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筆錦  作者: 河波 悠
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真珠の碗

 ある民間伝承によると、その小さな岩礁と澄んだ海水からなる湾には、数え切れぬほどの美しい真珠が、静かに海中に眠っている。彼らはその昔海で死んだ者の魂を、己の内に宿して光を放ったと言う。


 国鉄の線路を、雑木林が取り囲んでいる。半分、開く限界まで上げた硝子窓の向こうでは、微かに漂う潮の匂いが、湿気た風を碧く染めていた。

 目的地は次駅。濁声が告げた。顔に当たる髪の毛を、鬱陶しく払いのけながら半身を乗り出す。町の周りの景観が見て取れるほど、近くまで来ていた。山地から急落する海岸線にはわずかばかりの平地があり、砂浜と、少しの畑の後ろに横たわるのは、深い色を湛えた山である。

 駅には駅員が一人しかいなかった。時代を数十年遡ったような感覚を覚える。

「すみませんが。」

「おや、観光客の方ですか?」

「ええ、まぁ。今、民間伝承について、少し調査をしていまして。」

「これは珍しい。民俗学という奴ですか。」

「そのようなものですかね。資料を探したいので、図書館の場所を教えていただけませんか?」

「いいですよ、地図を描いて差し上げましょう。」

「助かります。」

 気の良い駅長が地図を描いてくれている間に、肩に担いだ鞄から今回のお題をまさぐり出す。ザラ紙に印刷された原本の写しは、底の方でくしゃくしゃになって丸まっていた。げ、と静かに慌ててから、丁寧に皺を伸ばす。

「で、何を調べるんです? 先生。」

「え? あぁ、ここらの古い言い伝えを少々。これなんです。」

 本当のところ、先生でも何でもないのだが、訂正は止めておく。皺だらけになったザラ紙を差し出すと、駅長は興味深げにしげしげ眺めて、ふと顔を上げた。

「これはまた、随分古い話ですな。」

「そんなに?」

「私の世代でも、もう知っている人間は半分くらいかもしれません。昔は、皆親から聞かされていたみたいですがね。」

「そうですか。参ったな。」

「ははは、頑張ってください。」

 笑顔に見送られながら図書館へ向かう。今日の宿も探す必要があるので、そうそう長居はできないだろう。


「あ、これだこれ。」

 目当ての本はどうやら書庫に保管されているらしい。周辺資料と合わせて出して来て貰えれば、調査の地盤は固まりそうだ。

「すいませーん。ここらの民間伝承について調べているんですが、関連資料を一通りお出し願えませんか?」

「民間伝承?」

「はい、研究で使うんです。」

「あら、困ったわ。今さっき学生さんが持って行ったばっかりなのよ。」

「全部ですか?」

 まさかと思い苦笑すると、司書は奥の机を指差した。うず高く詰まれた本の山と格闘している女子大生らしき人影。今日一日は占領する気満々らしく、隣の机の椅子にまで荷物が溢れかえっている。

「勉強熱心よねぇ、今時珍しいわ。そういうあんたは大学の先生?」

「いや、助手って言うのが一番近いです。」

「そうか、まだ若いもんね。あんな学生がいることは嬉しいだろ?」

「なかなか珍しいと思います。」

 この分だと今日は、読む事はおろか手にする事すらできずに終わってしまいそうだ。

「仕方ない、じゃあまた明日にでも来ます。」

「災難だったね。」

「ま、こんな時もありますよ。急ぐ旅じゃなし、今日はこの辺りでも見て回ります。」

 のんびりしてるねと司書は笑った。

「それなら網本さんの家に行くといい。今となっちゃ珍しい、古いお屋敷だよ。」

 

 図書館を出てぶらぶら市中を見て回った。郵便局、役所、地銀、高校、地域一帯で世界が完結している。

 図書館の高台とは別の丘に出ると、小さな寺まであった。鐘は幾分曇っており、柱は所々ささくれ立っている。木で出来た外壁はくぐもった、茶を孕んだ独特の黒で、目を射るような春の日差しを、落ち着いた光で返していた。

 境内は広い。砂利が敷き詰められて、進むと足元が滑っていく。当然あると思っていたものは、ここには無かった。

「古い墓がない。全部比較的新しいな。」

 埃と雨を大いに吸い込んだ木目に手をやって、町全体を見渡す。それらしき敷地は何処にも見当たらない。

 引き続き視線を流していくと、大きなお屋敷が目に入った。先程図書館で聞いた家だろう。ここからそう距離は遠くない。ほんのり暖かい陽だまりから、名残惜しいが身体を離して、向かってみる事にした。


「確かに、これは随分立派だな。」

 そこにあったのは、映画の撮影にでも使われそうな平屋敷だった。離れと倉もあるようで、家の裏手には松林。

「でも、何か出そう。狐とか。」

「何も出ませんよ。」

 後ろから高い声がして、驚いて振り向く。見覚えのある顔がそこにあった。

「あれ? さっき、図書館で本漁ってた人。」

「漁っ……ま、まぁそうですけど。」

 拍子抜けしたように彼女は大きな目を更に大きくして答えた。年のころはまだ二十を過ぎるか過ぎないかと言ったくらい。高校生といっても通るだろう。身長は高いほうだが、目のせいで童顔に見える。ポニーテールに薄いカーディガン、ジーンズと言ったラフな格好だ。

「参ったな、こんなに早く止めるなら、図書館で待ってれば良かった。」

「さ、さっきから何?」

「あぁ、すまない。知り合いの教授に頼まれて伝承の調べものをしてるんだ。で、図書館の文献を見せて貰おうとしたらそちらさんが占領してたってわけ。」

「あ、なるほど。お兄さんミンゾクガクってやつの研究者?」

「あぁ、まぁ。」

「ここらの伝承って言ったら、「真珠の湾」ですよね。死者の魂が宿った真珠の伝説。えーっと、大変言いにくいんですけど、あらかた借りてきちゃいました。」

 言って、彼女は考え込む素振りを見せる。そういえば、引き摺っているキャリーケースは妙に膨れている。

「気にしないでくれ。勉強の邪魔は出来ないから。しばらく待つことにす……」

「いや、一緒に調べればいいですよ。使える頭が二倍になるでしょ?」

「へ?」

「あたし、阿古屋奈々って言います。じゃそゆコトで。宜しくお願いしま―す!」


 家の中もこれまた広い広い。今時珍しい縁側まである。吹きぬけた廊下は心地よかったが、板張りの床は磨き上げられていて、靴下で踏むと滑りそうになる。

「手入れが行き届いてるんだねー。転びそう。」

「母さんとばあちゃんが綺麗好きでして。気をつけてください、一昨日兄貴が滑って転んで、頭にたんこぶ作ったばっかだから。」

「そりゃ大変。でも、いい家だな。」

 仄かに木材の香りがする。一昔前に戻った気分だ。

「昔はね、網元の家って言うともっと賑やかだったらしいけど、あたし位の世代になるとそんな影響力とかもうどうでもいいし、第一漁師になる人間自体が減ってるから、じいちゃんなんかは寂しがってますよ。」

「確かに、そうかもしれない。最近はその手の、古い慣習みたいなもんから離れる人間が多くなりすぎてるよ。変化はいいけど、急すぎると。」

「あはは! 叶さんってばまだ若いのに、随分古臭い事言うんですね。是非是非じいちゃんに会ってやってくださいよ。話の出来る若もんが来たって喜びますよ。」

「そりゃどうも。ここで漁業の他に有名なのは、養殖だったね。」

「真珠のね。だから、本当に天然真珠の湾があっても、おかしくないと思いますよ。」

「そうかも。御伽噺みたいだ。」

「面白いでしょ? 今の夢のない世の中、こう言うのは必要だと思うんですよね。大抵は、馬鹿馬鹿しいって笑われるんですけど。」

 肩を落としながら彼女は障子を開ける。ここがどうやら客間らしい。日本家屋の厳かな雰囲気が感じ取れる。畳は張り替えたばかりらしく、藺草の快い薫りがした。

「で、どう思います? お詳しいんですよね。」

「伝説の事?」

 腰掛けると途端に話題が飛び出す。切り替えの早さが彼女の取り柄の一つなのかもしれない。

「あれは見た所、水葬から来てるんじゃないかな。」

「えっ?」

「水葬、知ってる?」

「あ、はい。インドの四葬の内の一つですよね。死体を水に沈めて葬るってやつ。」

「うん。で、日本の水葬には、もうちょっと違う意味合いが含まれる事が多いんだよ。特に、ここみたいな漁師町ではさ。」

「海の向こうの極楽に向かいやすくしたんでしょ? それくらいは知ってます。」

「流石。そう、日本人には常世信仰ってのがある。海の向こうの見知らぬ土地に、死者の国、理想郷って言ったほうがいいな、があるってイメージが強いんだ。ここは島国だから、漁業が盛んになるだろ? 必然的に海から上がらない死者が多くなる。昔の人は、そんな人々を、転生したと思ったのかな。」

 脚を組み替えながら一通り説明を終えると、彼女はうんうんと頷きながら、それにしても驚きましたと口にした。

「叶さん、何にも調べて来てないんですよね。何で、昔水葬してたって分かるんですか?」

 ずいと身を乗り出して興味津々といった具合だ。

「さっき町を見て回ったんだけど、何処にも古いお墓がなかったんだよ。こう言う所って大抵、先祖の墓を大事にしてる人が多いから、不思議に思ったんだ。」

「へー、確かにここは昔水葬でしたよ。でもそれだけで予想付いちゃうなんて、凄いですね。」

「いや、後でちゃんと資料は読ませてもらうけどさ。でも、真珠は岩礁に出来るから、もしそんなものがあったなら彼らは、死者の魂が形を変えて戻ってきたと思ったのかもしれないね。」

「なるほど~。じゃあ、真珠の湾は本当にあるかも!」

「火の無い所に煙は立たないと言うし、可能性はあるけど、ここらで話題になってないところを見ると、誰も見たことのある人はなさそうだ。」

 目を輝かせる彼女を窘めるように一言添えたとき、不意に客間の障子が開いた。

「奈々~、こんなトコにいたんか。ありゃ? この人は?」

「うわ! 兄貴いきなり入ってこないでよ、失礼でしょ! お客さん。」

「あ、悪い悪い。」

 会話から察するに、彼が奈々の兄で、恐らく廊下で滑って転んだ人間であろう。妹に比べて、かなり飄々としている印象だ。

「研究で、調査に来てる人。叶さんって言うの。調べ物手伝ってくれる事になったんだ。」

「え? 御伽噺に他人を巻き込むなよ奈々! いや、妹が無茶を言いまして、すいません。」

「いえ、無茶を言ったのはこっちなんです。丁度同じ伝説について調べてまして。」

 きょとんとした顔をすると、奈々と面影が重なる。何処となく食えない雰囲気を醸し出しながら、彼は笑った。

「そうなんですか? ようこそ先生、見た目は堅苦しい家ですけど、ゆっくりして行ってください。」

「お邪魔します。」


 阿古屋家のご好意で調査の間家に置いて貰える事になったのは、本当に助かった。

 夕食には家にいる家族全員が揃ったので、他の住人が全てわかった。奈々の両親と祖父母、そして兄と妹。祖父と父は漁師で、よく海に焼けている。跡継ぎが少なくなって寂しいもんだと父親は笑いかけてきたが、地元の若者の指導は楽しいそうだ。

「何なら叶さん、あんたも船に乗ってみるかい? うちの船にゃ若いのも乗るから窮屈かもしれんが、仲間に話つけてやるよ。」

「え? よろしいんですか? 何も出来ませんよ。」

「民俗学やってんなら、今の人間も見なきゃならんだろ。」

「ごもっともです。実は、ちょっと気になることがあって。よろしければ昔の事も、詳しい方にお話を聞きたいですね。」

「それならばあちゃんに聞くといいですよ。俺達もよく聞かされましたから。」

 長兄が面白そうに提案してきた。夕食の後で話を振ってみると、お婆さんは快く応じてくれた。夕食の片づけが終わったら、一度居間に来てくれとの話。それまでは、離れで本を読む事にしようか。

 漁師舟に乗せて貰うと、また見る海の印象が随分と違う。一見静かに見える波は、実際に乗ってみると案外荒っぽい。青い姿の海は、船の中から見ると仄暗くしか見えない。あまり色が感じられない。慣れていないからだろうか。ふとした拍子にモノクロに見えるのは、確か視覚の性質が原因であったはずだ。

 夕方、港に帰ってくると、奈々が待っていた。

「ありがとうおじさん! 叶さん、お疲れ様~。」

「お世話になりました。」

「研究の役には立ちそうか? 兄ちゃん。」

「ええ。ありがとうございます。」

 彼に手を振って別れた後の質問は、お決まり定石通りだった。

「どうでした? 海は。」

「何と言うか……実際出てみると、違うな。あれが日常って、ちょっと想像できないや。」

「確かに、叶さんって海の男にはなれなそうですね。優男ってやつ?」

「そうからかうなよ……まぁ実際、若い人たちの何人かには女の人だって思われてたみたいだけど。放っといた。」

 雰囲気が中性的とはよく言われるので、大して気にはしなかったが。

「えー? なんで訂正しなかったんですか?」

「元々わかりにくい顔立ちなんだし、一々訂正してたら疲れる。」

「そんなもんですか。」

「ははっ、旅してるとそんなもんだよ。案外。」

「変な人だなぁ、叶さんって。」

 奈々もけらけらと笑っていたので、変人扱いは褒め言葉らしい。「さて、随分と興味深い事がわかった。この海岸線に、隠り江があるよ。」

「こもりえ?」

「岬や半島に隠れて、見えなくなってる入り江の事ね。伝説のことを彼らに聞いたら、海岸線を見る限り、真珠の養殖場以外には真珠の出来そうなところはない。それなら、誰も知らない入り江でもあるんじゃないかって。」

 真剣に打ち明けると、奈々は怪訝そうな眼差しで、大きく溜息をついた。

「人のこと散々笑っといて、そっちこそ、夢物語じゃないですか。研究者がそれでいいんですかぁ?」

「漁師さんに潮の流れの事を聞いたんだが、ここ近辺の流れが一度に集中する場所があることに気付いた。格好の漁場になっているらしいけど。これが、面白いんだ。」

「へ?」

「明日、ボートでも借りて調べようと思う。来る?」

「……マジですか?」

「うん。」

 しれっと頷くと、彼女のほうは拍子抜けしてしまったようだ。

 暫く呆けたように能面を貼り付けた後、奈々はわかったと首を振った。


 良く晴れた、海の凪いだ日。船で漕ぎまわるには絶好の日和であったのだが、朝聞かされた奈々の言葉は理解しがたいものだった。

「夕方?」

「はい。その方がロマンチックじゃないですか。」

「待て待て、宝探しするんじゃなかったのか?」

「もう予約しちゃいましたもん。諦めてください。」

 満面の笑みで拒否を許さない言い振り。食事を終えた奈々は、さっさと食器を重ねて台所へと消える。

 危ない目に遭いたくなかったら、夜の海には出ないのが一番だと思うのだが、ここは漁師町。日が昇る前から海に出ることもあるだろう彼らには、夜の海も日常風景なのかもしれない。

 釈然としない事はしないのだが、仕方が無いので黙って彼女に従うことにした。食事を終えて確認した懐中電灯の電池は、取りあえずは問題なかった。

 夕暮れの沖に目をやると、水平線近くの漁船の影は、限りなく赤い空の色に溶け込まされて殆ど見えない。ずっと見ていると、目の底がひりひり焼けてくる。暫くは、焦げ跡のように残像が残っていた。

 さあ行きましょうと、やたらと元気の良い奈々は、慣れた手つきでボートを引っ張って、オールを投げてよこす。

陸側から吹き付ける風は少し強めで、水面にちょっとしたうねりが生まれていたが、不思議な事に小船は、大した抵抗も無く滑らかに進んでいる。

「叶さん、何でそんな入り江があるってわかったんですか?」

 潮風に揺れた髪の毛を耳にかけようと努力しながら、興味津々と言った様子で奈々が身を乗り出してきた。

「ここで昔行われてたのは、単なる水葬じゃなかったんだ。」

「はい。」

「おばあさんから聞いたんだけど、古く、ここらの人達は、遺体を火葬にした後その灰を、海に向かって撒いていたらしいね。」

「散骨ですか。」

「真珠貝は、自分の中に取り込んだ異物を核として、真珠を作るという説がある。あり得ないことだろうが、この合致が面白くて。それだけ。」

「じゃあ、灰を核にして真珠が出来たかもって? ロマンチストだなー、叶さん。」

 適当すぎと言って奈々は笑った。その通りなので、何も言わない。

「さて、どの辺ですか? 暗くなりきったらわかりませんよ。」

「そうしたのは誰だよ全く。この辺りのはずなんだけど。」

 岸に出来るだけ船を近づけてみるが、ごつごつと岩礁が広がるだけで、何も無い。

 風が冷たくなってきた。頬が冷えて、乾いていくのを感じる。

 岩礁は次第に、後ろの森に輪郭を溶け込ませつつある。思うようにオールが動かせなくなって、漕ぎ手を交代した。冷えに誘われて広げてみた血の気の無い両の手は、藍色の景色の中で、発光しているかのように白く浮き出している。

 寒くないかと聞こうとして奈々を振り向いたが、身体を動かしていないはずの彼女は、相変わらず健康的に日焼けした元気の良い顔色をしている。身体の中から熱が溢れてくるような、生命力に溢れているような、そんな印象だ。

「叶さん、手、真っ白ですよ。私より厚着なのに寒がりなんですね。」

「トシだな。」

「また良い若いもんが、年寄りみたいな事言って。」

 その言葉をそっくりそのまま返したい。二十歳過ぎたらわかるよと苦笑いをすると、奈々がゆっくりと船を旋回させ、九十度ほど行ったところで一度止まった。何か見えた気がして、思わず声をあげた。

「どうしました?」

「あれ。」

 離れてしまえばただの海岸線にしか見えない。岩礁と背部から覆い被さった黒い影の下に、微かに見える小さな光。

「何か光ってる。不知火みたいだけど……いや、こんな所で出るわけないよな。」

「確かに。行ってみましょうか。」

 岩の奥に光る幾つもの火影は、形を留めず漂っているように見える。視線の先に背を向けていた奈々は一度振り向くと、船を手早く岸に寄せ、岩礁の小さな隙間から波の無い水面に入り込む。

とっぷりと水を湛えた入り江は、予想していたよりも少し大きかった。真っ平な水面のせいか、水が重く、金属質に感じる。

 船の縁から身を乗り出し、一帯を覆う漁火のような鏡像を観察する。不思議なもので、波の殺された水は鏡面のように滑らかなのに、明かりは揺れる水に映るようゆらゆらと、正体の無い様子で彷徨っていた。

 ふと、顔をあげると、櫂が置きっぱなしになっている。肝心の主の姿は、溶けたようになくなっていた。

「えっ?」

 名前を呼んでも返事が無い。近くを見回しても気配が無い。流石に焦って船の上で立ち、辺りの茂みを懐中電灯で照らそうとすると、途端に天地が勢い良く大回転した。ど派手な水飛沫が上がった……ことであろう。

「ちょっと! 危ない!」

 ひっくり返されたのだと気付いて、咳き込みながら船にしがみつく。からからとした小気味良い声を立てて、奈々が大いに笑っていた。こっちは軽装じゃないんだからと呟いて目線を声のほうに戻すと、今度こそ固まってしまった。

「おー、驚いてる! 叶さんでも驚く事があるんですね!」

 心底楽しそうにはしゃぐ人間と、驚愕のあまり何を言っていいのかわからない人間は、さぞ対照的だったことだろう。いや、奈々の事は人間ではなく、別の言い方で表したほうがいいのかもしれない。

「あんた、一体……何、だったんだ?」

 着物の少女は、何も言わずにっこり笑った。


 びしょ濡れになってしまった上着や髪を船の上で絞りながら、海の中の古風な少女と話をした。ふるふる首を緩く振ると、まだ潮を含んだ髪の毛がとげとげしく頬を叩く。

「ほらほらこれ。実は本当にあるんですよ? 真珠。」

 得意げに掌を開く。形は随分不揃いだが、独特の輝きは正しくそれそのものだ。

「うん。でも不思議。あんたら、『元』人間だったのか。」

「私、かれこれ百七十歳くらいですね。ずっと、ここで暮らしてるんです。」

「ここで?」

「ええ。ここらで死んだ人間は、大抵ここにやってきましたよ。海に生まれて海に死ぬって人間は、あり方が変わっても、やっぱり海から離れられないみたいなんです。落ち着くんですよね。」

 ふーっと彼女は息をついたが、悲しいというよりも、満足げな横顔だった。丁度、故郷自慢をしている人間を見ているような、そんな感じがした。

「この入り江に集まる理由が真珠にあるのかどうかは、私にもわかんないです。でもひょっとしたら、叶さんの言ったような事が、本当にあるのかも。何はともあれ、同郷であることには変わりないんだし。その、同じ海で育ってますから。」

「同胞みたいなもんだって?」

「そうそう。魚も今はお友達。」

 空には三日月が出ていたが、水面のどれが月の影なのかはわからない。賑やかな入り江の光は強く感じるのに、不思議と鼻に付くことはなかった。小船の起こす独特の波紋に触れれば、弾けるように大きくぶれ、流され、そのまま消えるものもあれば、他と一つになるものもあった。

「でも、外に漏れたら、面倒な事になるんじゃないか? どうしてこんな事を。」

「大丈夫ですよ、バレませんから。いつも通り普通に接して、いつも通り普通に帰せば、何も気付かずに帰ってくれますよ。叶さんも気付かなかったでしょう?」

「気付かされちゃったんだけど。」

「そりゃあ、教えても良いかなって思ったからですよ。」

「どうして?」

 奈々は、海の中で伸びをするように手を突き出した。僅かに俯いて、形容しがたい表情を浮かべる。

「誰かの記憶に残っていなければ、忘れられてしまうでしょ? そうなってしまったら、伝説だけが消えてしまったこの事実はどうなるんですか。語り手がいなくなれば、数十年後には私たちだって消えざるを得ません。」

 その昔、琴の琴は、その複雑な奏法を伝えられる人間が絶えたとき、また楽器そのものの命脈も絶たれてしまった。それに似た何かが、彼女たちにもあるのかもしれない。物語は、人に受け取られる事で息づいていくものだから。

「語られなくなるって事は、存在を完全に、忘れられてしまうって事。それは、消されることと同義なんです。叶さんだったら、わかったりする?」

「認知失くして存在なし、ってことかな。」

「ま、そういう感じかな。伝える人は選ぶんですけど。だから、最初に叶さんが調べてるって言ってきた時は驚きました。この人私の正体知ってるのかもって。話せば話すほど、何か普通の人間っぽくないんだもん。」

「まさか。でも、目星は付けてたのか。」

「はい。『今の』人間より勘は鋭いんです。」

「やれやれ、ものの見事に担がれたなぁ。」

「いやぁ、楽しかったです。」

 肩を竦めて沖を見やると、潮風が吹いてきた。海の水に触れた割には、今はそれほど寒くは無い。先程の寒さはひょっとすると、この世のものではなかったのかもしれない。

 奈々は軽い動作で船へと上がった。

「そろそろ帰りますか。無事真相まで辿り着いたんだから、家で宴会でもやりましょう。家族もきっと、待ってますよ。」

 翌朝、高台の駅から一帯を見渡してみた。果たして何処までがどちら側なのか、一向にわからないままだ。

帰りの電車が、木々のトンネルの向こうから車輪の音を響かせる。人のいい駅長が、にっこり笑って部屋から出てきた。

「もう発つんですか。」

「ええ。どうやら、役目は終わったみたいですし。あまり長居をするのも、似つかわしくありませんから。」

「また次の、お仕事ですかな。」

「忙しいのかそうでないのか、時々わかりませんよ。」

 ホームに吹いた風が、上着の裾を大きくなびかせる。

「ところで駅長さん、あなたは何者なんですか?」

 軽く投げた質問の答えは、当然のように軽やかだ。

「さあ。あまり大きな問題ではありませんから、気にしていませんよ。」

「そうですよね。」

 何というか、素直に笑えてしまった。

 電車に乗りこみ窓際の席に座った。ぼんやりと窓の外を眺める。窓枠が軋んで、身体が後ろに引っ張られる。駅の方はもう振り返らなかったが、青々と葉を付けた林の向こうの海は暫く視界について回って、日の光を閃かせ笑っていた。


 その民間伝承によると、その小さな岩礁と、澄んだ海水からなる湾には、数え切れぬほどの美しい真珠が、静かに海底に眠っている。夏深まる頃、彼らを寄り代に、町の先祖が降りてくるという。

                     

『筆錦 ~真珠の碗~』 了


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