露の屋
小高い海岸線沿いの丘、浜の近くにその家はある。
異国の家壁を思い起こさせる、くすんだ白い煉瓦造り。
時代を錯綜したかのような、セピアがかった色のガス燈。
人はこの小さな海辺の塔に
過去を求めてやって来る。
露の屋
ふっと、磯の香りが止んだ。海から直に運ばれてくるかのようなべたついた風が、不意にからりと乾いた冷風になる、風の潮目。
小さく嘆息にも似た息をついて、叶は呟く。
「いつ見ても、珍妙な感じがするのは俺だけかね」
時が逆行したかのようなガス灯の微かな音と、揺らめく影。目前にあるのは、白い石造りの家。元々灯台として使われていた塔を改修したらしく、家としては少々風変わりな雰囲気を纏っている。
燻されたかのように、煉瓦は黒に茶に所々変色し、よりこの場を現世から隔離しているような印象を与える。地面を踏む足音と、微かに聞こえる波の音。それすら何か薄い膜で遮られているような、閑けさ。
塔の足元までやって来ると、叶は戸を軽く叩く。海辺に似つかわしくないほど良く乾いたその木は、やたら澄んだ響く音で鳴った。ほどなくして、家の主が顔を出す。
「や、叶。お前が時間通りにつくなんて、珍しいね」
「時間通り?」
「ほら、送ってくれただろ。あと二か月くらいで行くって。丁度今日が、着いてから二月なんだ」
「相も変わらず、よく覚えてるもんだな、文」
「まぁね。もう日が落ちる。入りなよ」
「ああ」
文と呼ばれた男は戸を大きく開け、叶の歩みを促した。叶が小さく頷くと、戸は閉めておいてくれと言わんばかりに外套を翻し、家の中へと消えていく。微かな足音が、石壁に反響して鼓膜を打つ。
叶にとっても既にこの塔は勝手知ったる場所である。慣れた手つきで閂をはめ、やたらと重厚で大きな錠前を固く閉じる。靴を脱いで短い廊下に上がると、足先から石独特の冷たさと滑らかさが伝わる。
玄関口からの廊下を進んで行くと、開けた部屋に出る。簡素な家財道具が一式と、本棚。どこかに茶色か黒が混ぜ込まれているかのような古めかしい色調は、この家主の男の趣味だ。
「いつも通り、客間を整えてあるから」
「わかった」
文は一足先に椅子に腰かけ、もう一脚を叶に進める。叶がそれに従って腰を落ち着けると、彼は外套の中から僅かに皺の寄った紙を取り出した。連なるように筆で書かれた字が、薄紙から透けて見える。
「用件は大体文で知っているけれど、思い出したいことが二、三あるんだって?」
「どうも、次の仕事と関係がありそうなんでな。まぁ、少しでも、謎解きの援けになれば……って、感じなんだが」
ばさり、と、叶は紙の束を机に投げ出した。また何か、どこぞの不思議な伝承を調べに行くのだろうと、文はぼうと思った。
叶は、全国に散らばる民間伝承や都市伝説と言われるものを、記録することを生業としている。記録ついでに旅の道すがら、琵琶法師よろしく物語りをすることもある。
彼曰く、文字に残しておかないと、その物自体の存在が消えてしまうのだそうだ。人が、誰かの生きた記憶を残しておきたいのと同じ。何かの形で残して伝えてはじめて、過去のものは現在に存在できるのだという。
「いつ頃の記憶かは覚えてないのか?」
「それがわかってるなら、思い出せそうな気が」
「それもそうか。そうだな」
「いつもの通りだ。頭の中に字消しがあるように、ふっつりと記憶が途切れてる所があって、それが、随分と肝要な部分らしい」
人間は通常、一度記憶した事柄は一生忘れないものだ。忘れたように思うのは、実は思い出せないだけであり、記憶はいつまでも残っている。
しかし、叶の場合はそうではない。
何とも皮肉な話だが、彼の記憶の容量は限られていて、日々上書きが繰り返されている。先ほどの文脈に沿って言えば、思い出せなくなるのではなく、記憶そのものが消え落ちてしまうのだ。丁度波打ち際の足跡の様に、あるところで忽然と、脈絡なく姿を消してしまう。
それを良く知る文はゆるゆると頷いて、あいわかった。調べてみよう。とだけ言って席を立ち、古めかしい金具のついた木箱を持つと、奥の部屋へと向かった。
間もなく彼は、先ほどの木箱に沢山の小瓶を抱えて戻って来る。硝子同士が触れ合う、危うくか細く澄んだ音色は、机の上ですぐ止んだ。
「また、数日はここに居られるんだろ?」
木箱の中の小瓶を光に翳しながら、文が問いかける。
「次の予定がある。居られて五日かな」
「記憶を探すには三日もかからないだろうし、ま、見つかったら後は休暇がてら、ここで休んでいくといい」
「ありがとうと言いたいとこだが、俺はここで休ませてもらった記憶がないんだがね。結局何かしら物語りをしているような気がする」
「それはそうさ。旧友同士の折角の再会なんだから。旅の話の一つや二つ、聞かせて貰ったって罰は当たらないだろう」
「どうせ瓶で保存すんだから、後で読め」
「ははは、いいだろ叶。お前の琵琶だって聞きたいんだよ」
口調とは裏腹に薄く笑みすら浮かべる叶に文は、彼にしては豪快に笑った。そして同じような空の箱をどこからか探し出してきて、瓶の箱の横に置く。
「その前に、今の時点で、忘れたら困るって記憶はあるのかい?」
「そうだな、まぁ、それなりに。住人から託された記憶もある。小さな漁村でな。綺麗な所だったよ」
「その話、記憶を読むよりずっと面白そうだな」
よいしょと年寄りじみた声を上げて、再度椅子に腰かけた文に、叶は少しだけ何か考えるような素振りをしてから、三白眼で問いかけた。
「そんなに、俺の記憶は退屈かね」
「はは、バレた?」
「そもそも隠す気がないだろうに。まさかとは思うが、暇つぶしに記憶を覗いて、とっくに見飽きてるなんて事はないだろうな」
「まさか。ただね、ここにある瓶は書物と同じだからな。一度記録したものは、何があっても同じ。「変わらない」という事実に、寂しさを覚える時もある」
呆れ顔から少しだけ真顔に戻った叶に、文は悪戯っぽく笑って続けた。
「まあなぁ、お前の記憶は結構読んでるからなぁ、探し物で」
「それはどうも」
旅に出て始終流れている叶としては、一つ所に留まって、固定された何かと向き合う文の心中は、心の底からはわからない。それはきっとその逆もしかりだろう。
「それじゃ、聞かせて貰おうかな。お前が忘れたくない事を」
「全く。どっちが本題なのか、わからなくなってくる」
「音楽付きだとなお良し。なんてな」
「お前な……」
露の屋。海辺に立つこの奇妙な家を、地元の人々はこう呼ぶ。初めてここに来た者は、その異様な情景に目を疑うかもしれない。
壁という壁が本棚、という古い洋館を見たことがある人間はいるかもしれないが、壁という壁が棚で、その引き出しの中に硝子の小瓶が所狭しと並べられている家を見たことのある人間は、そうそういないだろう。
この塔の内部に保存されている、何百何千もの小瓶には、それぞれ人の記憶が眠っている。それは誰かの記憶の備忘録であったり、誰かの記憶を封じたものであったり。正負様々な感情と、善悪様々な経験と、幸不幸様々な情景が、瓶の中の水に記録されている。
文曰く、硝子瓶の中で揺れる水は、一つとして同じ色はないのだそうだ。恐らくそれは、記憶の持ち主の個性や遺伝子のようなものなのだろうと叶は思っている。
「お前の記憶は、綺麗な墨色だな。黒の中に紫を混ぜ込んだような、そんな色だ」
「一目でわかるもんなのか」
「ん? あぁ。常連さんはね」
「大したもんだな」
「商人が客の顔を覚えるのに似ているよ」
一通り話を聞き終わった文は、空の硝子瓶の蓋を開ける。瓶の口へ軽く握った右手を指し出すと、握った手の中から、墨色の雫が落ちて来た。雫が硝子に当たる度、微かに木琴を叩くような音がする。
「不思議なもんで、例え俺でも、覚えていようと思い返し続ければ、覚えていられるんだよな。そいでも、覚えていなければと思い続けるのは、中々に重荷でもある」
結局弾くことになった琵琶の、独特の揺らめきを放つ音を操りつつ、叶はふと顔を上げて笑った。瓶に視線を注いだままで、文も指が震えない程度に微笑む。
「そうだな。だからそのために、俺やお前がいるんだろうね。いや、きっとそのために、言葉や文字というものが生まれたんだろうさ」
「お互い、中々に因果な事だよな」
「そうかもしれないね。しかし、また腕上げたな、琵琶」
「どうも。いい加減完成したいもんなんだがね」
「ダメダメ、芸の道に完成なんてものはないよ」
そもそも芸人じゃない、と、叶は軽口を叩いて目線を手元に落とす。僅かな揺らぎが、驚くほど凛とした音色になって耳を打つ。
心地良い音色と共に、海辺の夜は更けた。
翌日、叶が目を覚ます頃には文は既に起きていて、どこかへ出かけたようだった。まだ覚め切らない頭を振りつつ、起きあがる。朝の日差しが、ほんの少しだけ埃を被った窓枠に注いでいる。微かに、古い書物の匂いがしたような気がした。
「やあ、よく眠れたか?」
「おかげさまで」
「それは良かった」
叶が部屋から出て居間に向かうと、丁度玄関から戻った文と鉢合わせた。朝の散歩が習慣でねと若年寄を気取る文に、叶は思い出したように声をかける。
「折角来たんだ。記録せにゃならん記憶があったら、書物に起こすよ」
「ありがとう。そうだな、今はそんなにない。二本ほどだから、旅の話を聞いた後にでも話すよ」
良く、ここに足を踏み入れる人間は、永遠という言葉を口にする。ここは記憶を記録しておける場所。記憶の図書館のように思うのも、無理はないかもしれない。しかし実際の所、記憶は持ち主の死と共に姿を消し、文の力を持ってですら、再生は不可能になる。
ここに永遠などと言うものはない。ただほんの少しだけ、時が止まったかのように感じるだけなのだ。
その「ほんの少しだけ時が止まったかのような」間に、夢の内容を文から聞いて、文章に起こす。このような仕事を叶は幾度となく依頼されてきた。教訓、信条、知恵。それらのものの寿命をほんの少しだけ延ばして、もしかすると受け継ぐかもしれない誰かを待つ。仕事自体は、それだけの事で、結局そこに永遠が、それどころか意味があるかすら、叶にも文にも変わらない。
しかし数珠玉を繋ぐように、または襷を繋ぐように行われるこの仕事は、いつしか挨拶代わりのような、または互いの信条を確認し合うような、そんな作業ともなっていた。
「ま、好きにしとけ。どっちも仕事みたいなもんだしな」
「気安さが違うだろ気安さが」
静かに笑ったあと、文は少しすまなそうな様子で今日の予定を告げて来た。どうも朝食の後来客があるらしく、その時間は外に出ていて欲しいらしい。
訪問者がいる時、文はいつも来客と自分の二人きりであろうとする。それはきっと、文の一つの矜持なのだろうと叶は思っている。彼が記憶を記録する場は、依頼者と文だけの、閉鎖的な世界の中でなければならない。このような信条が彼にはある。
後々文章にせねばならないのなら、記録者を同席させて、その場で写させれば良いのだ。しかし、文はそれを良しとしない。記録すべき記憶は幸せなものばかりではない。寧ろ、辛く痛々しいものの方が多いだろう。あるいは、文自身の善悪の基準に、適わないものもあるかもしれない。それでも文は、必ず依頼者と記録者の間に入る。語る文自身にかかる負担も相当なものであろうに、決して譲りはしないのだ。
それは、客人の負担を減らすと言う事よりもむしろ、「記憶」と言うモノ自体が、他の何かに汚されたり、傷つけられたりすることの無いように行われているようだった。まるで、自分が限りなく透明な、音盤にでもなろうとしているかのように。そのように思えば、記憶を閉じ込めたあの華奢な小瓶は、他ならぬ文自身なのかもしれなかった。
「ぶらついてるから、終わったら呼んでくれ」
「ありがとう。いつもすまないな」
「お互い様だ」
叶はからりとした表情で数回頷き、その場を去った。
高台から少し下りると、すぐに磯の香りが漂ってくる。冬の海は暗く濁って、晴れた空の光も、海面近くで途切れてしまう。そのせいか、いつも荒れているような印象を受ける。寄せる漣の音は、氷の飛沫でも運んできているかのようだ。
しかしこの波もいずれ、春になれば柔らかさを増し、夏になれば人々を柔らかく包むのだろう。そしてまた秋には人間に別れを告げ、冬になれば陸の生き物の立ち入りを拒むように、厳しい顔を覗かせる。それは恐らく、想像が出来ないほどの昔からずっと繰り返されていたことで、終わりがいずれ訪れるにせよ訪れないにせよ、ヒトにとっては永遠に近いものでもあるだろう。
ここに居を構えて記憶を収集するあの男は、どのような思いでこの海を見ているのだろうかと、不意に叶は考えた。あるいは、既にその「思い」は油絵の下地の様に、日常の奥深くに溶け込んでいるのだろうか。
生きている人間が真っ先に忘れるものはそのとき思った事、感情だ。思いや感情、その次に音や気配、そして雰囲気と風景。何かが終わった時、何かを無くした時、人が悲しむのはその、「失う」という事実を、段階を踏みながら幾度も経験するからだ。思い出は体験を写し取っているようで、物語と現実の世界の間にあるような、空しくも見える薄い膜に隔てられている。だからこそ露の屋に来る人々は、どこかで永遠を願っている。
だが同時に、風化するからこそ人は生きていける。だからこそ人は、年月を重ねるほど、穏やかでいられる。記憶が朧になっていくからこそ、今、ここに無いものの「存在」が、深く刻まれていく。これもまた事実なのである。
「おーい、終わったよ」
ぼうと水平線を眺めていると、文が探しにやって来た。大股な、砂浜を歩きなれた長靴の音を合図に、叶はゆるりと立ち上がった。
その夜、身体が冷えたのか、明け方にもまだ遠い時間に、叶は目を覚ました。
「茶でも貰うか」
誰にともなく呟いて、台所を借りようと表へ出る。
窓外の空を仰げば、冴えるように晴れた月夜だった。円にほど近い月と、氷の結晶の様な星が、凍てついた硝子の空に散らばっている。道理で冷えるわけだと呟いて、廊下を進む。
保管庫の前で、叶は歩を止める。扉の隙間から人の気配を感じたのだ。文が起きているのかと、一声かけるため戸を開ける。
そこには、当然ながら夥しい数の小瓶が保存されていた。静まり返った空間の中に文の姿はなく、代わりに棚の一角が、微かな光を放っている。不審に思い引き出しを開けると、瑠璃色の液体の入った小瓶の群が現れた。どの瓶も若い星の様に揺らめく青い光を宿し、湖が凍る時にも似た、固い音を発している。
「何だ、叶も起きてたのか」
開け放しだった保管庫の扉の向こうから、今度こそ家主が姿を現した。光に驚く素振りもなく僅かに目を伏せ、引き出しのラベルを確認してひとりごちる。
「随分と、急だな」
間もなく、瓶の表面に次々と、亀裂が入り始めた。それを労わるように見守っていた文は、うち一本を取り出して、手の平に上に乗せる。そのほんの僅かな衝撃で、硝子の罅は深部まで達した。
「おい……」
「いいんだよ。これで」
凪いだ海のような落ち着いた声で、文は叶を制した。それで何かを察したのか、彼もそっと目を細めた。
「ひょっとして、起きてたのかい? お前も」
「いや。不意に目が覚めた」
「そうか。お前、中々聡いからな。ひょっとしたら虫の知らせがあったのかもね」
保存されていたはずの液体は小さな燈火になって、瓶の隙間から浮かび上がる。硝子の崩壊が進むにつれてその数は増え、いつしか蛍の住む沢の如く、部屋は青い光で彩られる。
光は、色の印象とは裏腹に、底冷えのする夜の闇を溶かすかのような、温かさを持っていた。
「見るのは初めてだ」
「そうだったかな」
「ああ。流石に忘れやしないさ」
「そうだな」
粉々になった硝子瓶は氷のように溶け、暫く留まっていた光も蒸発するように、あるいは天に昇るかのように、次第に数を減らして消えて行った。時間にして、恐らく十分も無かっただろう。
がらんどうになった引き出しを閉めると、軽い乾いた音が鳴った。取っ手に手をかけたまま、文はそっと呟く。
「もし、人に魂があるとするならば、それは、もしかしたらその人の、記憶なのかもしれない。だとするならば俺はと、こんな時は思わず考えてしまうよな」
長い指でラベルをなぞり、息をつく。
「与えられている内は、無理に消すこともないさ」
「そうか」
廊下には先ほど見上げた窓。良く晴れた夜空が広がっている。
「随分今日は、美事な空だな」
「うん。……そうだな、お前の琵琶が聞きたい」
保管庫の扉が、重い音を立てて閉まる。叶の後に続いて、文も廊下に現れる。
「と、言っても。昨晩聞いたばかりだったな」
言葉を咀嚼するような間の後、文は小さく苦笑した。
「いいぜ」
視線を窓外に向けたまま、叶は快く響くような声。静かに笑う。
「お前の前で弾くのは、一日ぶりだからな」
「ありがとう」
小高い海岸線沿いの丘、浜の近くにその家はある。
壁を埋める永遠はまやかし。
されどどれも綺麗な色。
そしてどれも、あたたかな光。
『筆錦 ~露の屋~』 了