伍話
残酷描写ありです。
奥の着付け部屋へ強制的に戻されたミツは、帯を解かれ、苦労して袖を通した着物を一から直されるはめになった。
前のだぶついた部分を端折られ、背中のたわみも伸ばされ、不恰好そのものだった姿は、器用なアヤカシの手によって瞬く間に整えられていく。
この天狗がどれ程の時を生きているのか知らぬが、その手つきは淀みも無く、見事な職人ぶりを発揮していた。
憮然として、ミツはされるがままになった。それほど風見は拒否を許さぬ脅迫的な微笑でミツを押し戻したのだ。
「まったく、あなたはとても女性とは思えませんね」
後ろに廻って、てきぱきと帯を調えながら、風見が呆れた風情で言う。
「顔の造りは極上なのに、微塵もあなたを抱く気になれませんよ。どうしてでしょう」
「わしが知るか!」
何という質問を娘にしてくるのか。
それくらいで顔を赤らめるほどの初心ではないが、それでも堂々と口にすべきでない言葉だという事はわかる。
「これでいいでしょう」
あちこちを確かめ、てきぱきと着付けを終えた風見は、いたく満足そうに頷いた。
「髪はどうしましょうか」
「要らん。面倒はもういい」
自分でもいささか情けなく思うが、今はアヤカシと一晩やり合うよりも消耗した心地がする。
「それでは髪を下ろしても構いませんか」
ミツの髪は長い。通説では女の髪には霊力が宿るとされ、ミツ自身も特に障りを感じなかったため、腰元を過ぎたあたりで揃えていた。
普段はうなじで一つに括っているのだが、風見はその紐をとき、黒髪を梳ってそのまま背に流した。
店の中で大人しく待っていた千江の前に出ていけば、幼子はつぶらな瞳を瞬いた。
それから、くしゃっとしかめ面になる。
「…すっごいぶさいく」
ぶすりとけなされ、ミツは「そうか」と言った。
「あたしはすっごいぶすっていってるの。なんで怒らないのよ」
「…? そう思ったのだろう。わしが怒る事ではないと思うが」
素直に答えれば、千江はますます嫌な顔になる。
その後ろで、風見が声も無く笑っていた。
「…うそよ。すごくきれい。あんたってぶさいくでいけ好かないけど―――きれい」
そう言って、何故か、ミツを見上げて子供は泣きそうな顔になった。
ミツが僅かに瞠目すると、我に返ったように、押し黙ってそっぽを向く。
その小さな肩を、後ろから風見が手を廻して抱いた。
「それでは芝居見物に行きましょう」
三人は、そうして、夕闇の漂う外に出た。
「本当にいいんですか」
念を押されても、千江は首を横に振り続けた。
千江は気に入りの山吹色の着物から着替えなかった。
髪だけ風見に手を入れられ、可愛らしい花飾りを差している。
「風見さまからいただいたものだもん。あたしはこれがいいの!」
頑固に言い張る子供の頭を、風見はそっと撫でた。
「おかしな娘ですね。今日の着物も私が贈る事に違いはないでしょうに」
「…ちがうもの。これじゃないとだめなんだもの」
あの女のついでのように選ばれた衣ではなく、これは風見が自分の為だけに選んだもの。
幼いとはいえ、自覚している娘の心で―――千江はそう願う。
―――憶えている。
嗤いながら突き飛ばされて、落ちたあの枯れ井戸の底で、必死の呼び声に応じた一筋の声音を。
―――誰か、誰か、たすけて!
数え切れないくらい、声が掠れて音にならないほどに叫んだ。
井戸に落ちる際に打ち付けられた節々が痛み、涙が零れそうになるも、それを持ち前の気丈さで堪えて。
こんな辺境の外れに誰が通りかかるものかと知っていても。
―――誰でもいい、この声を聞き届けてくれるなら。化け物だって、アヤカシだって構わない!
そう言い放った時だ。
―――そこに誰かいるのですか。
井戸の底から救い上げてくれたのは他でもないこの美しいアヤカシだった。
気まぐれでも、酔狂でも構わない。
その時から千江は風見―――永音のものになったのだ。
――ーその芝居見物からの帰り道。
幕で厚く覆われた芝居小屋から外に出れば、すっかり辺りは宵闇に沈む時分だった。
といっても、まだ人通りの絶えない目抜き通りも、高い白壁で囲まれた花街も、あかあかと灯明が焚かれて酷く明るい。
光の輪が幾つも重なり合って、夜道を照らし出していた。
風見と千江が仲睦まじく並ぶ後ろを歩くミツには、時折、舐めるような視線が注がれるも、当の本人は無頓着だった。
さりげなく風見が、舌なめずりして手を伸ばそうとする男たちを、恐ろしく冷ややかな視線で牽制しているのにも気付かない。
花街の大門からは鼻孔に絡みつくような甘ったるい独特の香が客を誘ってい、ゆめとうつつの境を曖昧とするようだ。
酒臭い赤ら顔をした商家の若旦那らしき男とその連れが、すれ違いざまに花街の大門をくぐっていくのを、退治屋の少女はそれとはなしに見送った。
―――。
不意に、その香に混じったただならぬ気配を嗅ぎ取り、ひたりと歩みが止まる。
そのすぐ後だ。
―――凄まじい悲鳴が上がった。
「アヤカシだあぁぁ!!!」
舌が縺れたような叫びが知らせた一つの単語、その意を解した周囲は、たちまち混乱の渦に叩き落とされた。
「嘘だろ!?」
「ひぃいいぃ!」
「逃げろ! 食われるぞ!」
「嫌だぁぁ! 殺されるぅぅっ」
―――出たか。
誰もが真っ先に逃げようと右往左往する中、向かうべき方角を見定めると、開ききらない大門から溢れ出てくる人波の隙間から、ミツは大門の内側にするりと入り込んだ。
花街を左右に割る一本の大通り。その向こうから誰しもが必死の形相で門に押し寄せてくる。中にはどさくさに紛れて足抜けしようとする色町の女もいたが、ミツの知った事ではない。
着物を蹴立てて奥へと通りを駆け抜けたその先に、ほどなく目当ての相手は見つかった。
「―――霊鬼か」
外見は黄色い肌をして襤褸をまとった男のようにしかみえない。だが、その実態は人ではない。
花街の客だろう、小太りの男を引き倒して首筋に夢中で喰らい付いている。あれではもう絶命しているだろう。投げ出された白くぶよりとした指先だけが血を吸われる度にぴくりと痙攣していた。
その周りに二人の男が同じような有様で倒れている。
この短時間で三人を餌食にしたものらしい。
通りの両端で盛大に焚かれた灯りの火ばかりが虚しく辺りを照らし出していた。
ミツは帯に挟んでいた鞘から剣を引き抜いた。風見に無粋だと散々文句を言われたが、手放さずにおいて正解だ。
べたべたと男の死体を触って喜んでいるようにみえる霊鬼に向かって、無言で剣を構える。
すうと息を吸い込んで、始めた。
「我、勧請、奉る、疾く、乞い願う、東に知るは木、南に出ずるは火、西に打つは金、北に溢るるは水」
言霊に応えて、神剣に宿る霊力が轟と靡く。
常人には視えねども、苛烈と評するに相応しい神気は少女の凛とした美貌を銀に染め上げ、やがて刀身は目が眩まんばかりの白に輝いた。
「―――いざ」
低い呟きと共に踏み出す。
しつこく男の体を弄んでいた霊鬼が気付いて顔を上げる頃には―――既に手遅れ。
振り上げられた刃が綺麗に弧を描く。
風が唸った。
振り返ろうとしたままの首が、次の瞬間、宙に飛んだ。
鈍い音を立てて、首が地に落ちる。それを待ってか、頭部無き胴が失った首を探し求めるかのように揺らいでから、血を飛沫かせて地面にのめった。
―――全てはあっという間の出来事だった。
ミツは無造作に花街の行灯を手に取ると、アヤカシの屍に向かって投げつけた。
油をかぶり、炎に嘗め尽くされて灰と化していく様を見届けると、神剣から血潮を払い落とす。
アヤカシの骸を見つめる退治屋の少女の眼差しは何処までも冷徹だった。
恐れもなく、怒りもなく、ただ、アヤカシを絶つ。それだけのために存在するかのような化身。
それだけだというのに―――その姿は目を離せぬほどにうつくしい。
風見が選んだ衣の色は濃色の紅だった。影と交じり合うほどに深い、深い、あか。
夜目にも白い頬にどす黒い真紅が散り、鮮血よりもあかい朱唇が引き結ばれている。
緋炎の前に全てがあかく染め上げられ、混然と相まって、そのうつくしさは凄味を増し、おいそれと近寄り難いほどだった。
―――何故、こうも揺さぶられるのか。
「退治屋殿」
ただ目線だけをくれた少女に、彼は嫣然と微笑みかけた。
「私の見立ては正しかったようですね。あなたには真紅がこの上なく似合う」
この期に及んで着物の寸評をするアヤカシに、酔狂なと言わんばかりに少女の表情が呆れたものになった。
人が集まってくる頃合だと察すれば、面倒事に巻き込まれる前にと、二人は揃って同じ方角へと踵を返した。