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道を歩く

作者: suparagu8

一人称練習型シュール系哲学小説『道』











道だ、道がある。


だから僕は道を歩いて行くことにした。


今からもう3年も前のことだ。


道を歩く理由はない。














「なあ兄ちゃんは、どうして泣いているの?」


と弟だったか妹だったかに聞かれたことがある。





あれは熱い夏の日のことだったか、


いやいやそれとも寒い冬の日のことだったか、


不思議と覚えていない、まだ物忘れを激しくするような歳でもないのにだ。



そして僕がそれになんて返したのか、それもとうに忘却の内に仕舞っていたようだ。


結局とんと思い出せずじまい。



ただ、思うのはあのときの返答が、もう少し、もう幾分まともであったなら、



今頃、僕はこんなにも苦い思いを胸に抱いていなかっただろうこと、


それだけは分かるのだ。










道を歩く。


道、果てしない道。


西暦のいつだったか、世界には突如として道が現れた。


それは空にあるようで、水の中にあるようで、宇宙にあるようで、


それでいてちゃんと地面の上にあるようなものだった。


らしい。


あいつが教えてくれた。


多分、友人だったあいつが。


その道については色々あるようだったが、


僕にとってはそれはただの道だ。




ある日、いきなり現れたとか、カガクシャの研究の成果がどうだとか、


そんなものは関係がなかった。


僕にとってこれは道。



それで十分なのだ。


少なくとも、今の僕はそう思っている。


かつてどう思っていたかなど、遠く彼方のことだ。




僕は道を歩いている。



道を何故歩くのか。



理由は忘れてしまった。




ただ、道を見ると、今でもその大きさ、そして小ささに驚くことがある。


カモノハシのDNA配列を初めて見た学者の驚きって言うのは、多分こんなものだったのかな。


そう思えるほどだ。



道には何もかもがある。いやあると信じられる。


道の先には全てがあると聞いたことがある。



だから、もう僕は思い出せないけど、


だから、僕も道を歩くことのしたのだろうか。










道を歩いていると、時折、遙か過去の光景を見ることがある。


道の道たる所以。


道は進めば進む程に、過去と未来が混在化した、どこでもあり、どこでもない場所へと進んで行く。



昔、遠い昔にそう聞いたことがある。



それはもう白と黒に色褪せた過去からの残響のようなものだ。



それが聞こえてきたら、僕は足を止めることにしている。




この何処でもあり、何処でもない場所で、


道を、道を歩く、その先にある、『全て』を信じて。



夢みたいな現実と、現のような空想が、全てごっちゃになったような、



道の上から見える風景を僕は眺める。




ターバンを巻いた男性が、砂漠に座して朽ちる瞬間。


子を抱いた母が、子ごと強姦されるさま。


あるいは軍人が、警察が、一般市民を捕まえている。


裸体の男が、数人がかりで巨体の男に犯されている。



場面は変わり、映るのは苦難の風景ばかり。



僕は胃がムカムカしてきた。



それでも、歩みを止めることはない。


理由は置いてきてしまった。


でも、僕にはこの先にいかないと行けない理由があるのだ。


覚えていないけれども、それは確かにある。








「東西のスコラ哲学において、

こと理性の行使にかけてトマス・アクィナスの他に並ぶ者の無き、

と言われた偉大なるスコラ哲学者の名を君は知っているかい?」



あいつの声が聞こえる。


あいつ、長い髪、弾む声、何処か遠くを見るような視線。


あいつ、女性、友人、もしかしたら僕が好きだったかも知れない人。


もう姿もぼやけている。夢の中の他人のように、僕には彼女の顔がぼやけてみえた。


彼女は、この後なんと言ったのか、


覚えている覚えている。


まだ、忘れないでいることが出来る。


直接の理由は覚えていない。道を行く理由も。

でも、昔の思い出は、かすかに、記憶の水底に残っている。


それこそ海底の蟹の吐く泡ほどにはだけれども。



「アヴェロエス、正しくはイブン・ルシュド、こと哲学的理性に関して卓絶していた彼は、

しかしその理性ゆえに晩年は不遇の内で死ぬことになった……ふふ、無情を感じるね」



どの場面か、どの時代か、僕にはもう分からない。


学校でのことだったか、高校か、中学か、


ああ、僕は多くの物を道々に捨ててしまったようだ。



「ん? どうしたんだいそんな顔をして……

ああ、なんでいきなりこんな話をしたかって?


……僕はね、道の先には神の世界があると思って居るんだ。

と、誤解しないでくれよ? 言い換えれば仏教的な涅槃でも良いし、

プラトン的なイデア界でも、ヴェーダに照らし合わせるならブラフマンでもいいんだ

そう、僕はあの道、世間にある日いきなり現れた、あの道の先を見てみたいんだよ……」



記憶はここで途切れている。


僕の記憶は余りにも穴だらけで、埋めることの出来ない欠陥が出来つつあった。


それでも進むしかない。


この、なんであり、なんでもないような道を。


道がそこにあるから。









僕は道を進む。


アスファルトのようで、土のようで、岩のようで、石のようで、鉄のようで、


そのどれでもあり、どれでもない道を進み続ける。



いつからだろう、目に見える風景が色付いてきたのは、


星が光を放つように、風景が僕を刺激するようになったのは。




涙を流して天を仰ぐ砂漠の民。


数を世界の秘奥と定めた古代の祭司団。


皮膚を貝殻で削られている、純白にして乙女である哲人。


神への愛を表明して、それを異端と宣告されたドイツの司祭。



道にはなにもかもがある。


そして大切なものに限ってなにもない。



ここは空虚だ。



どうしようもなく。



道の先には本当になにかあるのだろうか?


最近僕は、そんなことを思う。










杖を拾う。


それは固く、頑丈だ。


そして軽く、何で出来ているかはわからない。


多分木材だとは思えるが、推測にしかならない。


黄金の聖職者を決める木の枝はヤドリギだったか。


これで僕も司祭になるのだろうか。



杖には『並ぶ者無き理性』と彫られてる。


そしてまた『我は汝』とも。




杖を手にいれたことで歩くのが大分楽になった。



棒のような足を、棒で動かす。



僕は風景を眺めながら、道を進む。


理由はない。



だが、それでも進むのだ、杖を突いて、杖を糧にして。




人は支えられる者であり、支える者である。


蛇のように這うことはない。


鳥のように羽ばたくこともない。


歩くしかないないのだ。



僕は、欠伸をしながら道を進んでいく。


なにがあるのか、なにがないのか。


分からぬ道を。








「『我と汝』

この命題に関して、重要な論は三つある」


僕のかつての友人らしき影がそう言った。


覚えている。どうにか覚えている。



欠けすぎた満月のようなその顔。


黒に塗りたくられたその身体。


極限まで薄められたスープ。


その声はしかし僕の友人だった。


声が聞こえてくる。



「一つ目は古代インドにおいて、古くから伝わる奥義。


二つ目はそれとも関連するイスラム哲学者たち、例えばバスターミー、ハッラージュなど。


三ツ目はユダヤ人の思想家、マルティン・ブーバー



一つ目は、己と世界。己と極限を説いたものだね。

     ここでは己と世界が問題になる。


二つ目は、我こそは神であるとイスラムにおいて説いたものだ。

     神と己の関係がここでは問題になる。

     

三ツ目は、大分毛色が違う、それは世界と己と、真の世界を問題にしたものだ。

     いうなれば人と人、人と世界、人と神、人と世界と神とまた人の関係が問題になる」

     

     

声は蕩々と、昔日のようにただただ響いている。


なにもかも洗い流すように、なにもかも疎むように。



彼女は天才だったのかもしれない。


殆ど忘れた今となって思い出す。


「ここで問題にされているのはペルソナ、存在の位置、如何に生きるかと言うこと、

なによりも、真の世界、極限的に幸福な安寧を関係の内にもとめていることだ。


……え? なにが問題かって? 僕はね君、君と、我と汝の関係になりたいんだ。

そしてね道の奧にそれはあると思うんだよ、僕はそれがね道の奧に……」



声は途切れる、僕はなんと返したのか、



なぜ僕は道を歩くのか、


荒野に惹かれた一本のハイウェイのように、誰もいない、静かな道を、僕は歩いている。


僕は一体なぜ道を歩くのか、なぜ? なぜ? なぜ?


しかし訊ねる声は虚空に響くばかりだ。


僕の心の中にある虚空と、


道の周りを覆う虚空に。










「おい」


僕が道を歩いている時のことだ。


杖になにかが当たったと思った瞬間に。初めて声を聞いた。


己の以外の存在の声を。



その声の出所を探す僕。



見つける。




それは石だった。


なんの変哲もない、白くてすべすべした石。


その石が声を発する。


僕の記憶は大分ガタガタだ、でもその僕でも分かる。




――確かに石は喋らない。


石は、顔を、口も、耳ももたない石はしかし何かを喚いている。


「おいおい、石にぶつかっておいて、知らんぷりたぁ太ぇ野郎だぜ


親の顔が見てみたいな!」



僕は石を持ってみる。


軽い、厚い、重い。


道を歩き始めて、初めて見る他者だ。


あるいは限界が生んだ己の幻覚。


錯覚、幻聴。その類かも分からないが。



「お、おいてめぇ何処さわってんだよ!」


「石にも触って欲しくないところがあるのかい?」


「あたぼうよ!」



石は石だ。


だが、喋る石だ。


僕は初めて道を共に征く友を得た。


それは石だ。


石だった。







10




自明の関係性の内に溺れてはならない。


自重も、謙譲も失われた関係性。


どちらか一方がただ与えるだけの関係には、なんの意味もない。


それは破綻寸前の擬似的な奴隷だ。



母の声。あるいは母のような父のような存在の声。


僕を導こうとした者の声。


姿も、形もとうに忘れ去ってしまったが、声だけは忘れ得ない。



弟のような妹のよう存在はアイスクリームが好きだった。




あの陽炎のように揺らめくものは一体何か。


道にはさまざまな物が現れるようになった。




例えば刃の入っていない刀。


例えば折れた槍。


例えば破れたコンドーム。


例えば火薬の漏れ出た花火。



何を象徴するのか、何を意味するのか、僕にはわからない。



それでも僕は進み続ける。


この道を。


声を聞き、己の残滓を想って。








11



道を歩いていると村に着く。


杖を右手に、石を左に。



「おいおい何か来るぜ」


「そうだね」


僕と石はすっかり打ち解けた。


他者に飢えていたのだ、僕も彼も。



彼は汝。他者だった。


他者である彼には過去がある。



しかし彼も多くを忘れ去ってしまった。


なにもない、ただ覚えているのは、己もかつて人間だったということだけ。



なにゆえに彼が石になったのか。


無機物になって、道の途中に石ころのように転がることになったのか。



真実、石に成れ果てた彼の心情を、僕は考えることが出来なかった。



想像を超えた事態。


人間は他人を理解することができない。


人間は他人を理解したつもりになることしかできない。


とうに忘れ去ったつもりの人間時代を思い出す。



「おい、どうしたぼーっとしてよ」


「いや、ちょっと考え事をね」



道の途中に在った村。


そこには嘘を付けない一本足の種族と、


嘘しか付けない一つ目の種族が住んでいた。



「ここは村です」


「ここは村です」


眼の前の一つ目の彼と、一本足の彼はしかし同じことを言った。


僕は混乱する。


どういうことなのか、どういうことなのだろうか。


実験音楽、前衛芸術、現代美術のような物言い。



それは矛盾だ。



「矛盾こそ、真の知の始まりだよ、

論理とは虚実だ、所詮人間の物語の一つに過ぎないのだよそれは、

現実に大切な物がどこにあるのかを考えれば、自明なことだろう?」



思考を重ねても、一枚が薄ければ、満足するまでには何枚積み上げる必要があるのか?


あいつの声が響いてくる。



僕と石は、彼らの倫理を理解することを諦めた。



「ここにはなにもかもがあります」


「ここにはなにもかもがあります」


「ここには愛があります」


「ここには愛があります」


「神はここにいます」


「神はここにいます」



糸が絡まるようなラジオの音。


郭公の鳴き真似をする不如帰。



僕と石は矛盾の村を後にする。



「なんだったんだここは?」


「なんだったんだろうねここは」







12



道を歩く。


往々にして、

なにも考えずにただただ闇雲に歩いていると、人間は不安に陥るものだ。


なにかを落としていないか、この先に何があるのか。


道は続いているのか、道は途切れているのか。


結局、行き着くところまで行かなければ分からないのに。


人は不安に包まれる。




僕と石、杖と僕。


「なあ坊主、お前は道を歩く前のことを覚えてるか?」


「うっすらと。歩く度に欠けていく絵画みたいなものだけどね、

今はイメージの断片の断片みたいなものしか残ってないよ」


「坊主はよ、どうして道を歩くんだ?

なにを求めてだ? ここを歩く意味はなんだ?

あるいはここではない何処か、見えるが見えないこの道をどうして求める。」


「……わからないよ、僕には。

ただ、母親のような父親のような存在が言ったことが少し頭に残っているだけだよ。

そして妹のような弟のような存在の記憶が、少し少し残っているだけだよ。

そしてそして、友達のような知り合いのような、憧れの相手のような人の記憶が、

薄く薄く残っているだけだよ」


「……そうかよ」



石は石だ。どこからどう見ても石だ。


ただの石に過ぎなくて、それがどうして喋っているのかもわからない。


でも僕は、周りを取り囲む風景。



我が子を喰らう鬼母。


己が子を喰らう英雄。


あるいは我が子を犯す母神。


あるいは己が母を犯す男神。



あるゆる意味で狂気的なそれらに囲まれることへの恐れと不安が、石のおかげで薄まっていることが分かる。


だから


石にありがとうと、言う。


石は照れる。


石にありがとうと、言う。


石は笑って、そしてまた照れる。







13



道は続く、



星のような風景。


原初の大地。


始原の火山。


のしのしと地面を歩くのは巨人。



道はどこにあり、どこを通っているのか、


歩いている僕にも分からない。



それでも、僕は進んでいることだけは分かっている。






「君は、けがれを信じるかい?」




すでに残影、声だけになってしまった思い出が訴えかける。



ただ、時折、何故か、何故か、遙か過去に戻るかのような、



鮮明なその姿が、脳裏に浮かんでくる。



何時も不敵に笑っている彼女が、


しかし、今は、不敵ではない、


僕の前で、いつもニヤリという笑みを浮かべていた貌には、


不安げな童女のごとき引き攣った笑み。



みそがれるべき汚濁、ハレではなくケ。

精子や、血、経血とは世界の各地においてその象徴なんだ。

例えば、君はけがれを信じるかい?」



その問いは、一つの決定的な問いで、


それに対する僕の答えは、僕の、答えは……



場面は変わり、


眼鏡を外して、己の身体を抱きしめた彼女の姿。


「私はね君……昨日…………に……れたんだよ」



その時、僕はなんと言ったのか



道は続く。








14




石と杖を手に、道を進むと、


村が見えてきた。



「おいおいやけに輝いてやがるぜ」


「眩しいね」



そこには女の人しか住んでいなかった。


僕が見た中でも桁違いに美しい女性ばかりだ。



輝く美貌、艶めく花顔、瑞々しい肢体。


映える毛髪。肌の色も、白、紅、黄、黒と多種多様。



そして家屋は全て黄金だ。




それは見る者全てを惹き付けるような。


そんな村だった。



「ここは全てのものがある村です」


「全てのもの?」


「全てものねぇ」


「ここには何もかもがあります」



そういって笑うのは、綺麗なお姉さん。


形容の言葉がそれ以外に見つからない雰囲気の女性だ。


僕は訊ねる。



「思い出も、なくした思い出も、返ってきますか?」


「ええ、もちろん」




石と僕は求めた。


彼女は応えた。




村の奧に案内された僕と石は、夢を見る。







15



そこは汚い空だった。


屋上だ。


灰色の空に、救いをもたらす青い空もなく、


鼠のような色の空には、紅金の陽光もない。




屋上を背に立つのは、一人の少女。


彼女は微笑んでいる。


彼女は微笑んで、屋上の縁に立っている。




そしてなんともないといったように、


その彼女の前に立っている僕に、いつものように笑いを投げかけている。


馴染みの喫茶店に、店主のお気に入りの何時もの音楽。


それほどの自然さ。



ただ、違うのは、ただ何時もの音楽に混じる不協和音は、


その瞳だ。




僕の、友である少女は、今は鮮明だ。


道の遙か遙か向こう、何年も前に置いていってしまったようなその瞳の色も鮮明だ。




濁って、笑って、何もかもを蔑んでいるような瞳。


どろどろと濁ったその瞳は、


絶望と憎悪、恥辱と羞恥、色欲と殺意を煮込み結晶化させたかのようで、


見るに辛く、観るに痛みを伴った。



風が吹く屋上で、少女は僕にのみ、その瞳を向けている。


「よごれちまったかなしみに……ってね」


「よすんだ……」


僕は声を掛ける。


「汚れてしまった服、虫に囓られてしまった林檎。


婚姻前に処女ではないイスラームの娘はどうされるか知っているかい?



……殺されるんだよ、親や親戚に!


例えそれが強姦であっても、近親相姦であろうとも、強要されたものであろうとも、


それが世間に知れ渡った時点で、その家の名誉は地に墜ちる。


だからね……その前に殺してしまうのさ!!」


「やめろ」


「僕はね、見てほら、あの雲の下、あの空の近くあそこにある道の先にはね」


「やめろ!」


「神がいる、いや無がある、と思うんだ、でも君は」


「やめろ!!」


「そんなものは見えないと言うんだね」


「……やめてくれ」


「いいさ、救われるのは僕だけで結構、僕だけでいいのさ……じゃっ」



と、コンビニにアイスクリームを買いに行くかのような気軽さで、


彼女は屋上から飛んだ。




そして僕は駆けだした。







16



起きる、そこは道の村だ。




道から見える風景は既に土と海だけだ。




憎悪もなく、陰りもない、火の獰猛は欠片も見えず、


命さえも存在しない。


そこにあるのは絶対的静寂。


全ての始まりの時。




「いかがでしたか?」


「一つだけ完全に思い出したよ」



「でも……」


「でも?」



「僕がなんでここにいるのかは分からなかったよ」


「そうですか」



「石は」


「とうに起きておられますよ」



と見れば、己の胸の上に石がある。


何も喋らない。石は、何も喋らない。



「ここは……どこなんだい?」


「道でございますよ」




にこにこ笑う彼女は、それきり何も言葉を話さない。


僕は杖を見る。


『並ぶ者なき理性』『我は汝』『愛』


「愛?」


「愛とはなんですか?」



女性は聞く、僕は答えられない。


僕には分からない、分からなかった。


僕は余りにも子供で、結局多くの物を失ってしまった。


道を歩く途中で、そも、道に入る前に既に。


一体どうして、僕はここにいるのか。


記憶は薄れる。


ただ、杖に支えられた三つの言葉が、胸の内に響いた気がした。







17





僕と石は進む、いよいよ外の風景も宇宙と星のみになった。


そこにあるのは道。


それを歩くのは僕と石。



「なあ坊主、俺は思い出したぜ」


「石の貴方、僕は思い出したくなかった」


「後悔するのか? 坊主。

後悔ってのは甘い蜜だ。逃避を促す甘い毒だよ。

坊主、聞け、俺はな、靴屋だった」


「靴屋……?」


「ああ、平凡などこにでもいる靴屋だよ

坊主、後悔なんて意味がねぇ、俺はなある日、一人の罪人を詰った。

汚い僧侶崩れにしか見えなかった、だからよ、そいつが磔場に行く途中、

俺の家の壁で少し休んだ時にな、詰ったんだ。

それだけだった、当然のことだろ?」


僕は石の話を聞く。


「だがなそれが不味かったさ、その坊さん崩れは俺に神の罰が落ちるとか言ったんだ。

当然俺は鼻で笑う、でもな、それは本当だったんだよ。

俺は歳を取らなくなった、それで俺は死ななくなった」


「不老不死?」


「おおぅ坊主それだ、それで俺は世界を歩くことになった。

同じ場所にいられねぇしな、それにその坊さんが神の子だったんだとさ。

俺は重大な罪人よ、安住もなく、安穏もあり得ず、来る日も来る日も、苦しみ嘆き続けた」



「恨まなかったんですか?」


「恨んだよ、当然な、なにもかも、恨んだよ、

神を恨んで、神の子とやらを恨んで、何時も苦しんだよ。

何故、何故、ってな。で、ある日、道が見えた」


「道?」


「おうよ道だ、お前さんも見えたんだろう坊主。だからここにいる」


「道、これは道。道とはなんなんです?」


「さあな、だがこれは純粋に、そして地獄の底に行く程に深く深く祈ってようやく現れるだけさ

汝、求める者の前に現れし者、汝、求めし者の前に道を拓く者なり。

案外、神かもしれねぇなぁ」


石は呟く。それはどこからどう見ても石だった。


僕は首を傾げる。


「わからなねぇんなら、それでいいんじゃねぇのか?」


「そう、なのかな」


「おうよ、っと、アレだな」



アレが見えてきた。


アレとは何か


つまりは、道の終わりだ。



どんな道にも終わりがある。


人生にもあるように。


世界にもあるように。


どんな道にも終わりがある。







18




道の終わり、そこには窓がある。


大きな窓だ。その隣には紙。


その下にはペン。


世界の多種多様な文字で紙には何かが書かれている。




ドイツ語、古代ギリシア語。


古典ラテン語、中世ラテン語、教会ラテン語。


正則アラビア語。古代シリア語。


コプト語、中世ギリシア語。


サンスクリット語に、バーリ語。


ヘブライ語……などなど多種多様な文字が、書かれた言葉が宙に浮いている。



「これは漢文? 古い日本語も……道元、栄西、空海、隠元、白隠……他にも一杯あるね」


「おお、ラテン語にギリシア語こりゃ……ん、プラトン、プロティノス?ってマジかこりゃ……」



二人は読める文字を読もうと苦慮し、其処におそるべきものを発見する。




つまりこの窓の外にあるのは何か。



風景としてうっすらと光る何かの塊。


それは宇宙でさえもない。



いやそもそも光にさえも見えない。



道の矛盾が凝縮されたかのような言葉に出来ぬ「何か」



根源アルケーにして、美にして善。



門であり入り口である窓。


本来、人間の入ることが想定されていない門。




石は無言。


僕は喉をならして、頷く。



「行こう」


「ああっと、最後に俺の名前を」


「僕の名前もね」



と二人で紙に名前を書き込んだ。



束の間の逡巡。


あるいは覚悟を決めるための時間。


エンジンが温まる直前の車。


リボルバーが回る間の拳銃。




その間に僕は杖を握り込む。




『並ぶ者なき理性』


果たして僕には本当にそれがあったのだろうか、


それがあったのなら彼女を救えただろうに。




『我と汝』


僕はそれには遠い、真の関係を誰かと築けるほどに、


成熟していなかった、彼女の痛みを理解出来ていなかった。


あの言葉を理解出来ていたのなら、彼女を救うことも出来たのだろうに。



『愛』


それさえもなかった。


今、今、この瞬間気付く程だ。


僕は、あの子を、あの眼鏡の彼女を愛していたのだ。


それをあのときに自覚できていたのなら、僕は彼女を……引き戻せたのに。




杖に彫られたのは僕にはないもの。


あれば良かったもの、必要であった物。


未練の結晶か、あるいは必需品の提示か。


それはわからない。


ただわかるのは、それらはあのとき僕の下になく、


今も僕の下にないだろう、ということだけである。



それでも、僕は道を歩いた。


延々と、延々と、それでも諦めきれなかったのか。


――何を……?




思い出せない。


僕は、彼女の後を追ったのだろうか?


追った? つまり彼女がここに居ると思った?



ああ、遠い、遠い、なにもかもが遠い。


ただ思い出せるのは、彼女の後ろ姿、そしてその微笑みだけ。




悔やみ、僕はここに来た?


求めた? 道を?


彼女にしか見えなかった道を、僕ももとめた?


その先を、求めたのか?



確認しなければならない。


そう確認しなければ。なにがどうであれ、道は終わった。



眼の前には窓。



そして僕は手を掛ける。


石が囁く。


「……坊主、行くか?」


「……うん」




光さえ見えぬ、闇か、


光に塗れた、闇か。


矛盾した無、玄妙なる窓の内へと、窓の外へと。



僕は、踏み出した。







19



ああ、溶ける。



思考に意味がない。



言葉では言い表せない。


そこは全てだった。


そして何もなかった。


なにもかもがあった。


満ち足りた。


でも飢えた、だが愛はあった。




光を浴びすぎると人間は弱る。


闇を浴びすぎても人間は弱る。


そのどちらでもないもの。


無を浴びれば人間はどうなるのか。



愛を浴びれば人は竦む。


憎を浴びれば人は竦む。


ここは全てだ。


ああ、言葉にできない……



言葉にできない。



ただ分かるのはここでは僕は不要。



僕は、今、救われたのだ。










20


……


…………



目を覚ます。



視界が白い、なによりも眩しい。



そこは病室だった。



僕のことを見ていた看護師さんらしき人が、何かに驚いているのか目を見開いている。


そして、僕に何かを話しかけてるようだった。


分からない。何がなにやら。


でも僕は、生きている。


どうやら生きているらしかった。



長い長い夢を見てたような。


ただその全てが妙に現実味を帯びているような。


確かにあったことのように感じるぼやけた夢。


誰もいない山中に落ちた落雷の音を聞く者はあるのかと言うような疑問にも似た夢。



しばし夢中を泳いだ蝶の気分を味わう。



そうこうする内に、僕は己が誰であるか、


遠く失った全てのことを思い出し始めていた。



――そういえばなんで僕はなんで病室に寝ているのだろうか。



「……ちゃん、聞こえる? お兄ちゃん!!」


という声が耳元でするのでそちらを見る。


そう僕には妹が一人いた。


確かにいた。



その妹は、不思議と大きくなっていた。


僕と同い年に見える大きさ。


妹が順調に四年の時を経たらこうなるであろう姿だ。


しかし不思議なことに、妹はまるで少年のような姿をしていた筈だが、


どこからどうみても年ごろの少女と言った出で立ちであった。



「……」


聞こえてるよ、と声を出そうとしたが、不思議と声が出ない。


どうしてだろうか? というよりも先ほどから身体を動かそうとしても全く動かない。


腕が上がらない、足も、指も、腰も、背中も、頬も、喉も、


張り付いたように動かない。



妹の隣には父が居る。


女性の姿。女装した父はしかし美人だ。


まるで女性のような顔と、服装。


でも不思議と、前に目にしたときよりも、老けて見えた。


不思議だ。



ああ、不思議なことは多い。


疑問は絶えない。


僕は知らなければならないんだろう、それらを。




でも僕は、眠くなってきてしまった。



白い病室も、僕を覆うよう妹と父、そして看護師さんと、お医者さんらしい白衣の人。



ああ、でもまあ、いいか、



なにもかも知るには遅いと言うことはない。


今はそう、束の間の眠りに、


その身を委ねよう。







21




僕の退院が来月に決まった。


半年以上の長い診断とリハビリ。


まだまだ身体は弱ったままだが、僕はとりあえずの及第点を貰ったらしくて、


晴れて家に帰れることになった。



まず驚いたのは、僕は四年も病院のベッドの上で寝ていたらしい。


原因は飛び降り、高校三年生だった僕は、


高校二年生の頃に彼女が飛び降りた場所から飛び降りたらしい。



道が見えると、妹や父に言い残して、見事飛翔。


そのまま見事落下。


人間は重力に勝てないという多くのバードマン(空を飛ぼうと夢見た偉大なる先人たち)

が残したその教えを見事実証して、結果、頭蓋と全身に致命的な破損を負った。


奇跡的に命は助かったものの、重体、意識不明のまま、かれこれ四年間も眠りについていたらしい。


医師の説明によれば、一生このまま目が覚めなくてもおかしくはなかったとのこと。


まさに奇跡的な復活、奇跡奇跡のオンパレード。



ただ問題は、世間的には僕は人生を落伍しかけている自殺未遂者ということであり、


また僕が眠っていたせいで、多くの迷惑を父と妹に掛けてしまったことだろう。



ああ、一瞬の誘惑に負けたら、一生を棒に振る。




あれから僕は病室で色々な本を読んだ。


あの石の正体についても調べたし、


あの道についても少しづつだが理解出来てきたように思う。



時々、見舞いに来る妹をからかったり、妹にセクハラをしたり、


妹に殴られかけたり、病室の隣の人にグラビア本を恵んで貰ったり。


妹にそれがバレて、三日間、口を利いて貰えなかったり。


ともあれどうにかやっている。


日々は満ち足りている。





不思議と何もかもが見通せるような全能感に覆われている。



あの場所で僕は何を味わったのか、なにを感じたのか。


それは言葉に出来ない。



なぜエックハルトやベーメ。


十字架のヨハネにアビラのテレジア。


イブン・アラビーにルーミー。


ギリシアの哲人に禅僧たち。



名だたる神秘思想家の言葉が難しいのか。


要領を得ないのか、抽象的なのか。


それが理解できたような気がする。




それは説明できないのだ。


それは形に出来ない。


だから光にして闇、有にして無といった矛盾を孕んだ表現になってしまうのだ。



体験した僕だからわかる。


あれは言葉にできない。


あれは何ものでもないからだ。



あれはあれ以外の何者でもない。



つまりあそこに彼女――飛び降りたあいつは居なかったのだ。



あいつは居なかった。


半ば狂える存在を拒絶し、疑ったのは己の罪だ。


償いたい。僕は彼女を傷つけた。


道についてのことだ。



世界に道はある。


それは突如として現れた。


あれは彼女の言葉だったか。



僕は彼女を、助けたかった。


この世界において道が見える者は確かにいるのだと認めればよかった。


悔やんでも遅い。




救いを求める者も多いこの世界。


二十一世紀も終わりに近いこの世界において。


安穏に座することのできた僕が。



僕の常識で彼女を計るべきではなかったのだ。


僕と彼女は真の関係になれなかった。


我―汝の関係になれなかった。



彼女は、苦しんで、自らの身に起こったことに苦しんで、


助けを求めて、そして僕は……彼女を死に追いやった。



ああ、あいつの顔が浮かぶ。



自らの胸に浮かぶ苦い思いとともに。



あいつの微笑みが、眼鏡が、黒く美しい髪が。


浮かび、浮かび、眼の前に再生される。







そして僕は涙を流した。





ああ別れも楽しと言うけれど、


それ以上に別れは哀し。



涙、次から次へと、落ちていく。


頬を伝って、涙は落ちる。


シーツを濡らし、


頬を濡らし、


瞳を濡らして、


世界の全てを滲ませる。



意味のあるものなど、世界にはないのだ。


悟るべき愛を悟れなかった無惨な僕の末路。




それがこれだった。





ーーーーーーーーー


22




パンを恵んだ乞食が、翌日には撲殺される。



そんな世の中だけれども、僕は生きています。



高校は厳重に警備され、空を戦闘機が一日に何十回も飛行する。



時に世は世紀末。





僕は、墓標の前に立つ。



それはあいつの墓だ。


あいつと、あいつの母親が入っているらしい墓だ。



あいつの父親という名の死すべき悪鬼はまだ入っていない。


ただ、分かるのは、そう遠からずあの父親もこの墓に入るということだ。



僕は、僕の手が届かなかった少女のために。


出来ることをするしかない。


不当の悪意には正当な悪意を。


目には目を、歯には歯を。



少女の墓に手を合わせる。



しばしの瞑目。




僕は立ち上がって、空を見上げた。



珍しく青い空。


そこに、道はもう見えない。



あれはなんだったのか。



少女はどこにいったのか。


いつか答えが見つかれば、もしかしたらあの道はまた己の前に姿を表すのかも知れない。


僕はなんとなくだがそう思う。





道。


道の道。


道の道の道。


道は舗装された土。


敷き詰められた石。


街と街を繋ぎ、何時か終わりを持つもの。


それこそが道。



人は何故、道を歩くのか。


そこに道があるからだ。



万物の源にもつながると、


かつて古来の聖人は、道を、そう称した。






「さて、今日はなにをしようかな」



――父と妹を心配させるのも悪い、と呟いて、僕は歩き始めた。


道を歩いて、道を使って、墓地から降りる。



道を使って、家へと帰る。



僕の前には道が広がっていた。




どこまでも、どこまでも。



どこまでも、どこまでも。




――道は続く。











おしまい。



おしまい。



人物については何処まで分かりましたか?


大抵の場合、独特な名辞が使われた場合、実在の人物の隠喩ですね。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 非常に詩的な表現で考えさせられる文章です [気になる点] 何を元ネタにしているかどうかはともかくとして途中がちょっと冗長な印象を受けます エンターテイメントと自己表現(自己満足)の境目は…
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