第2夜 毒ねずみ
1
目の色を変えてごちそうを食べる子どもたちを、クィドは落ちくぼんだ目で見ていた。
たいした料理ではない。
それでもこの子たちにとっては、今まで食べたこともないようなごちそうなのだ。
かり。
かり。
固い焦げ茶色の根っこをかじりながら、クィドはあらためて子どもたちの人数を数えた。
七人。
多い。
それだけ村々の暮らしが厳しいということだ。
今年は天候も不順だったし、農作物の出来も悪かった。
そして村々が凶作であるほど、クィドの収穫は〈豊作〉になる。
子どもたちが料理を食べ終え、放心したようになっているところに、二人の男が入って来た。
ズウとマクガだ。
「ガキども。
飯は食ったか。
出掛けるぞ。
ユルエルの街にお前たちを連れて行く。
だがその前に言っておくことがある。
お前たちは、このクィドの野郎に、仕事をもらえると言われて来ただろう。
そいつぁあ半分嘘だ。
お前たちのうち、男は奴隷に売られる。
女は娼館に売られる。
このクィドの野郎は、お前たちと、お前たちのお父っつゃん、おっ母さんを騙したのさ」
クィドは暗い目で黙り込んでマクガの言い分を聞いていた。
騙したわけじぇねえ。
こいつらの親は、おいらがこの子たちを買ったとき、この子たちがどうなるかは百も承知だった。
そう思いながら。
ズウが近寄って来て、足を引っかけてクィドを転ばせた。
なすすべもなく転がったクィドの腹に、ズウのつま先がめり込んだ。
何度も何度も繰り返して。
「ええっ?
いいご身分だなあ、毒ねずみ。
善人面して村を回って子ども集めか。
ああっ?
子どもらを奴隷に売り娼館に売る小汚ねえ仕事はおらっちたちに押し付けてよう。
手に職を付けさせるだの、食い物に不自由はさせねえだの、奇麗なお服が着られるだの、さんざん吹きまくってよ。
手前は親に土下座されて金を渡すんだよなあ。
親分の金を」
繰り返して腹を蹴り飛ばされながら、クィドは体を丸めてうめくばかりで、抵抗もしなかった。
仕方ねえ。
仕方ねえ。
おいらは小汚い仕事をして生きてる。
仕事ともいえねえような仕事だ。
だからこうやって蹴り飛ばされて腹が痛むのも仕方がねえんだ。
そう自分に言い聞かせながら。
だがクィドをののしるズウもマクガも、子どもを売り飛ばす役を人に譲ろうとはしない。
その役にはうまみがあるからだ。
二人は子どもたちの売値をほんの少しつり上げる。
そしてユルエルの街でいい思いをして帰って来る。
その後ろめたさをごまかすために、クィドをののしり蹴飛ばすのだ。
そうすることで、釣り合いを取っている。
そうだ。
人は誰でも釣り合いを取りながら生きているのだ。
2
「もうそれくらいにしておいてやれ」
部屋に入って来た男が言った。
用心棒のバンダルだ。
革鎧を着けている。
これから迷宮に降りるのだろう。
「こりゃ、旦那」
「ちっ。
クィド。
旦那に免じて勘弁してやるっ」
最後に強く蹴りを入れて、ズウはクィドから離れた。
ズウとマクガは子どもたちを追い立てて部屋を出て行った。
この時間に出れば、ちょうど暗くなるころにユルエルの街に着くだろう。
バンダルは、椅子を引いてどかりと座った。
手近な椀を引き寄せ、肩に担いだ酒を下ろして栓を抜き、とくとくと注ぐと、ちびちびとなめ始めた。
クィドは相変わらず横たわったままその様子を見るともなく見ていたが、そのうち痛みが治まってきたので起き上がった。
「お前も飲るか」
酒を勧めてくれたバンダルに、首を横に振って返事をして、部屋の隅の椅子に腰を下ろした。
卑屈そうに背を丸めたまま、懐から木の根を取り出して、かりかり、とかじる。
「よくもそんなものがかじれるものだのう。
うまくはあるまい」
バンダルの言う通りだ。
うまくはない。
うまくはないどころか、激烈にまずい。
なにしろ、トルコジェの根は猛毒だ。
なめただけでも七転八倒の苦しみを味わうことになる。
そのトルコジェの根を、かりかり、とクィドはかじる。
かじりすぎてはいけない。
誤ってほんの少し大きくかじっただけで、たちまちクィドは命を落としてしまうだろう。
それほどの猛毒なのだ。
だからほんの少しずつ、少しずつ。
クィドはトルコジェの根をかじる。
ひとかじりごとに、激しい刺激と苦痛が口を、喉を、臓腑を襲う。
頭もくらくらする。
だが、それがいい。
その刺激と苦痛が、ちょうどいい。
つらかった昨日のことも。
苦しみながら生きている今日のことも。
その刺激と苦痛になら、ちょうど釣り合う。
だからクィドは、いつも懐にトルコジェの根を入れていて、かりかり、とかじるのだ。
そんなクィドの様子を見ながら、バンダルは椀の酒をなめた。
しばらくして、部屋に男が入って来た。
ザナルだ。
ボンハート一家でも中堅どころの位置を占める男だ。
「旦那。
こちらでしたか。
ああっ。
また飲んでるんですかい。
これから迷宮ですぜ」
「ふふ。
準備運動がわりに、酒で体を温めておいたのよ。
さて、行くか」
「へい。
おい、毒ねずみ。
手前、油を売ってねえで働け。
まずはこの部屋を片付けておくんだ。
それから迷宮に来い。
分かったな!」
きしし、きしし、と笑い声を立てながら、クィドは繰り返しうなずいた。
3
ボンハート一家にバンダルが加わったのは、四年前のことだ。
バンダルが加わったことで勢いを得たボンハート一家は、テルムジク一家に決戦を挑んだ。
こんなしけた街に二つの一家があるのは、いくらなんでも無理だった。
決戦はボンハート一家の圧勝だった。
ボンハート親分と若衆頭のラザーノと用心棒のバンダルの働きはすさまじかった。
中でもバンダルの強さは圧巻だった。
大柄でがっしりした体から繰り出す高速の斬撃は、誰も受け止めることもかわすこともできなかった。
テルムジクは死に、一家は壊滅した。
その残党を吸収してボンハート一家は大きくなった。
ズウもマクガも、元はテルムジク一家にいた男たちだ。
ボンハート親分は領主に賄賂を送って、この街の治安を担う代わりに店からみかじめ料を取る権利を得た。
近隣の村から人買いをするのを見逃してもらってもいる。
それから迷宮だ。
この街には迷宮がある。
実にけちな迷宮だが。
階層はたったの三階層。
第一階層の徘徊モンスターは化けきのこで、ボスは黒兎。
第二階層の徘徊モンスターは人食いヅタで、ボスは三つ目狸。
第三階層の徘徊モンスターは人面岩で、ボスは銀鹿。
黒兎と三つ目狸は、まあまあ売り物になるし、銀鹿の皮はよい値で売れる。
化けきのこや人食いヅタや人面岩も素材にはなる。
この迷宮に、三日に一度入る。
狩人役は、若衆頭のラザーノと用心棒のバンダルが交代で務める。
それに十人の若い衆がついて行って、素材をはぎ取る。
ラザーノとバンダルの強さはたいしたもので、どちらか一人いれば、迷宮のすべての徘徊モンスターとボスを倒すことができる。
この迷宮では、ボス部屋に一度に入れる人数は八人である。
無駄に多い。
そんな人数はまったく必要がない。
若い衆はボス部屋の外で、ラザーノかバンダルが死んだボスを引きずって出て来るのを待つばかりなのだ。
三日に一度しか入らないのは、完全にリポップするのにそれだけかかるからである。
六日に一度領主に銀鹿の皮を届けることで、この迷宮はボンハート一家が独占している。
実のところ、ボンハート一家がいなくても、領主はこの迷宮には兵を向けないだろう。
得られるものが、兵士たちの給料に引き合わないからである。
もっとも、この迷宮には一つの夢がある。
錦鹿だ。
第三階層のボスである銀鹿は、これまでに三度、ユニークモンスターである錦鹿として出現した。
錦鹿は体内に匂い袋を持つ。
これを乾燥させた錦香は、上流階級のあいだでとてつもない高額で取引されるのだ。
まさに一攫千金の夢といってよい。
およそ五十年前と四十年前と三十年前に錦鹿は現れている。
今度いつか錦鹿が現れたら、一家はユルエルの街に進出して一旗揚げるぞ、というのがボンハートが酔ったときの口癖だ。
その日が来るとまともに信じている者はいないが。
4
ある年のこと。
クィドは村々から子どもを集めて帰って来た。
だが街に入る直前、二人組のならず者に子どもたちを奪われた。
クィドはアジトに走って帰った。
ちょうどバンダルが酒を飲んでいた。
クィドが事情を話すと、バンダルは着流し姿のまま剣を取って立った。
そしてうまやから馬を引き出すと、馬に乗って街を出た。
半日後にバンダルは帰って来た。
子どもたちを連れて。
ならず者たちをどうしたかは聞かなかった。
聞かずとも見当はつく。
時間がかかったのは、子どもたちを急かさなかったからだ。
その夜、クィドが注いだ酒をバンダルはうまそうに飲んだ。
5
売られていく前に、一食だけ腹一杯子どもたちに食事をさせる。
それは六年前にクィドがボンハート親分に頼んだことだった。
最初口にしたときは、若い衆に殴られ蹴られた。
なにをふざけたことをと。
すぐに売り払ってしまう子どもにうまい物など食わせて何になるのかと。
だが、クィドも食い下がった。
ここのところ、買ってくる子どもたちはやせっぽちで顔色が悪く、元気がない。
そのため売りに行っても、病気ではないのか、死ぬのではないかなどといわれ、買いたたかれる。
一食しっかり食べさせてやれば、元気がでる。
顔色もよくなる。
子どもというのは気分次第で見え方がずいぶん違うものだ。
結局そのほうがもうかるのではないか。
そう説得した。
ボンハート親分は根負けして、一度だけクィドの言う通りにしてやる、と言った。
だがそれで高く売れなければ、お前は三日間飯抜きだと。
果たしてその年の子どもは値切られもせず、少しだけ高く売れた。
以来、売られていく子どもたちに一度だけ腹一杯食事をさせるのが慣例になった。
だがこれは、ボンハート親分の優しさだ。
はなからクィドの言い分など無視してもよかった。
食材をけちってもよかった。
高く売れたのはたまたまだといってもよかった。
だが親分は子どもたちに、うまい食事を一度だけ出す。
食うや食わずの暮らしをしていた子どもたちが、うまい食事をしてどう感じるか。
世の中にはこんなうまいものがある。
生きていれば、またこんなうまいものが食べられるかもしれない。
そんな気持ちが湧いてくるだろう。
湧いてきてほしい。
そういうクィドの思いを、ボンハート親分は酌んでくれた。
それはボンハート親分の度量なのだと、クィドは思っている。
6
この年も、クィドは村々を回って帰って来た。
今度は十人だ。
十人もの子どもが親に売られた。
不作はいっそうひどい。
村々は飢餓に近い状態だった。
料理が用意され、やせこけた子どもたちが夢中でそれを食べている。
と、部屋に用心棒のバンダルが入って来た。
「クィド。
すまんが大至急頼みたいことがある。
毒袋だ。
小型の毒袋を十個、急いで持って来てくれんか」
毒袋などを何に使うのかと思ったが、とにかくうなずいて倉庫の部屋に走った。
毒袋を作ったのはクィドであり、その管理もクィドがしている。
この一家にはクィド以上に毒に詳しい者はいない。
毒が用意してあること自体、一部の幹部しか知らないことなのだ。
倉庫の部屋に入り、戸棚の隠しを開いて十個の毒袋をつかむと、クィドは戻った。
部屋に入ってびっくりした。
子どもたちがみんな倒れている。
ある子は目をぐるぐる回しながら泡を吹いている。
ある子は白目をむいてけいれんしている。
これは。
これは。
化けきのこを生で食べたときの症状だ。
誰かが料理に生の化けきのこを混ぜたのだ。
誰が。
料理番のアルコだ。
だが、なぜ。
「呼びにやらせたから、もうすぐ迷宮に降りている十人が戻って来る。
そうしたら、ガキどもを担いで降りてもらう。
三階層までな。
お前は毒袋を持ってついて来い」
そういえば、今日は若衆頭のラザーノが迷宮に降りる日だ。
なのになぜ用心棒のバンダルは革鎧を着ているのか。
迷宮に降りない日は、いつも着流し姿なのに。
それに、十人だと?
迷宮に降りたのは、ラザーノと十人の手下で、合わせて十一人のはずだ。
「ふむ。
クィド。
お前には事情を話しておこうかのう。
今朝ラザーノが迷宮に降りた。
やがてラザーノからボスに知らせが届いた。
使い捨ての遠話アイテムを持っていたのだな。
それでボスから俺に指示があった。
錦鹿だ。
すぐに三階層のボス部屋に行けと」
これを聞いてクィドはひどく混乱した。
何の話か理解できなかった。
ゆっくりとバンダルの台詞を頭の中で反芻した。
ラザーノはボンハート親分の片腕で昔からの部下だ。
親子か兄弟のような関係といっていい。
そのラザーノに、高価な遠話用のアイテムを渡していた。
たぶん一回切りの使い捨てで、片道通話しかできないタイプのものだろう。
それでも万が一のときの連絡にはひどく役立つものだ。
その高価な使い捨てアイテムを使ってラザーノはボンハート親分に連絡をしてきた。
錦鹿が出たと。
ということはラザーノは三階層のボス部屋にいるのだ。
ボンハート親分はバンダルに、三階層のボス部屋に行けと命じた。
倒したから解体の手伝いに行けというような用事なら、バンダルに言いつけるわけがない。
バンダルの仕事は戦いだ。
助太刀が必要になったということだ。
錦鹿はユニークボスだ。
おそらく、銀鹿とは比較にならない強さなのだ。
さしものラザーノも、一人では勝てないと思った。
本当なら部屋の前で待っている若い衆に入れと言いたかっただろう。
だがボス部屋の中から外に声は届かない。
だから戦闘中に遠話アイテムを使い、ボンハート親分に必死の救援要請を行ったのだ。
一刻を争う事態であるはずなのに、バンダルはここで子どもたちが料理を食べるのを見ていた。
つまり。
「きしっ。
きししっ。
旦那。
バンダルの旦那。
ラザーノの旦那をお見捨てになったんで?
それにアルコに命じて子どもらの料理に生の化けきのこを混ぜなすったね。
十人の痺れた子どもと、十個の毒袋。
旦那はこいつを、どうなさるおつもりなんで」
「ふふっ。
クィド。
やはりお前は頭が切れるのう。
見込んだ通りだ。
俺にもこれから身の回りの世話をする者がいる。
クィド。
俺について来い。
悪いようにはせん」
7
バンダルはここを出ていくつもりだ。
錦鹿の匂い袋を土産に。
だが、どこに。
たぶんユルエルの街だ。
おそらくバンダルはユルエルに住んでいた。
騎士だったのではないか。
それもかなりの地位の。
だが何か不始末をした。
妻を娼館にたたき売ったということは、酒の話でもらしたことがある。
懐が温かいときでも、バンダルだけは決してユルエルの街に足を向けない。
ユルエルの街に足を踏み入れられない何かがあるのだ。
だが遠くに行こうともしない。
こうしてユルエルと目と鼻の先の貧相な街でくすぶっている。
ユルエルには帰れない。
だが離れることもできない。
この街はバンダルにとり、そんな二つの心が釣り合うほどの、ユルエルからの距離を持つ街だったのだろう。
錦香があれば、帰れる。
妻を買い戻し、不始末の後始末ができる。
バンダルはそう考えたのだ。
本当にそうだろうか。
錦香を持って帰りさえすれば、本当にユルエルにはバンダルの願う暮らしが待っているのか。
それは、分からない。
分からないが、その可能性はバンダルにとり、ここの暮らし全部と引き替えにしても釣り合うものだったのだ。
バンダルはラザーノを見捨てた。
それのどこが悪い。
ラザーノはひどい男だった。
死んでもクィドの胸は痛まない。
バンダルはクィド以外の人間を連れていかないつもりだ。
黙って置いていかれるようなやつらではないから、殺すのだろう。
いいではないか。
やつらはみんな死ねばいい。
バンダルの幸せとなら、じゅうぶんに釣り合う。
クィドはバンダルが好きだった。
バンダルだけは、クィドのことを毒ねずみと呼ばなかった。
殴ったり蹴ったりしなかった。
よく酒を勧めてくれた。
飲んだことはなかったが。
子どもたちをならず者に奪われたときも、文句も言わず、クィドを責めることもせず、黙って子どもたちを取り返してきてくれた。
バンダルの強さと優しさが好きだった。
だが。
だが。
8
「きしっ。
きししっ。
旦那。
バンダルの旦那。
ボスモンスターってのは、人を食うんですかい?
鹿のくせに。
それで子どもらを餌にするおつもりで?
毒付きの餌に」
ゆらり、と一歩クィドに近づきながら、バンダルは答えた。
「ふむ。
食う、と聞いている。
この錦鹿というのが、困ったことにどのくらいの強さか分からんのだ。
だが少なくともラザーノの手に負えないほどの強さではあるらしい。
子どもの口に毒袋を突っ込んでボス部屋の中に放り込んでやれば、錦鹿は子どもごと毒を食うだろうと思ってな。
まあ無傷の状態で戦っても勝てるとは思うのだが、念のためだ。
万一錦鹿が子どもらを食わず、子どもらがボス部屋の中で生き残ったら、今度は俺がボス部屋に入れんからな。
どうしても毒をくわえさせてから放り込まねばならん。
どうせ奴隷や娼婦になり、ぼろぼろになって死んでいく子どもたちだ。
最後にうまい物を食ってそのまま毒で死ねるなら、それも幸せであろうよ」
それは違う。
まったく違う。
なるほど。
子どもらは奴隷になり、娼婦になり、みじめでつらい思いをするだろう。
ぼろぼろになって死んでいく子もいるだろう。
それでもそこには生きていける可能性がある。
生き延びて自分の人生をつかみ取れる可能性がある。
それは親元で飢え死にするよりも、ほんの少しばかりましなことだ。
少なくともモンスターの餌として殺されるより、ましだ。
「きしっ。
きししっ。
駄目だよ。
そりゃ駄目だよ、旦那」
じりじりと部屋の隅に追い詰められながら、クィドは言った。
「そうか。
駄目か。
残念だな、クィド。
お前とはうまくやれそうだったのに」
空気を吸うようにバンダルは剣を抜いた。
冷たく光る鋼鉄の剣を。
そして左下から右上に斬り上げるように、刺突ぎみの斬撃を放ってきた。
恐るべき速度と威力の斬撃を。
クィドは逃げなかった。
逃げる場所もなく、逃げ切れる距離でもない。
くわっと目を見開いて剣の軌道を見定めながら、胸に差し込んだダガーを右手で抜き、左手で支えながら、バンダルの斬撃に合わせた。
鋭い激突音が響いた。
バンダルの放った剣尖は、クィドのダガーに見事に受け止められていた。
このちびでやせっぽちで顔色の悪い貧相な男が、バンダルの攻撃を防ぎきったのである。
ほとんどまぐれに近いとはいえ、正しい位置で防御したことは、クィドがそれなりの戦闘センスを持っていることを示している。
また、折れ飛びもせず鋼の剣の強攻撃を止めたのだから、ダガーもなかなかの業物である。
バンダルは目を見開いた。
「これは驚いたのう。
お前、そんな牙を隠し持っていたのか。
ますます惜しい。
どうだ。
俺について来んか」
心の動く申し出だった。
こんな腐った街を出て、バンダルと二人でやり直せたら、どんなにいいだろう。
ユルエルの街には、いろいろな楽しみがあるに違いない。
頼み込めば、子どもたちは殺さずにおいてくれるかもしれない。
餌に使わずにすませてくれるかもしれない。
だが。
ああ、だが。
9
「旦那。
きししっ。
バンダルの旦那」
「なんだ」
「ボンハートの親分さんは、どうしなすった」
「ふむ。
お前が想像している通りだな」
つまり、殺したのだ。
殺していなければ、ラザーノの手助けにも行かずぐずぐずしているバンダルをボンハート親分が許すわけがない。
殺したことは分かっていた。
だがそのことを話に出したとき、バンダルの目に浮かぶものを見たかったのだ。
そこにわずかでも後悔や苦悩があれば、クィドはバンダルを信じられたかもしれない。
だがそんなものは、まったく見えなかった。
「旦那。
旦那。
バンダルの旦那。
旦那はずいぶんボンハートの親分さんには可愛がってもらわれたじゃありやせんか。
いい目もみさせてもらったじゃありやせんか。
おいらも親分さんには世話ンなった。
親分さんにだけはね。
親分さんは悪い人じゃなかった。
旦那。
旦那。
やっぱり、駄目だよ」
もはや会話は諦めたのか、無言でバンダルは剣を繰り出した。
左から右へとなぎ払う剣筋だ、
部屋の隅に追い詰められたクィドには、かわしようがない。
だが強引にクィドは左に飛んだ。
バンダルの剣は容赦なくクィドの横腹を斬り裂いた。
だが剣から逃げるように飛んだため、致命傷にはならずにすんだ。
移動するクィドを、バンダルが追う。
再びクィドは壁際に追い詰められた。
その腹からはどくどくと血が流れ出ている。
バンダルがゆっくりと剣を左下に構える。
次の一撃は、確実にクィドの命を奪うだろう。
そのときクィドは妙なことをした。
右手に持ったダガーで、ズボンを止めている布のベルトを切ったのである。
そのまま右手を斬り上げるように素早く振った。
ダガーの攻撃であるとすれば、まったく間合いが足りない。
つまりバンダルには届かない。
だがその手に握られているのはダガーではなかった。
切り取られた布のベルトだった。
一瞬ダガーかと思ってのけぞりかけたバンダルは、布のベルトであると気付いて動作を止めた。
そしてバンダルはダガーの行方を見定めようとした。
あった。
それはクィドの左手に握られている。
と、バンダルの顔面に布のベルトが襲いかかった。
そのベルトは布ながら、血をたっぷり吸って重みがあった。
そして中には皮が仕込まれていた。
だからバンダルの予測よりも早く遠くにベルトは届いた。
布のベルトはバンダルの右のこめかみを打った。
血が飛び散って、バンダルの右目に入った。
やられた、とバンダルは思った。
だが踏んできた場数はだてではない。
バンダルは一歩下がり、右目を固く閉じて、残った左目を見開いて、クィドの動きを見据えた。
すぐにもダガーを構えて突進してくるかと思ったが、クィドは動かない。
先ほどの傷が動きを止めさせたのだろう。
今の一瞬こそ勝負を逆転させる唯一の機会だったのに残念だったな、とバンダルは心でつぶやいた。
そうして大きく息を吸った。
次の瞬間。
バンダルの右目を強烈な痛みが襲った。
喉が焼け付き、呼吸を奪った。
強烈な悪寒がして、膝が震えた。
思わず態勢の崩れたバンダルの喉首を、クィドのダガーがかき切った。
バンダルはゆっくりと後ろに倒れ、そして動かなくなった。
クィドの布のベルトには、トルコジェの根の粉がたっぷりまぶしてあった。
猛毒の粉である。
しかも極めて刺激が強い。
目に入れば目が、喉に入れば喉が焼け、その痛みたるや到底我慢できるものではない。
毎日こりこりと少しずつ根をかじって体を慣らしている変人ででもなければ。
その猛毒の粉をたっぷり吸ったベルトを振り回し、しかもバンダルのこめかみを打った。
バンダルの目には血に混じった毒の粉が入った。
大きく息を吸ったとき、肺腑に猛毒の粉が届いてしまった。
その毒が、バンダルの動きを止めたのである。
10
クィドは背中を壁にあずけながら、ずるずると滑り落ちた。
そして床に仰向けで横たわり、傷口を左手で押さえた。
血は止まっている。
傷は思ったより浅かったようだ。
足音が聞こえる。
迷宮から若い衆が帰ってきたのだろう。
彼らはクィドをどうするだろうか。
殺すかもしれないし、助けるかもしれない。
子どもたちはどうなるだろう。
助かるかもしれないし、助からないかもしれない。
助かれば街に連れていかれるだろう。
貴重な現金収入源なのだから。
この子たちは、買われたほうが幸せだったのか。
買われないほうが幸せだったのか。
何度も何度も繰り返した疑問が、またも頭をよぎった。
クィドも売られた子どもだった。
奴隷暮らしはつらかった。
だがクィドは要領よく生き延び、自由を得た。
薄汚れていじましい自由ではあったが。
クィドは生まれ故郷に戻ったことがある。
親の元に残れた兄弟たちに、さんざん嫌みを言ってやろうと思いながら。
親も兄弟たちも餓死していた。
クィドは売られたおかげで生き延びたのだ。
それでも時々クィドは思う。
親や兄弟と一緒に暮らしてそれで死ねたのなら、そちらのほうが幸せだったのかもしれないと。
目に前にトルコジェの根が落ちていた。
布のベルトを抜いたとき落ちたのだろう。
右手で拾ってかじった。
やはりひどくまずい味だった。
(了)