漆話
不意に途絶えた感覚に、動きが止まった。
「―――千江…?」
呼びかけようとも、応える娘の声が無い。
いつも満面の笑みで駆けつける、人の子供の姿が見当たらない。
着物の裾を払うと、黒髪をたなびかせて静かに振り返り、天狗の青年はすっと目を細めた。
***
―――人は興味深い。
彼は天狗という種だった。人ではない。人は彼をアヤカシと呼ぶ。
天狗という種に限らず、アヤカシは総じて個体として完結し、他者を必要としない生き方をするものだ。
人のように群れを成し、愛し合う一方で憎み合うような矛盾に満ちた生は考えられない。
寿命自体の尺が異なるからかもしれぬ。
数百の時を生くる身からすれば、人の生は目まぐるしくも実に面白きものだった。
とりわけ興をそそるのは、変幻自在の恋情か。
女に化けては男を惑わせ、男に化けては女を蕩けさせて、醜さも儚さも啜り込む。
極彩色の万華鏡の如く、色とりどりにうつろう人の心。
快楽、悲哀、欲望、愛憎、美醜。
つつけばゆらゆらと、触れ動く天秤の針。
どちらに傾くか、予想もつかぬ。
二つの顔を自在に使い分け、思いのままに人の情を引きずり出しては愉悦を貪る。
それも少々興が冷めた頃―――また、注目するに足る相手を見つけた。
一人は人の子供。枯れ井戸の底から気まぐれで拾い上げた女の童。
アヤカシだと正体を明かしても怯む様子もなく、一途に自分を慕う、気性の激しい幼子。
人の子など脆いもの。
こちらの気が変われば容易く捻り潰せように、それでも良いのだと子は言い切った。
あのままずっと枯れ井戸の底にいるよりは、いっそ殺めてもらえる方が良いのだと。
その方が清々すると、胸が透くような晴れやかさで笑う。
今もう一人は、退治屋の女。かつて対した退治屋とは比ぶるべくもなく―――強い。
自分の命を脅かされた事実も新鮮ではあった。
退治屋は古来よりアヤカシに挑んできた術者の末裔、こちらの思いもよらぬ手を隠し持ち、油断はすなわち命取りになる。
元来の敵同士、互いに相容れぬ事は火を見るよりも明らかだったが。
―――ところが彼女は刃を引いた。
横槍が入ったとはいえ見逃すなどと、退治屋にあるまじき予測不能な行動だ。
そして、今も彼に刃を向ける事はない。おそらく、彼を滅す事など容易い事であろうに。
興味と同時に、今まで味わった事のないような無視できぬ何かが身の内を満たす。
その感覚は不快ではない。それだけは理解していた。
―――その名を、いつか、呼びたいと願う。
その理由を彼はまだ知らなかった。
***
花は匂へど散りぬるを。
―――あさきゆめみじ、けふ越えて。
対の屋は既にもぬけの空だった。
人里の遊郭で女を抱く事を覚えた同族が気ままに住み着いたのを好きにさせておいたが、つけ上がらせてしまったらしい。
軒先に落ちていた、千切られた山吹の袖を手に取り、彼は物憂げに吐息をこぼした。
「―――あの子供をどうするつもりだ」
自分の様子に何を感じ取ったか、黙って彼の後をついてきた退治屋の少女が、淡々と問いかける。
「そうですねぇ」
風見は微笑した。
「気まぐれで拾った娘ですからねぇ。つくづくと運の無い子だ」
誰に謀られたものか、アヤカシすら近付かぬような枯れ井戸に放置され―――今度は狐狸の類と変わらぬ天狗の玩具と成り果てる。
あの気丈な娘もさすがに泣いているだろうか。
それとも既に泣く事すらできぬ有様となっているか。
とりとめもなくそのような事を考えて、彼は苦笑した。
「…助けに行かぬのか」
「私が?」
退治屋の少女はただじっとこちらを見つめる。
あの黒曜石のような妙なる光を宿すその目で。
「アヤカシに人と同じような情は存在しませんよ」
そうとだけ風見は応えた。
あの子供が死のうが生きようがどうでも良いのは本当だ。
ただ、変化の無い日々の退屈を紛らわせるために、そばに置いていた人の子。
興味以上の感傷を覚える道理が無い。
―――間もなく、術もとける頃合だった。
だが。
「―――私のものに手を出した愚行の報いは受けていただかねばなりませんね」
冷え冷えとした声で呟くと、美しいばかりの面を凄絶な笑みで彩る。
彼は変化の術をといた。
本来の姿である化生の身に立ち戻る。
漆黒の羽根が背から大きく広がり、細い雨のような真直ぐな黒髪が翻る。
袖の無い上の衣から覗くしなやかな腕を前で組むと、悠然と小首を傾げ、嗤った。
惜し気もなくさらした妖気に気付いたものらしい、他の天狗たちが慌てて逃げ出さんとする気配を感じ取ったのだ。
―――だが、全ては遅い。
その身に負った背丈ほどもある羽根を舞わせると、彼は一路飛び立った。
―――天狗が屋敷に帰参したのは日が暮れた後だった。
縁側に面した廊下に座っていたミツの元に、人の青年の姿に変じた彼が静かに歩み寄ってくる。
その腕の中には、既に無機質な形代以上の意味を持たぬ、童女を模した人形が抱かれていた。
あの溌溂としたまるい瞳は炉辺の石ほどの光も宿さない。
風見はそれを愛しむように、冷たいばかりの頬を撫でると、よく子供が花を摘んでいた緑の褥にそっと下ろした。
黙って見守っていたミツの視線がその後方についと流れる。
振り返った風見は僅かに苦笑した。
「えぇ、まだ、ここに残っているのですよ。何処までも愚かな娘だ」
そのような言葉を口にしながらも、彼の双眸も声も労わるかのように穏やかなばかりだ。
かつて人の子であったそれの声ならぬ声を聞いた退治屋の少女も、珍しく吐息のような微笑をこぼす。
わかったとでも伝えるように、一つ、小さく頷いた。
餞だった。
夜空に真白の月がかかっている。
人が夜道を歩くにはいささか頼りない、あえかな光。
だが、彼女の導としては十分だろう。
風見が手招き、指し示す。
「さぁ、もうお還りなさい。私の生はお前と違って永い。いずれ輪廻の果てで再びまみえる事もあるでしょう」
このアヤカシはきっと否定する事だろう。
けれどもそれは、優しいとしか表現しようの無い声音だった。
留まっていた気配が消える。
それを待って、天狗は用を成さなくなった形代に火をつけた。
―――送られる事のなかった彼女に捧げられる、それは違える事のない葬送だった。




