プロローグ
唸りをあげる獣の咆哮に、猟銃を持った男は気圧される。男も理解していた。たかだかこの程度の銃ごときで、目前に佇む獣を殺すことは出来ない。
男の私生活は、山へと足を運び食料となる動物達を狩り、その獲物を山の麓にある村へと交渉し金を貰う、いわば‘マタギ’である。いつものように仕事をこなし、手慣れた銃捌きで獲物を狩猟する。満足にいくほどに大量収穫に悦に浸りながら、自分の家に帰ろうと帰路に付いた時だった。
何処からともなく、肉を引き裂き、骨を砕く様な奇怪な音に気が付いたマタギは、すぐさま背中に抱えていた猟銃を構えながらその音の主へと近づいていく。
すると、男は奇怪な音を出していた生物に目を疑った。 そこにいたのは一匹の狼だ。だがそこは、マタギにとっては驚くべき場所ではない。確かに狼はこんな山奥に一匹で狩りを行うような生き物ではなく、本来群れを成して生きる犬だと、たかを括っていたマタギだが、真に驚かしたのは他にただらならぬ空気を醸し出し見上げる程の大きさをしている二足歩行をする狼だったからだ。
マタギは恐怖で足がすくみ、緊張故に歯をカチカチと音を鳴らす。
「何故……何故此処に人獣がいるんだ!?」
マタギは木の陰に身を潜めながら人狼の様子を伺う。するとある一点に気が付く。
あの人狼が食しているモノは何なのかと疑問に陥る。普通の獣にしては大きすぎる獲物にマタギは目を凝らしてみるとそれは人間だった。
人狼が貪っていたのはマタギと同じく仕事をしていた同業者だった。きっとあの男は人狼に捕まり殺されたのだろう。赤黒い血液が引き裂かれた腹部から鮮烈に流れ出す。
マタギは本能で逃亡を計ろうとする。あれには関わってはいけない、すぐに逃げなければならないと、心の中で繰り返し念じながらゆっくりと人狼の死角から逃げようとした瞬間だった。
ぽきりと足元にあった枯れた枝の割れる音が鳴り響き辺りが静寂となる。人狼も音に気が付いたのか、食事の手を止める。張り詰めるような空気がマタギの世界を浸蝕していき、覚悟を決めたマタギは猟銃を抱えると人狼は何事もなかったことのように食事を開始した。
「……た…助かったのか?」
マタギは深く安堵の息を吐き出した。だが本来気を緩めてはいけない場所でマタギは助かったと緩めたのが運のつきだった。
ドスンと、なにかが打ち据えられた感覚と共に中に収まっている筈のものが目の前で宙を舞う。噴き出すだけの血液はまるで噴水のように止まることを知らない。
「あ…ああああああああああ!!?」
巨大な杭が自分の内部を貫いたのだと理解した瞬間、それは自分にとって絶望の二文字だけしかなかった。
痛みから逃れようと必死にもがきながら杭をどうにかしようと考える。仕事故に危機に達した時は冷静になるという感覚を持っていたマタギは、腕に抱え持っていた猟銃を杭へて宛がい躊躇いもなく引き金を引いた。
耳をつんざくような爆音と渇いた音が重なり合う。
だが、この杭には銃痕すらつくことがなかった。
「畜生!ちくしょうちくしょうちくしょうちくしょう!!」
認めたくない現実が、目を背けたくなる現実がマタギの精神を蹂躙していく。
「ってぇな……」
声が聞こえた瞬間、杭の主がマタギの目の前に姿を現す。巨大な顎から流れる涎。開く口元からはなにもかも砕くような乱杭歯が月に照らされ気味が悪い。
そして次の瞬間、マタギの頭を覆うように口を開いた人狼は一瞬にしてマタギの首元を寸断する。
かくして突如現れた人狼に何も抗うこともできなかったマタギの最後の光景はいびつに歪む人狼の嘲笑だけがただただ脳裏に焼き付いていただけだった。