまかすのは得意になったはずなんですが……それでも、通用しない方もいる」
皮肉な事ですが、と、槐はふと笑って、
「直接的な言葉よりも、何の関係もない言葉をかけた方が、上手く行ったりもする。僕の言葉よりも、あなたの琵琶の方が、力があったりすることもあるんです」
小首をかしげる。そんな仕草をすると、妙な言い方だが年相応の明るさと軽快さを感じる。叶は小さく一拍分間をあけて、その割には淡白に、
「……役には立ったかね」
と、呟くように返した。
「僕も巻き込まれる人の顔、一人一人覚えているわけではありませんが……巻き込まれた人の数は、格段に減っていると思いますよ。元々、民家のある場所じゃないですから、あの道路にさえ入らないようにすればよかったんです」
「その中には、案外俺も、含まれてたんじゃないのか」
「さぁ。今となっては、確かめる術はありません」
「そうか、じゃあ、礼を言っておくよ」
とぼけたように槐ははぐらかしたが、叶はどこ吹く風と軽く頭を下げる。意外そうにする彼に、小さく肩を竦めて笑う。
「あんたに助けられたもんだと、俺は思ったからな」
少しの間だけきょとんとしていた槐は、ふぅと小さく息を吐き、安心したように、にこと笑った。
「それじゃ、お礼ついでに。今晩飲みにでも行きませんか?」
槐の言ったように、土砂崩れは規模自体それほど大きくはなく、道路一本を塞いだだけであったから、復旧自体も早かった。朝のうちに救助活動は終わり、昼過ぎには道も開通した。
しかし結局一人が亡くなり、二人が怪我を負った。
旅行地には、この結果を受けて僅か影が落ちたが、夕方を超す頃になればどこへやらと、皆美味しい夕飯を求めて方々に散っていく。薄情とも逞しいとも取れるが、存外それは、当然の事なのかもしれない。御多分に漏れず叶も、騒ぎがひと段落したのち外に出かけた。槐は宿に留まって、仕事をしていたようだった。
資料をこんもりと抱えて帰って来た叶は懐中時計をチェックして、バタバタと忙しなく部屋を片付けてロビーへ走る。槐は既に待っていて、美味しいお店を仲居さんに聞いておきましたと先陣を切って歩き出す。連れていかれたのは、落ち着いた雰囲気の小さな店。創作料理が売りであるようで、南国出身の店主が、故郷の島の料理を振る舞ってくれた。
彼は雑誌の記者をしているらしく、今回ここにやって来たのも、半分は取材、もう半分は土砂崩れの件が目的であったようだ。仕事をしに来たのか、人を救いに来たのか、わからないような口ぶり。槐と言う男は、話せば話すほどに不思議で、人懐っこく柔らかな声にふと安心を感じたり、それでいて、玉虫の羽根のように様々に色を変える言葉に、不可思議さを感じたりもする。穏やかなようでいて、心のどこかが落ち着かない。
自分から飲みに誘っておいて、この男はあまり酒を飲みはしなかった。先ほどからちびちびと、のんびりとしたペースで日本酒を口にするだけだ。
暫く、穏やかだけれども、空虚な時間が過ぎたあと、
「あなたは、物語師さんなんですよね」
ふと槐が、彼にしては堅い声で切り出した。同時に、ふわりとしていた場の空気が、ようやっと落ち着いたような気がした。
「ああ。このあたりの伝承を調査しに来た」
「全国の、怪奇現象や都市伝説にも詳しいとお聞きしてます」
「……聞きたい事でも?」
こちらから切り込もうか一瞬迷って、叶は結局切り出す事とする。槐は、初対面の人にこんな事を聞かれても困るとは思いますがと、遠慮を重ねた後で、一回目を閉じて、叶を振り向く。
「僕のような人間を、他に知りませんか?」
「あんたのような?」
「そう、予知夢を見る」
「どうしてまた。……質問に質問を返すのは悪いが、あんたと話していると、焦点が定まらなくなってくる気がするんだ」
叶はずばり言う。槐は少しだけ眉根を寄せて、すぐに納得したように首を数回縦に振ると、そうですね、結論を先延ばしにする、僕の悪い癖なんですとひとりごちる。
「僕は過去と未来を夢に見ますが、どうにも引っ掛かる事がある。過去は数十年と言う単位で遡れるのに、未来はごく近いものしか見えない」
そこで、槐は自嘲気味に笑って、
「予知夢ではなく、創造夢だったらどうしようと、時折考えるのです」
と、それだけ言った。
「創造って……ようは、あんたの夢がそのまま現実に干渉しているって事か?」
「かもしれない。でも、そうではないかもしれない。僕には、自分の力の正体がわからない。単に自分が変える可能性のある未来を夢に見ているのか、それとも自分が作り出した未来だから、自分自身で干渉が出来るのか……。おこがましい想像だとも思っていますが、それでも……もし、そんな過ぎた力をもし手にしているのならと、時折不安に思う」
だからこそ、知りたい。そのような実例があるのかと言う事と、同じ力を抱えている人がいるなら、どんな風に彼らはそれを乗り越えてきたのかを。そう言う槐の表情は、真剣そのものだった。叶は、予知と言う力に包まれてしまいがちな彼の、人間としての芯の部分を、ほんの少しだけ垣間見た気がした。
「ここにはどれくらい滞在するんだ?」
「五日間ほどですが……」
「俺も、まだ予定には三日ほど余裕があるんでね。直接扱った事案にはないんだが、知り合いに記憶の収集家がいる。そいつに聞いてみるよ」
「……ありがとう」
翌朝、叶は記憶の収集家、露の屋主人に電話を掛けた。久々に聞く友の声に、主人の文は嬉しそうに声を弾ませ、暫し雑談に花が咲く。中々切り時の分からない会話に、叶は最終的に、無理やり割り込む羽目になった。
「それで。さっきの件なんだが」
『うん、わかってるよ。相変わらず、引きが強いねお前は』
半分からかうように、半分は労わるように、文がくっくと笑ったのがわかる。叶はため息をついて軽く咎める。
「人を疫病神みたいに言うんじゃないよ。大真面目な話だ」
『重々承知。だから言ったんだ。……探しておくよ』
「ああ。すまんな」
『お互いさまさ。しかし、少しだけ気になるね』
「うん?」
文は日々、他者の記憶を共有し、人生を垣間見ているから、時折妙に鋭いことを言う。叶もそれを良く知っているから、耳を傾ける。もっとも、先ほどのように下らない冗談の場合も多々あるのだが。
『他人の人生を知ったところで、彼の求めている答えには行きつかない。そんな事くらい、お前も彼もわかっているだろう』
そんな事で自分の人生がわかれば、俺はとっくに達人級になっているはずだと、文は冗談めかした。叶は、受話器越しに肩を竦める。
「だからお前に頼んだ」
『ん?』
「お前の持っている記憶は、全部生きている人間のもんだろ。会おうと思えば、会えるじゃないか」
『あぁ……』
文は、合点がいったと言うように声を漏らして、お前らしいねと笑った。
『わかったよ。急いで探しとく』
「ありがとう」
『いいえ』
受話器を置いて、叶はしばし考える。殆ど疑問も持たずこの依頼を受けてしまったが、確かに文の言う事にも一理ある。どうにも、人の話を聞く時に、自分は盲目的になる部分があるらしい。
自らの運命に対応して老成した思想と、自分が何者なのかわからないという悩み。殆ど完成されてしまった諦観と、形の定まらない覚悟。その間で本当に苦しんでいるなら、あの男は、本当にこんな事を頼んでくるだろうか。
ふと、窓の外を見た。宿の四角い窓から見える山々の風景は、とても静か。昨日この大地の一部が崩れ落ちたなど、誰も想像できない程に。疎らに散る赤や黄色、時折木枯らしにざわりと身震いする山の影。その度にどれほどの葉が、役目を終えて土に還っているのだろう。目が眩むほど冴え渡った青い空との、コントラストが目に刺さるようだ。
眼下に目を落とせば、観光客たちがあれこれと思い思いの場所へ向かっていく。流石にあの道路の方面に向かうものはいないようだが、もうすっかりと昨日の事故は、過去のものとなっているらしい。饅頭屋はぷかぷかと煙を吐き、食事処には賑わう行列。数分おきにやって来るバスには、大勢の人間が乗っていく。
室内を眺めれば、博物館やケーブル・カー、遊覧船などのパンフレットが色鮮やかに主張する。そうか、ここは観光地だったのだと、叶は改めて思い出す。
誰もが訪れはするけれど、長く滞在することのない場所。絶えず人は移り変わり、同じものなど一つもない。それこそ川の流れのように、絶えず、新しいものに躊躇なく置き換わっていく。
長くいる、場所ではない。
叶は、何かに納得したように目を閉じた。秋風が、柔らかく窓から入って来る。
「秋に、こういう場所に来るもんじゃないな、全く」
ぼそりと愚痴のように呟いて、彼は暫し微睡んだ。
翌日、夕日のつるべ落としが始まる頃。叶は槐を訪ねた。文が探し出した予知能力者の記録は二人ほど。よく、探し出してくれたと思う。槐はまるで、来るのがわかっていたかのように、ノックの前に扉を開けた。
「すみません、無理をお願いして」
「いや、構わない」
文机の上に、記録を並べる。電話口で文の話を書き起こしただけの代物だが、要点は押さえてある。
「本当に、いるものなんですね。未来がわかる人って」
まじまじと目を通しながら、槐は驚いたように呟く。殆ど無意識に出たような、そんな感想のような言葉だった。彼はまるで叶の存在など忘れてしまったかのように、書面に没頭している。叶は暫しその様を眺めていたが、藪から棒に、
「その記録は、まだ生きている人間のものだよ」
と、謎でもかけるように言った。
「えっ」
「許可を貰って来たんだ。と、言っても俺の友人が、だがね。中々、骨の折れる仕事だったと思うぜ」
槐は目をパチパチとさせ、少し戸惑ったように記録を見返す。
「これが……。今、生きてる人の?」
「じゃないと意味がないと思ったからな」
「そう……」
叶は胡坐をかいた足から片膝を立て、脱力したような調子で槐から目を落とした。そして、静かに問いかける。
「あんたの中で、もう答えは決まってんだろ」
どきりとしたように、槐は叶の方を見た。
「あんたの力は予知夢だ。あんただって心の底では、そう信じている」
揺らぎなく、と、叶は念を押すように言って、背を伸ばして顔を上げる。真っ直ぐ正面から顔を合わせると、槐は反射的にと言った様子で僅かに目を伏せた。小さく、深めに息をする。
「あんたはただ、知りたかったんじゃないのか。あんたと同じ能力を持ちながら、世間一般の幸せと言えるような、生活をしている人間がいる事を、さ」
ゆるぎなく信じているからこそ、自らの道が固く塞がっているように感じるのだ。今歩いているこの道には、もう分かれ道も脱出路も無いような気がしてくる。それは、虚構の世界にも似た幻であるのに、そこから、呪縛のように抜け出せないのだ。
「しかし、どんな未来を過ごすかは、あんた次第だぜ」
楽ではないとは思うけどさ、と、叶は言って再び姿勢を崩した。何かを咀嚼し、考え込むかのような暫しの間のあと、観念したように槐は話し出す。
「……昔はね、何度も悩みましたが。生きているのだから、仕方ない。生きているのだから、これは予知夢だと、思うしかない。生き続けるためには、そう思い込むしかないですから」
ふーっと、何かを吐ききるように長い息を吐く。何かを諦めたような微かな哀しさと、すっきりとしたような晴れ晴れしさが同居しているような、不思議な表情だった。
「いつしか、それは僕の中の真実になっていったんでしょうね」
「そうか」
「ええ」
「それでいい、と思うぜ」
「そうかな」
「ああ」
軽く礼を言った後、でもねと、槐は苦笑した。
「理由はもうわからないけれど、これ以上幸せにはなってはいけないんじゃないか、なれないんじゃないかと思う時がある。いや、きっと恒常的に、心の底ではそう思っている。予知をしてしまう事自体が、何かの罪のように感じることがあって、何かしらに苦しんでいる事自体が、自分には似合いだと思うようになってしまった節があるんですよね。だから、幸せに暮らしている人がいると言う事を知りたかったし、その方法を、知りたかったのかもしれません」
馬鹿みたいでしょう、と、槐は自嘲する。
「馬鹿みたいだが、何となく、わかる気もするよ」
「本当に?」
ゆるりと力を抜いて発した叶の言葉に、槐は穏やかに問いかける。咎めたようでも無ければ、気を害したようでもない純粋な言葉は、
「いや……忘れてください。今のは、なし」
しかし、すぐにひっこめられる。
「いいのか、それで」
「いいんです。……でも、少しだけ、あなたの落ち着きが羨ましい。……なんて、失礼ですよね」
「……いいさ。旅先で出会うもの同士。旅の恥はって奴だ」
素直で真っ直ぐな言葉に、叶は芝居がかった調子で笑う。彼なりの、照れ隠しなのである。それを知ってか知らずか、槐は軽快に、からからと笑った。
「はは、ほんと、敵わんなぁ」
ひとしきり笑って、槐は問いかける。深刻な響きではなく、あした天気になればいいなと、運動会の前日子供が呟くような、そんな調子だった。
「今と違う方向へ進む道は、いつか見えるようになるんでしょうか」
「あんたが望めばな」
「そう。じゃあ、新しいものが見えて来るまでは、今のまま、進むしかない、か。あんじょうやらんとなぁ」
うんと伸びをする。部屋で原稿でも書いていたのだろうか。背骨が鳴る音がした。
「あんた、上方の人?」
「実家がね」
「そうか」
「ええ」
もう忘れかけていますけどねと、槐は愛おしむように呟いて、窓の外を見る。
靄がかかった空に浮かぶ月の金色の光が、滲んだように天上の藍を染めていた。
秋晴れの空に鳥が高く飛んだ、翌日の朝。叶は宿を発つことにした。槐は玄関まで見送りにやって来て、またどこかで会ったら声をかけますよと、明るく笑った。
電車に乗って、山間の地を離れる。見る見るうちに、街は小さく遠ざかり、二時間も経たぬうちに、目的の港へ到着する。
港町は、何やら騒がしかった。何となく嫌な予感がして、叶は船着き場へ急ぐ。
「すみません」
「ん? 何だ? 観光客かい?」
「えぇ、まぁ……。騒がしいようですが、何かあったんですか?」
知らないの? と、係員風のおばさんは呆れて、それが大変だったんだよと捕まえられる。訳が分からず成すがままになって、話を聞かされる羽目になる。
「一昨日の事さ。船が横転して大変だったんだ。何でも、台風の吹き戻しらしくってねぇ。幸い死人は出ちゃいないけど、一時救急車だらけで大事よ」
「一昨日って……」
すっと血の気が下がるような気がして、はたと思い当たる。おばさんから無理やりに離れて、叶は思わず山側を向く。
「まさか……これが視えてた、なんてことは……」
そして、空を仰いで、確信したように息をついた。
「敵わんのはこっちの方、ってわけか」
全く、格好がつかんねと叶は笑う。本当に何者だったのだか。これでは、どっちが救われた側なのか、わかりゃしない。
次に会った時は……焼酎でも奢ってやるかなどと、叶は小さく呟くと、運航予定を確認すべく、雑踏の中に消えて行った。
『筆錦 ~夢路千里~』 了