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筆錦  作者: 河波 悠
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たなごころ

 朝なのに、夕方のように暗い。黄色味がかった日光が、黒い雲の向こう側から辛うじて透けている。ざあざあと息苦しくなるような音は、地面の上にあるものを悉く乱暴に叩いて、過剰なほどにその存在を主張してくる。べったりと張り付いてしまった服が不快だ。

 明滅する、空の彼方とパンタグラフ。鼓膜を叩く水の唸りと、線路の上の風切り音。傘を差せばいいのに、雨宿り。

 私がその男と出会ったのは、そんな大雨の日。何故息ができるのかが不思議なくらいの大降りを避けて、確信犯での遅刻を敢行しようとしていた時だ。折角止んだと思っていたら、雨雲が再び広がって来て、あっという間に目の前の世界は、嵐の様相を呈する。これはまずいと駆けこんだ、休業日の商店の軒下に彼は居た。

「凄い雨ですね」

 その人は私と同じように、髪から服からびしょ濡れで、思わずそう声をかけた。

「えらい目に遭った」

 ふうと細い息をついてから、彼は空を見上げる。まるで星雲か何かを見ているような、とても不思議な配色の空。少しだけぼうとしてから、その人ははっとして背中の荷物を下ろす。くるまれた布越しに透ける形は、随分と不思議だ。

 視線に気づいて、彼がこちらを見る。深い色の瞳だなと、ぼんやり思った。

「楽器、ですか?」

「ああ」

「ギター? あ、でも形が変……バイオリン? に、しては大きいし……」

「琵琶だよ、琵琶」

「琵琶法師の?」

「そう」

 興味深く覗いていたら、視線の意味に気づいた彼は、風呂敷を取り払って楽器を見せてくれた。教科書に載っているような、年代物の木。源氏物語にでも出て来そうな古めの形。

「綺麗ですね」

「師匠からの貰い物」

 大丈夫なんですかと問いかけると、乾かせば大丈夫かな、と、楽器の奏者らしくない事を呟いて、彼は息をついた。

「通学途中?」

「まぁ、そんなとこです」

 男はカバンの中からタオルを二枚取り出して、片方を私に投げた。礼を言って、遠慮なく服や髪を拭かせてもらう。

「あなたは何をやってらっしゃる方なんですか? やっぱり演奏家?」

「あぁ、一言では説明しづらいんだが……物書きというか学者と言うか、そんな感じだな」

流石に、なるほどとは言えなかった。イメージが出来ない事はないが、もう少し端的な言い方にしてほしい。彼は少し唸って、

「世の中の、不思議な話を記録してるんだよ」

 と、何かを諦めたみたいに、でも穏やかに苦笑しながら言う。

「都市伝説みたいな?」

「そう」

 風の噂に、聞いたことがある。世の中の不可思議な出来事を記録して、語り続ける「物語師」という人々がいる事。もっとも、彼らの存在自体が、既に都市伝説のようなものなのだけれど。

真偽など、どちらでもいい。こっちから、話をしてみればわかる事。

「それなら、面白い話がありますよ」

 そう思って話題を振ったのは、今思えば、聞いてほしかったからだろうなぁと思う。

「うん?」

「私の母親の『話』なんですけど……」

 自分でも気づかないくらいの胸の奥に、溜めこんだ色んなもの。



 たなごころ



 私の母は作家である。正確に言うと、作家であった。もうこの世にはいないから。彼女の遺作となったのは、当時幼かった私にあてたファンタジーだったのだけれども、その本はなんと、

「生きているんですよ」

「本が?」

本の中の世界に、入ることが出来たのだ。

「そりゃまた……奇怪な事もあるもんだ」

 言葉とは裏腹に、彼は興味深げに聞いていた。不思議に、この人になら何を話しても、後腐れが無いような気がしてくる。

「我が母ながら、そこまで魂を込められたんだなって。凄いと思いました」

 多分、偉大な作家というやつだったのだろうと、私は思う。もう、あまり覚えてはいないのだけれど。

「それがまた凄いんですよ。一つの国を救う話なんですけど、RPGのゲームにでもありそうな感じの壮大さで。何が凄いかって、ラスボスが自分なんですよね」

「え?」

「母さん」

「それはまた……」

「凄い自信過剰」

 容赦なく倒してやりましたけど、神経を疑いますよ全くと、私は笑った。

 吹き込んだ雨が、容赦なく靴を濡らす。じんじんと伝わる不快感と生ぬるさ。肌にくっついた服が、風に吹かれて少し寒い。外で寒さを感じるなんて、いつ振りだろう。

あぶれ蚊が一匹、目の前を飛んで行ったけど、私の事も彼の事も、見向きもせずに去って行った。

「案外、本物の魔女だったのかも」

「魔女と来たか」

「いずれにせよ、天才肌ですよね。色んな意味で」

「……そうかもな」

 そんな母さんは、私がまだ小さい頃亡くなったけれど、最後まで普通のままで、変に取り乱したり、悲しんでたりなんてことはなかったように思う。幼い私にそういう部分を見せまいとしていたんだろうって事は、頭では理解しているけれど、時々思うのは、あの人は素で、「ああだった」んじゃないかなってことだった。

「母さんが、よく言ってたんですけどね」

 人が苦しみ悲しむのは、優しい人間になるためなのだ。

 実際に自分が、苦しんでみないとわからないのだから。だから、全ての経験には意味があるんだと。例え辛いことでも徒労でも、無意味な事ではないんだと。

「いい言葉だな」

「そうですよね」

 作家だったからと言うのも、きっと大いにあったのだろう。結局全部、ネタになるのだし。と、言うのは、いささか乱暴か。しかしながら確かに言えることは、そう思って最後まで生き抜けるくらい、彼女が強かったと言う事だ。

 その強さがきっと、彼女の最後をああいうものにして、物語に命を与えたのだろう。殆ど執着にも似た、強烈な心の力が。信じるものを最後まで信じる、意志の力が。

「無宗教の国って、あるじゃないですか」

「ああ」

「そういう国って、皆自分の心の中に、何かしら宗教的な物を持って生きているから、宗教が必要ないってだけな気がしますね」

「案外、宗教のある国でも同じかもしれんがね」

「うーん……そうかも」

 人間は、そう易々とは不幸を乗り越えられない。だからこそ、不幸に、試練と言う意味を付けた。

 苦しみは、意味があるからこそ乗り越えられるのだ。

意味のない悲しみは、どうやって乗り越えたらいいのだろう。意味のつけられない、漠然としたような苦しみは。

 轟々と、水音だか風音だか、わからない音がする。油断すると声がかき消されてしまいそうで、声を聞き漏らしてしまいそうで、知らずのうちに張り詰めていた息を吐く。電車の音は、もうすっかり聞こえなくなった。目の前の排水溝には落ち葉が詰まって、小さな渦を巻いた泥水が停滞している。

 もう少しこの雨が続けば、道は冠水するだろう。

「何でいつもこうなんだろうなぁ」

「ん?」

「何でなんだろ。今日だって、さっきまで晴れ間がのぞいてたから出て来たのに」

「……ああ」

「ツイてないな」

 澱のように溜まっている何かが、些細なお天道様の気分次第で、一気に噴き出してきてしまう。強烈で、苛烈で、鋭く研ぎ澄まされ過ぎたポセイドンの鉾。収めどころがわからないから、どんどんと濁って時化ていく。ツイてない時は、いつもこうだ。

「大丈夫か?」

「何がですか?」

「寒くないかって事だよ」

「あ……はい。大丈夫です」

慰められたフリをする哀しさを、誰が知っている。

いいや、誰でも知っているか。

こんな時に、三文の価値も無いような言葉しか出てこない癖に、感受性だけは馬鹿に研ぎ澄まされて、生傷ばかり増えていく。もう少し馬鹿になれたらと、何度か願って馬鹿になる努力すらできずに。

 あまりの音に、家々の窓が薄く開き始めた。外の様子を確認して、すぐに首をひっこめる。モグラ叩きのよう。

「自分の心と世間が、乖離する時ほど、辛い時はないよな」

「え?」

「いや、何となく、そう思っただけ」

 あんたはどう思う? こんな雨の日に、と、男は謎かけのように問いかける。悲しみや憂いを抱えているようで、穏やかに凪いでもいるような声に、深く潜っていた意識が、不意にこの場に引き上げられる。深い深い水底から、さらってきた答えと一緒に。

「今幸せな人間は、それだけで、苦しんでいる人間に接する権利なんてないと思う」

「おいおい、随分な暴論だな」

「わかってるよ」

「それでも、否定はしない」

「そうですか」

こちらからしてみれば身を刻まれる思いでも、他にとっちゃ大したことはない。その逆もしかり。だから、人の心に期待するなんて、間違っている。

「なんでなんだろう」

「うん」

「なんでなんだろうなぁ……」

 なんで自分に生まれてしまったんだろう。結局他人に生まれたとしても、同じことを考えてしまうのだろうけど。全く不毛だし病的だし、こんな事言われたら困るだけだろうってのはわかっているのだけど。

「なんでなんだろう……それでも誰かに言いたくなる時がある」

「そうか」

「時々だけどね。もう、何が苦しいのかもわかんないんですけど」

 言った所で、結局わかりゃしないのに。言葉にすれば安っぽくありきたりで、結局甘えたいだけじゃないかと思うだけなのに。

「所詮陳腐な事柄なら、私が苦しむ事に何の意味があるんだか」

 地面からの跳ね返りが、ほんの少し弱まった。微かに、生ぬるい風が吹く。その人肌にも似た温度に、ふっと我に返る。何言ってるんだろう、私。

「……なんか、すみません…」

「いいや。かまわんさ」

「いや、でもその……」

 水を向けたのは俺だし、と、男は立ち上がる。遮断機の音が鳴っている。ごとごとと言う、地響きが近づく。

「本気で生きてんだな、あんたも」

「え?」

「苦しいって事は、そういう事だと思うんだ。俺はな」

 ぽんぽんと掌で、子供みたいに頭を叩かれた。体温すら伝わらないくらい、ほんの一瞬だけだけど。

 空から、光のカーテン。アスファルトに落ちる光の点々。急激に遠ざかっていく水の音。黙り込んでしまった私に、おいおいと困ったように声をかけて、その人はもう暫く、雨宿りをしてくれるようだった。

「……ずるいです」

「ん?」

「私ばっかり話して」

「そりゃこっちの台詞だよ」

「こっちの台詞です」

「……そうだな、じゃあ今度は、こっちの話でも聞いて貰おうかね」

泣き濡れた地面に、もう激しい流れはない。ツンと鼻をつく土の匂いの隙間から、小さな花が顔を出している。

蒸した空気が辺りを包んで、微かに残った晩夏の熱が、主役のような顔をしていた。


『筆錦 ~たなごころ~』 了


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