第4夜 吟遊詩人
1
「それで、おやっさん。
この荷馬車が向かってるのは、なんて街だい?」
「なんじゃ、お前さん。
そんなことも知らずに乗ったのかい。
コンデ村じゃよ」
「え?
村なのかい。
まいったなあ。
それじゃあ、酒場とかはないんだろうねえ」
「いやいや、あるとも。
村といってもコンデ村には、ここら一帯の領主であられるアスタル男爵様のお城があるからのう。
この馬車に積んである芋も、お城に納めるために村役から注文されたもんなんじゃ。
人の行き来も多いからのう。
宿屋があって、その一階が酒場になっとるよ。
料理もうまいし、毎晩にぎやかにやっとる」
「へえ。
そいつはいいや。
おいら、人が集まる所が大好きなんだ。
おいらの歌とエピルタで、人が楽しんでくれるのを見るのが何より好きなんだよ」
「はっはっは。
お前さんが好きなのは、集まった人がその帽子に投げ入れるコインじゃろうて」
「そうじゃないよ。
そりゃ、お金も欲しいけどね。
生きてくためにはお金もいるから。
でもお金は最低限ありゃ、それでいいのさ。
おいらは人が喜ぶのを見るために、こうやって放浪してるのさ。
だってそうだろ。
お金が欲しいだけだったら、どっかの貴族様のお屋敷に雇われて歌えばいい。
おいらの歌を一度聞いたら、どんな貴族様だってもう一度聞きたいって言い出すんだから」
「はっはっは。
たいした自信じゃ。
まあ口が達者でなければ吟遊詩人なんぞやっていけはせんじゃろうがな」
「うーん。
信じてないね。
この荷馬車がこんなにがたがた揺れるんでなけりゃ、すぐにエピルタの包みをほどいて、おいらの声を聞かせてあげるところなんだけどなあ」
「はっはっはっはっは」
2
「それじゃあ、達者でのう」
「うん。
おやっさん。
ありがとうね。
こんなかんかん照りの太陽の下であのまま歩いてたら、おいら日干しになってたよ。
おやっさんに、おいらの歌を聞いてもらえなかったのは残念だけど、またいつかどこかでね」
「そうじゃな。
またいつかどこかでの」
酒場の前で荷馬車を降りた吟遊詩人は、店の中に入った。
そして夜になったら酒場で歌う許しをもらった。
銅貨を十枚払って部屋を取り、そこでひと休みした。
夜になって吟遊詩人が目を覚ましたときには、もう酒場には大勢の客がいた。
吟遊詩人はエピルタの包みをほどくと、それを持って階段を降りた。
酒場の隅に椅子を置き、足元には帽子をひっくり返しておくと、ぽろぽろと弦をつまびいて四本の弦の音の高さを合わせた。
突然。
エピルタから音楽があふれ出た。
天上から地に降りる虹のように。
雲の切れ間から指す一筋の陽光のように。
神々しくきらびやかな音楽が。
幾筋も幾筋もの音の糸が。
うねり絡み合いながら。
色彩豊かな奔流となって。
酒場の中に満ちあふれた。
ざわめきはやみ、人々は手を止めて吟遊詩人のほうを見た。
すうっと旋律が止まったとき、酒場は静寂で包まれていた。
吟遊詩人は、ぽろん、と和音を奏でた。
〈歌おう〉
〈歌おう〉
〈物語を歌おう〉
〈古い古い物語を歌おう〉
それはなんと透き通った声だろう。
人の、まして大人の男が出している声だとは、目の前で見ても信じられない。
のびやかで、艶やかで、光り輝くような声だ。
〈むかしむかし〉
〈マズゴーラの森に〉
〈一人の神が生まれた〉
〈神は西に向かって言った〉
〈人よ、生まれよ〉
〈そこで人が生まれた〉
〈神は次に東に向かって言った〉
〈獣よ、生まれよ〉
〈そこで獣が生まれた〉
〈神は次に南に向かって言った〉
〈魚よ、生まれよ〉
〈そこで魚が生まれた〉
〈神は次に北に向かって言った〉
〈鳥よ、生まれよ〉
〈そこで鳥が生まれた〉
創世神話の一節だ。
誰もが知る物語なのだが、細かなシチュエーションに独自のアレンジがなされている。
何よりその旋律の巧みなこと。
エピルタの伴奏と相まって、その物語はまったく新しい物語のように、人々の心に響いた。
3
吟遊詩人は、それから何曲も何曲も歌った。
神話の物語。
古の恋物語。
野卑であけすけな応答歌。
おちゃめで軽快な遊び歌。
勇壮で精悍な戦いの歌。
人々は聞き惚れ、手拍子を打ち、掛け合いに応じ、泣き、笑った。
吟遊詩人は疲れることを知らず美声を披露し続けた。
時折は、無言歌をつまびいてその演奏の妙を見せつけた。
若い吟遊詩人なのだが、古い歌を歌うそのさまは、まるで百年も積み上げた叡智を語り出しているかのような風格があった。
深夜になってみんなが満足するころ、その帽子にはたっぶりの銅貨と少しの銀貨が詰まっていた。
酒もずいぶん売れたから、店の亭主の機嫌もよい。
翌日昼前に吟遊詩人は起きてきた。
宿の亭主に、よその村に行く荷馬車がないかと聞いたところ、もう四、五日滞在して歌ってくれと頼まれた。
今はちょうど食料を納める時期なので、いろいろな村や町から人が集まるのだという。
だから昨夜と違う人も酒場に来る。
宿代は無料でよいという好条件だ。
昨夜の演奏から生まれたわきあいあいとした楽しい空気が忘れられないのでぜひ頼むと言われ、吟遊詩人はにっこり笑って快諾したのだった。
4
そんなことが三日続いた日の昼下がり。
城からの使いが来た。
吟遊詩人の評判を聞いた領主に遣わされたのだ。
一晩城で芸を披露してほしいという。
いやも応もなく、吟遊詩人は迎えの馬車に乗って城に行った。
エピルタ一本を携え、ちいさな袋を背負って。
城は村の中にあるわけではなく、山の中にある。
道中の森は豊かな恵みを抱えているのだが、なぜか陰鬱に沈んでいるようにみえた。
高くまっすぐ伸びた木々のあいだをくねくねと道が走る。
その道を上りきった所に、その城はあった。
こじんまりした城だが、ひどく古めかしく、豪奢な造りである。
門柱に刻まれたクレストは、神話の怪物の図柄だった。
吟遊詩人は通用口から入って大食堂に案内された。
その下座に小さなステージが設えられていた。
二テールのちにこの場所で夕食会が始まる。
夕食会が始まって一テールしたとき、吟遊詩人の演奏を開始するのだという。
演奏時間はきっちり一テール。
そこまでの指示を受けて、吟遊詩人は小間使いに引き渡された。
演奏開始までのあいだに食事や休憩を取るようにということだった。
小間使いに案内されて、吟遊詩人は使用人部屋で食事を取った。
それは使用人の食事とは思えない立派な料理で、たぶん特別にこしらえさせたものだ。
小間使いは、若くかわいらしい女の子だった。
名を訊いたところ、少し照れながら、
「リーナよ」
と教えてくれた。
リーナは付きっきりで吟遊詩人の面倒をみればよいということだったので、二人は楽しく話をした。
話し好きの吟遊詩人にとって、それこそが休憩だったといえる。
やがて演奏の時間が来た。
吟遊詩人は呼び出しを受け、頭を下げたまま大食堂に入った。
そしてステージの前から食卓に向かって深く礼をすると、椅子に浅く腰掛けて演奏を始めた。
一曲目は無言歌だ。
静かな曲調である。
いわば前奏曲代わりだ。
二曲目は神話の物語。
三曲目は美姫の悲恋の物語。
曲数を重ねるごとに、声は厚みを増しエピルタの響きは豊かさを増した。
演奏しながら吟遊詩人は食卓についた人々を見た。
正面の上座に座っているのがヴァルダス領主アスタル男爵だろう。
やせぎすだが骨格はしっかりしており、非常な長身だ。
顔色は青白く、半分眠ったような目をしている。
椅子に座ったまま身じろぎもせず、ぼうっと前方を見ている。
まるで人形のようだ。
きっかり一テールで演奏は終わった。
椅子から降りて礼をすると、ぱらぱらと拍手が起きた。
物足りない思いを抱きながら控室に下がった。
侍従がやって来て、報酬を渡した。
なんと、金貨一枚である。
大きな街の酒場で一週間続けざまに満員の客をわかせたとして、帽子に投げ込まれた金を全部足して、それでも金貨一枚にはならないだろう。
破格の報酬である。
「殿様はお前の演奏をお気に召した。
明日も聞きたい、とのことだ。
不都合はないな」
正直、こんな受けの悪い客の前での演奏は嫌だった。
だが嫌と言える空気ではない。
「ははーっ。
謹んでお受けいたしますです」
吟遊詩人としては、こう答えるほかなかったのである。
5
城での滞在は、一日延び、二日延びして、一週間となった。
初めは大食堂で一テールだけの演奏だったが、やがて歓談室での演奏となり、時間も二テールに延びた。
食事が終わったあとのゆったりした娯楽となったのだ。
たぶんそのために食事の開始時間も少し早められている。
もっともアスタル男爵は、最後まで演奏を聴くことはない。
演奏が始まって一テールすると、すうっと引き上げていくのだ。
行け行け行っちまえ、と吟遊詩人は思った。
なぜかというと、男爵がいなくなると、残った人々がほっとくつろぎ、歌への反応がよくなるのだ。
笑いさざめいたり、手拍子を取ってくれたりもする。
男爵がいる場所では、みなこわばった表情をして、ろくに雑談もしない。
それほどに男爵は城の人々から恐れられている。
歌を歌う以外ではまったく退屈な場所だったが、庭と森と、そしてリーナが慰めになった。
城では一階は自由に歩き回ってよいが、二階から上は用事のあるとき、つまり歌を歌うとき以外は立ち入ってはならない。
また、庭や森は自由に散策してよいが、城に奥にある黒い塔には決して近づいてはならない。
それが当初に言い渡されたことだった。
庭は趣味よく花が植えられて美しかった。
森には鳥や獣がいて、なかなか楽しかった。
そしてリーナはとてもよい娘だった。
遠くの村から奉公に上がっているのだという。
家族のもとを離れて寂しいが、リーナが奉公に上がっているあいだは、なんと両親は税を免除されるのだという。
家族のためになっていると思えば、こんな山の中の陰気な暮らしも少しも苦にならない、とリーナは言った。
リーナはどんな話題にも、ころころと笑いながら応じてくれた。
しかし一つだけ、応じてくれない話題があった。
それは城の後ろにある黒い塔についての話題である。
黒い塔について聞こうとすると、リーナは顔を真っ青にして首を振った。
「だめ。
だめ。
あの塔のことは、口にしてはだめ。
恐ろしいことが起こるの」
そして声を潜めて、こう付け加えた。
「あの塔に呼ばれた人はね。
二度と戻って来ないの」
何日かあと、リーナの休憩時間に一緒に庭の花を眺めた。
そのとき、リーナが小さな声で言った。
「黒い塔に呼ばれたらおしまい、っていうのは先輩の噂話で聞いてたけど、最初はおふざけかと思ってたの。
でも、何だかみんな怖がってるし。
それでね。
ミアって娘がいたの。
私よりほんの少し早くお勤めに上がった娘なんだけど。
ある日呼ばれたの。
黒い塔に。
そしてそのまま帰って来なかった。
あそこでは、何かよくないことが起きているのよ」
吟遊詩人は誰かに見られているような気がして、辺りを見回した。
だが誰もいなかった。
6
吟遊詩人の滞在は八夜に及んだ。
報酬の金貨も八枚たまった。
九日目の朝、食事を取りに使用人部屋に行ったが、リーナがいない。
「あれ?
リーナはどうしたの」
と小間使いや従僕たちに聞いてみたが、返事をする者はない。
青い顔をして目をそらすばかりである。
リーナと仲の良かった小間使いが一人になったのを狙って物陰に呼んだ。
「言葉は出さなくていい。
おいらの言うことが当たっていたら、一つだけうなずいて。
リーナは、黒い塔に呼ばれたんだね」
その小間使いはしばらくためらったあと、こくんとうなずいたのだった。
7
平民は日中起きて、夜に眠る。
貴族は違う。
貴族は昼過ぎに起きてきて仕事をし、夜遅くに食事をして一晩中起きて、明け方に眠るのだ。
すべての貴族がいつもそうであるというわけではないが、戦争もなく、視察に回ることもなく、税収に恵まれ、城で暇をもてあましている貴族はそういう生活を送る。
夜中城を照らす明かりをともし続けられることは、貴族としてのステータスといってもよい。
だから朝の間というのは、貴族にとっては深夜と同じだ。
黒い塔を探るのは今だ、と吟遊詩人は思った。
黒い塔のある敷地に続く門は鍵が掛かっていたが、これはぐるりと森側に回って乗り越えた。
そこから先がだめだった。
どのドアも窓も閉め切られている。
壊して忍び込むこともできるが、それでは相手に気付かれてしまうだろう。
結局吟遊詩人は朝の間の侵入を諦めて引き返すほかなかった。
その夜も吟遊詩人は自慢の歌を披露した。
きっちり二テールのあいだ演奏を行うと歓談室を退出し、そしてこっそり黒の塔に向かった。
門の戸は開いていた。
こっそりとここをくぐり抜け、吟遊詩人は大胆にも正面の扉を押した。
開いた。
音を立てないように中に入って戸を閉めた。
(なんだ、これは)
そこには濃密な死の匂いが立ちこめていた。
申し訳程度に明かりがともされている。
吟遊詩人は一階を探して回ったが、誰もおらず、これといった物もなかった。
地下への階段があったので、降りた。
地下は暗かったが、幸い吟遊詩人は夜目が利いた。
地下にはワイン蔵があり、大量の赤ワインが貯蔵されていた。
そしてその奥の土がむき出しになった部分からは、ひどくおぞましい気配が漂ってくる。
とはいえ、そこに吟遊詩人の探すものはなかった。
吟遊詩人は一階に戻り、そこから二階に上がった。
階段は一つしかない。
二階にも、誰もいなかった。
三階へ、四階へと、吟遊詩人は上っていった。
誰もおらず、これといった物もなかった。
だがそこに残された気配は、この場所で何か邪悪なことが行われたことを暗示していた。
五階に上ろうとして、気配を感じた。
五階の一部屋から、物音がする。
ぴちゃん、ぴちゃん。
しずくが水たまりに落ちるような音だ。
だが、水のような音ではない。
もっとねばりけのある何かだ。
吟遊詩人は不吉な予感に包まれながら、その部屋に入った。
いた。
リーナだ。
着衣のまま、ベッドに寝かされている。
窓のない薄暗い部屋の中に。
だが、ああ。
ああ。
何ということか。
その体はベッドに縛り付けられている。
身動きもならないように。
目隠しをされ、何も見えないようにされている。
顔色は真っ青だ。
いや。
真っ青を通り越して死者のように白い。
そして右手には管が差し込まれ。
そこから血がしたたり落ちている。
下に置かれた容器に。
ぽちゃん、ぽちゃんと血がしたたり落ちている。
吟遊詩人は足音をさせるのも構わずリーナに走り寄った。
そしてその喉元に触り、鼻に手を当てた。
生きている。
かすかにぬくもりがあり、呼吸もしている。
だが、意識はない。
血を失いすぎている。
おそらくどんな薬師のわざも、この娘の命をつなぎとめることはできない。
「エピルタは持って来なかったのか」
背中に声を掛けた者がある。
アスタル男爵だ。
声を聞いたのは初めてだ。
低く陰鬱で、ざらざらした耳障りな声だ。
妙にこもった声なので、注意して聞かなければ意味を聞き取れない。
「お前にはよい物語をたくさん聞かせてもらった。
だから殺す前に、お前の知らない物語を一つ聞かせてやろう。
わが一族の物語だ」
男爵は語り始めた。
8
今やこの地上は人間の物だ。
人間は至る所にはびこっている。
その数は増え続けるばかりだ。
人間の住む街もどんどん増えている。
もはや人間こそが地上の支配者であるといってよい。
だがその昔にはそうではなかった。
地上には数々の不思議で偉大な生き物がいた。
人間は、偉大な生き物たちの機嫌を伺いながらこそこそと隠れて生きるみじめな存在に過ぎなかった。
そうした偉大な生き物たちの中に、〈生命を吸う者たち〉と呼ばれる一族がいた。
鼠を狐が獲り、狐を鷲が獲り、鷲を熊が獲り、熊を人が狩る。
そして人を狩るのが、〈生命を吸う者たち〉だ。
彼らはさまざまな方法で人の生命を吸い取った。
指先を人間の額に当てるだけでも、その人間の生命を吸うことができた。
手を心の臓に突き込んで吸うこともできた。
だが最も繊細で最も味わい深い方法は、人の血を吸うことだった。
人の血を吸うことで、彼らは人間を賞味し、飢えを満たした。
人が肉や魚を賞味するようにね。
人は何年生きる?
五十年か。
六十年か。
たまには八十年生きる人間もいるな。
だが八十年も生きれば、それはもう生命力の枯渇した、ぼろぼろでしわくちゃの残骸にすぎない。
人が美しく力強く生きられる時間は、ほんの三十年ほどしかないのだよ。
彼らは違った。
百年も二百年も、いや千年でさえも。
千年にわたる時の流れも彼らから美しさと力強さを奪うことはできなかった。
彼らこそはあらゆる生き物の頂点にたつ者だった。
その彼らを今地上で目にすることはない。
なぜかね。
彼らはどこに行ったのかね。
人間に追われたのだろうか。
人間は自分たち以外を認めない。
許そうとしない。
自分たちと違う者、自分たちより優れた者、強い者を見たら、滅ぼさずにはいられない。
あまたの偉大な生き物たちは、モンスターと呼ばれ、いやらしい魔獣たちと同列に扱われて、この地上から追われていった。
だが、本当に彼らは滅んでしまったのか。
この地上から消え失せてしまったのか。
いやいや。
そんなことはないよ。
そんなことはありはしないとも。
彼らは人間が栄えることを望んでいた。
何しろ人間は彼らのまたとない食料なのだからね。
人間が栄えることが自分たちの繁栄の基盤だと、彼らは知っていた。
だから彼らは、消えたふりをしたのだよ。
それと分かる姿で現れれば、人間は彼らを憎み排除しようとする。
ゆえに彼らは隠れた。
山に。
森に。
そして人の中に。
ふっふっふっふっふ。
わっはっはっはっは。
どうかね。
私の正体に見当がついてきたかな。
だがまだ早いよ。
これからが本題なのだ。
さて、人間は彼らからすれば、いやしむべき下等種族だ。
だが鳥や獣にもさまざまな種類があるように、人間にもいろいろな種類がある。
人間の中でもごく高貴な者たちを、彼らは引き立た。
それどころではない。
同類として扱おうとさえしたのだ。
つまり彼らは高貴な人間と血を混ぜた。
そうして生まれた子らと、さらにその子らと。
それらの子らは、人間でありながら、彼らの美しさ、力強さを持っていた。
もう分かっただろう。
そうだ。
私は彼らの子孫であり、人間の子孫でもあるのだ。
だから私は人の食事も取るが、彼らの食事も取る。
人間だよ。
人間の血だ。
それを飲むことによって、私は彼らの特質を現すことができる。
美しさと若さと力強さを保ったまま、永劫の命を生きることができるのだよ。
さて。
もうリーナの体から血が抜けきるころだ。
知っているかね。
血というものは、体の外に出ると固まってしまうのだ。
固まらないようにする薬を与えて寝かせ、それから血を抜いたのだよ。
この新鮮な血を赤ワインと混ぜて飲む。
それがわが一族の、私の秘密の食事というわけだ。
どうかね。
誰も知らない物語を知った気分は。
吟遊詩人には最高のご褒美だろう。
お前はそれを誰にも語ることはできないがね。
9
しゅりん、と音をさせて男爵は剣を抜いた。
鋼の剣だ。
吟遊詩人はどうしていいか迷った。
この場で大騒ぎをしたら、人が駆けつける。
それは、まずい。
迷ううちに、男爵は剣を突き込んできた。
かわそうと一瞬思ったが、そうすると後ろのリーナに剣が突き立てられてしまいそうだ。
結局、心臓辺りに、太い剣を突き込まれてしまった。
男爵が剣を抜く。
血が噴き出す。
ぐらりと揺れて、吟遊詩人は床に倒れた。
男爵はベッドに近寄り、リーナの手首に差し込まれた管を外した。
それから血のたまった容器を大事そうに持ち上げ、テーブルの上に置いてあったワインのデキャンタージュ用の瓶に移し始めた。
慎重に移し終えると、両方の器をテーブルに置いて、ふうと息をついた。
「ごくろうさん」
背中から声がした。
男爵は振り返ろうとしたが、できなかった。
後ろから吟遊詩人が両手を伸ばして喉をつかんだからだ。
その手は万力のように強力で、どうしても引きはがすことができない。
男爵は首をつかまれたまま持ち上げられた。
吟遊詩人はそのまま後ろに移動していった。
男爵は足を動かしてあがいたが、吟遊詩人はまったく平気だった。
そのうちに男爵は、全身から力が抜けていくのを感じた。
まるで生命力が吸い取られているかのように。
「一つだけ言っとくね。
〈命を吸う者たち〉が人間と結婚してもね。
子どもはできないよ。
少なくともおいらがこの三百何十年かいろいろ試したところではそうだった。
それにあんたから同族の匂いはしない。
だからね。
あんたはただの人間だ。
あんたのご先祖さんが嘘をついたか、あんたの思い込みだと思うよ」
男爵はもう意識もないようで、吟遊詩人の言葉が耳に入ったかどうかは分からない。
入っていようがいまいが、たいした違いはないが。
完全に脱力した男爵を、そっと床に横たえると、吟遊詩人はテーブルに近寄った。
デキュンタージュ瓶をつかむと、その中の血を一気に飲み干した。
ベッドのそばに行ってひざまずくと、リーナの首筋に歯を立てた。
そしてゆっくりゆっくりと、血を流し込んでいった。
流し込み終えると男爵から吸い取った生命力の一部をリーナに注いだ。
肌に赤みが戻ってきた。
もう大丈夫だ。
吟遊詩人は男爵の剣に付いた血を、自分のシャツでぬぐい、剣を鞘に戻した。
それから急いで黒い塔を出て城の本館に戻った。
夜の闇が姿を隠してくれた。
幸い誰にも見とがめられず、自分に与えられた控室にまで帰ることができた。
それはよいのだが、血で汚れ穴の開いたシャツを包み込むものがない。
しかたがないので、エピルタを包んでいた布でシャツを包んで、荷物の底に押し込んだ。
そしてシャツを着替えて眠った。
翌朝、城は大騒ぎだった。
吟遊詩人は、突然追い出された。
といっても、食料を運ぶ馬車に乗せられて麓の村まで送ってもらえたので、何の不足もないが。
すぐに村を出るつもりだが、その前に大事な大事なエピルタを覆う布を買わなくてはいけない。
懐にはたっぷりの金があるのだから、上等な布が買えるだろう。
それにしても、ただの人間が人間の血なんかを飲んで大丈夫なんだろうか、と吟遊詩人は思った。
大丈夫なわけはない。
たぶん、男爵の一族は代々短命なのではないだろうか。
そういえば顔色も悪かったし日光も苦手なようだった。
10
生まれた場所は迷宮の底だった。
生まれたというより、生じた、というのが正しいかもしれない。
二百五十階層もある迷宮の最下層のボス部屋でのことだ。
そこで何十年あるいは何百年過ごしたのかは分からない。
時間の感覚というものがなかったのだから。
やがて彼はボス部屋を出た。
そんなことは普通できないのだが、何かの条件が調って彼は出ることができた。
モンスターたちと戦いながら上層に上っていった。
その迷宮は、実は未発見の迷宮であった。
人間が一度も足を踏み入れたことのない迷宮なのだ。
今でもたぶん発見されていない。
彼は迷宮から外の世界に出た。
見た目は人間と変わらないので、ふらふらと近寄った人間の街でも、いきなり殺されたりはしなかった。
その代わり奴隷にされた。
奴隷として暮らしながら、彼は人間の言葉を覚えた。
やがて彼は逃げだして、自由を得た。
それからいろんな場所に行き、次第にいろんなことを学んでいった。
自分には非常に強力な戦闘力があることが分かったが、戦いを職業にしようとは思わなかった。
彼は人やモンスターを殺して生きるには、何というか平和的すぎたのだ。
いろいろな職業をへてたどり着いたのが吟遊詩人という職だった。
歌と演奏の技術を磨くには長い時間が必要だったが、彼には時間だけはふんだんにあった。
そして老いることなき若き体力も。
各地を訪れて人間の歴史を学んだ。
それは吟遊詩人としてはごく自然なことである。
その物語は彼を魅了した。
もっともっと多くの物語を知りたいと思った。
それでさらに技を磨き、行ったことのない土地へと足を運んだ。
そうする中で、自分が〈命を吸い取る者たち〉と呼ばれる種族なのだと知った。
迷宮生まれなので、純正種とは違うかもしれないが。
アスタル男爵は、一つだけ正しいことを言った。
〈命を吸い取る者たち〉が滅んではおらず、人の中に潜んでいるということである。
彼は今まで二度同族に会った。
お互い、すぐにそうと分かった。
二度ともしばらく一緒に旅をした。
そのうち一人とは結婚し、子どもも作った。
二十年ほど一緒にいて、別れた。
皆それぞれの旅をしている。
またどこかで会うこともあるかもしれない。
二人に会ったのだから、もっと大勢がいても不思議ではない。
彼も同族も一か所に長くとどまることはない。
年を取らないということは、なかなかに厄介なことなのだ。
彼はいつも別れてばかりだ。
だがそれと同じだけの出会いもある。
彼は旅を愛し人を愛す。
人の笑う顔を見るために、今夜もどこかの酒場で歌を歌うのだ。
(了)