終話
来た時と同様、網代笠姿のミツは、早朝、白白の宿場を発った。
既にここに留まる理由は失っていた。
―――あの子供と、約定を交わしてしまったのだから、是非も無い。
町に巡らされたアヤカシ避けの結界は、一通り修繕を終えている。
今、しばらくは保つ事だろう。
だが、あの甚大な力を持つアヤカシがこの町から姿を消した影響は小さくは無い。
まだ誰もその事に気付いていないが、いずれ、阻む者がいなくなった町に押し寄せるアヤカシどもを前に、その事実を思い知る事になるだろう。
***
左肩の傷が疼く。
萩におはす常磐の山神の神通力を借りなければ、きっといつか裡から喰われる予感は確信に変わりつつある。
―――不思議な心地だ。今までそんな事を思いもしなかったが、今は確かに人を食いたいと思う。
齢数百を重ねた妖孤に身体を奪われた師は、ついさっきまで言葉を交わしていた時と何も変わらぬ様子のまま、少女に向かってそう告げた。
―――…寛斉様。
―――それでは…それでは、私はあなたを殺さなければなりません。
そして、神剣で師の首を落とした。
最期の悪足掻きとして彼女の左肩に喰らいついた妖孤は、そこから少女の身体をも奪わんと潜り込んだが、ミツは逆にそれを利用して己の裡に封じ込めた。
人を襲い来るアヤカシは斃さねばならぬ。
彼女はアヤカシに準じるほどに強く―――返り血を浴びて血濡れた少女は酷く美しく―――人々は恐れ、化け物と呼んだ。
彼女は自分がアヤカシではない事を証明するかのように、斃し続けていた。
―――だが。
誰に何を言われようが、正しい道から外れようが―――既に魂魄は喪われ、たとえその身がアヤカシに変わり果てようとも。
―――殺したくなかった。
どれほどの人の命が奪われる事になろうとも、関係無かった。
いっそ、あなたが人を食べたいとおっしゃられた時に、私を食べていただければ良かった。
そうすれば何も見なくて済んだ。満たされたのに。
あの最期の台詞は真にアヤカシのものであったのか。
私があなたを討つ選択をすると知っていて、あなたはそんな事をおっしゃられたのだ。
―――退治屋であれ、ミツ。
ただアヤカシを屠る事に囚われる獣ではなく、退治屋であれ、と。
―――わしは選ぶ。
酷い後悔をした。
だから、救える命は救うと決めた。自分のしたいようにする、と。
***
萩へと向かう道中、見つけた茶屋の軒先で、ミツは湯呑を握る指先に力を込めた。
網代笠の影に隠れた無表情が殊更に冷気を放っている。
「―――何故、お前がここにいる」
軒先に置かれた同じ長椅子に座った相手―――正体はアヤカシである男が隣で同じ柄の湯呑に口をつけている。
忘れるにはまだ早すぎる顔だ。
「偶然に決まっているじゃありませんか」
にこやかに嘯く男に、ミツはうろんなばかりの目つきで睨む。
「それとも嫌がらせとお答えした方が納得されますか?
…ふふ、冗談ですよ。退治屋のあなたに興味があるだけです」
以前に口にしたものと同じ、こちらには到底理解できぬ主張を返す、酔狂なアヤカシ。
退治屋とはその名が表す通り、アヤカシ退治を専門とする生業を指し示す事を失念しているのか。
いや、それを承知でこのアヤカシはここにいるのだと、何故か、ミツは理解していた。
「アヤカシが退治屋に近づいて何をする気だ」
「あなたの事が知りたいだけですよ。
―――もっと深く、親密に。求めてほしいと望んでしまうのは、私にとって許されざる罪でしょうか」
風見の名を持つ艶やかな青年姿で、年頃の娘が頬を染めるような口説き文句を口にすれど。
―――だが、彼女は彼が絶句してしまうほど、無頓着だった。
「意味がわかるように話せ」
情緒も婉曲表現も一切通じない。ちらりと一瞥をくれてから、一言で切り捨てられる。
風見は苦笑した。
「ねぇ、退治屋殿」
「何だ」
食べる事すら時に面倒臭がる割に、話しかければ、律儀に返答を怠らないこの退治屋の少女。
「あなたの名を私に教えていただけませんか」
―――退治屋とアヤカシ。
一人の幼子によって結ばれた奇妙な縁は、それから数十年にも渡り、途切れる事はなく。
やがて終わりを迎える時まで、続いていく。
次話は本編に関わる蛇足です。読まずとも支障はありません。