犬に咬まれたアドベンダ
アドベンダは道のど真ん中で犬と睨み合っていた。
学校帰りの彼女は、分厚い教科書の入った鞄をそろそろと肩から下ろして、右手で肩ひもを握りこむ。当然、目の前のヤツへの防衛策の一環だ。
砂利を敷き詰めただけのこの道は、風が吹けば乾いた土が舞い上がる。俄かに視界を遮るその光景は、まるで西部劇の決闘シーンのようだ。
しかし道の両脇には延々と牧草地が広がっている。細く長い牧草がそよそよと風に揺らされるのどかな風景は、アドベンダと犬の間に漂う緊張感に若干水を差していた。
アドベンダは知っている。この牧草が犬の背中の上まで長く育っているのは、ひとえにこの土地の所有者の無精故と。家畜を放牧しないのかと問われると、その家畜を飼うのも面倒だと言っている事も、だだっ広い家畜舎には馬が二頭しかいない事も知っていた。
今はそんな事よりもこの状況をどうにかしなくては、そう思う。ぐっと奥歯を噛み締めて、アドベンダは駆け出す準備をした。
幾ら待っても助けなど来ない。
何故なら、この道の先にはアドベンダの住む家しか無いからだ。
馬鹿みたいに広いこの土地を所有しているのは、今現在の彼女の保護者であり、同居人のロイなのだ。母親同士が従姉妹の、再従兄にあたる青年だ。
アドベンダが家に帰るには、この犬を打ち倒すか振り切るか、その二択しかない。
彼女が選んだのは後者だった。
左手を胸に添えたアドベンダには切り札がある。……言っておくが、右手に持った鞄では無い。
「ルジリ、ライ……」
古語で疾風の魔法を編み込んだ。
その力を借りて、犬より早く駆け抜けようと言う作戦だ。
疾風の魔法は、魔法学校上級学年のアドベンダには容易い魔法だ。平凡な外見とは裏腹に、魔力も豊富で学力も高い彼女は、特待生として実家から遠い国立魔法学校に通えるくらい優秀なのだ。
が、問題が一つ。
いざ、と一歩踏み出した瞬間に、アドベンダは砂利に足を取られた。
「ふぎゃん?!」
どうしたらそうなるのか。彼女の足はぐにっと、見ていて痛そうな方向に曲がった。
まあ、バランスを崩して、見事にこける。
ただし、地面に辿り着く直前に袖が引っ張られて、何とか尻餅を着く程度で済んだ。
ふうっ、と息を吐いたアドベンダが救世主の方に視線を向けると、そこには彼女の袖を噛んで引っ張っている犬がいた。
相手は勿論何も言わないが、思い切り呆れているという事がアドベンダにはわかった。その獣の瞳が、蔑みの直前くらいの色を映しているのだ。
「う、ううう…………」
呻くアドベンダに見向きもせず、犬はそそくさと彼女の背後に回った。
彼女は犬の動きに気がついて鞄を振り上げるが、時すでに遅く、襟首をがっつりくわえられていた。
そのまま犬は牧草地の方へとアドベンダを引きずっていく。
「ふにゃあああああああああああ――――!」
喚く彼女を宥める様に、長い尾が細い二の腕をするりと撫でた。
再度言うが、持ち主の無精によってこの牧草地は犬の背中を超える程長い草が生い茂っている。つまり、連れ込まれたアドベンダはすっかり隠れてしまうのだ。
とは言え、この道の先にはアドベンダと再従兄しか住んでいない家があるばかりだ。何にせよ誰も通りはしない。
アドベンダはピンチだった。
「にょああああああああああああ――――!」
とか叫んでいる間に太い木の根元に辿り着いていた。
踏みしだかれた草の様子から、先ほどまで犬はここで昼寝をしていたようだ。
アドベンダの襟を離した犬は、彼女に抵抗の「て」の字も許さず上に乗り上げた。
器用に少女の肩に前足を置いて押さえ込む。
肩関節が動かないから、必然肘から下も上手く動かない。後は足だとばたつかせるが、後ろ足に押さえ込まれる。そんなに大きい犬でもないのだが、体重は結構あるのだ。
アドベンダは必死でふっ、ふっ、と腹筋に力を込めるが、何の効果も見いだせなかった。
そして、ぺろりと唇を舐められた。
硬直して瞳を見開いた彼女の目前に、半開きの犬の口がある。
そこからのぞく赤い舌が、アドベンダの唇を何度も何度も舐めてくる。
その湿った生暖かい感触に、アドベンダの頭は真っ白になった。
やがて犬の口がより近づいてきて、牙の堅い感触が唇の端に当たった時、ようやく彼女は我に返った。
肩に置かれていた犬の前足が、かがみ込む為になのか、肩から下ろされていた。自由になった両腕で抵抗を試みようと、アドベンダは犬の顔の横から耳へと両手を伸ばした。
ところがその両手に伝わる感覚は、艶やかな毛皮から滑らかな肌へと変わる様子を捉えた。
そう、『変化』したのだ。
長い鼻面は見慣れた男の顔へ、長い毛に覆われた四足歩行の体は引き締まった男の体へと変化を遂げた。
犬の耳を掴んで引き剥がそうとしたアドベンダの両手は、良く知った男の肩に突っ張る様に押し付けられていた。
お約束通り、裸の肩に。
「……ああ。相変わらず、うまー」
アドベンダを押し倒したままの姿勢で、男は、再従兄のロイは目を細めて言った。
ぶるぶると体を震わせて、顔を真っ赤に染めた彼女は叫んだ。
「フローダーぁぁぁぁぁぁぁ! !」
意味するところは、古語で「服を着ろ」。魔法使いが使えば、そのまま衣服の形成を為す。
瞬く間にロイの体を簡素な衣服が覆い隠す。
「おお。見事見事。この間より着心地がいい」
両手を地面についていなければ、確実に拍手をしていただろう。
どけ、どけ、とアドベンダが暴れるのに、ロイは全く気にするそぶりも見せない。
このロイという男。国でも指折りの優秀な魔法使いである。
だがしかし、欠点と言うものは誰しもにあるように(アドベンダのような究極のドジとか)、この男にも当然それはあった。
何と言っても、研究熱心が過ぎるところだ。
研究の方向性が人として全うなら誰も欠点とは呼ばないが、斜め二十三度程曲がっていると『傍迷惑』以外の何物でもない。
ほんの三週間程前まで、彼は獣化の研究に取り組んでいた。誰に必要とされた訳でもないのに。
切っ掛けは、アドベンダが実家に残して来た愛犬を懐かしがっていた事だった。小さい時はアドベンダのベッドで一緒に寝ていたとか、成長するといじめっ子から守ってくれたとか、そんな他愛も無い話だった。
思うところあって、ロイはその後から獣化の研究をし始めたのだ。
幾つかの魔法の組み合わせで自在に変化できるようになるだろうと目算が立った翌日、彼は自分の研究を自分で試した。
その時、アドベンダは夕食の支度をしていた。「ぽとぽとポトフ〜。美味しいポトフ〜」とポトフの唄を歌いながら、落とした木の皿を部屋の端まで蹴り飛ばしてしまった瞬間、異変に気がついた。
強い魔法は魔法使いの感覚に揺さぶりを掛けてくる。
揺さぶられた彼女は、原因はロイだと確信して、研究室のある離れに駆け込んだ。
開いた扉の先には、呆然と立ち尽くす再従兄の姿があった。
どうしたのかと聞けば、「魔法に失敗した」と言う。獣化出来る筈なのに何の変化も無いと言うのだ。
むしろアドベンダは「何も無くて良かったじゃない」という安堵の思いでいっぱいになっていた。
異変は、次の日起こった。
朝起きて来たはいいが、ロイの顔色が悪かった。前日の大規模な魔法の行使の為だ。
だからアドベンダは彼を無理矢理ベッドに押し込んで、毛布を頭から掛けた。
顔は出してやろうと毛布を引き下げると、そこにいたのは犬だった。
「ろ、い……?」
聞けば、うん、と頷いてみせる。どうも話せないらしい。
そして、じーっとアドベンダを見つめてきた。
物凄くじーっと見つめてきた。
「………………う?」
怯んだ彼女の袖を噛んで引き寄せてくる。
彼はおもむろに、ベッドの脇に膝をついたアドベンダの唇をぺろぺろと舐めてきたのだ。
やっぱり牙がアドベンダに触れて、「咬まれるっ」と目を瞑った瞬間、ロイは人間の姿に戻っていた。
その後のロイの研究で、彼の体は魔力が枯渇すると獣化するようになってしまったらしいと判明した。
そしてどうもロイ犬は、魔力を食事として認識していると言うのだ。獣の鼻は魔力の気配を香しく感じ、獣の舌は魔力を美味に感じる。
豊富な魔力を秘めたアドベンダは、ロイにとって嗅いで嬉しい、食べて美味しい『お食事』となってしまったのだ。
だから彼女(の魔力)を食べることで、元の人間の姿に戻れるといった寸法だ。
「ほら、悪かったって」
ようやっとアドベンダの上から立ち上がったロイが苦笑しながら手を差し出して来た。
かれこれ三度目の敗北を喫したアドベンダは、悔しさに唇を尖らせつつもその手をとって立ち上がった。
ロイは彼女の背中についていた草をほろってやる。
大人しく身を任せていたアドベンダだったが、ぽつりと呟いた。
「……ロイは可愛く無い。ナーリの方が可愛い」
ナーリとは、アドベンダご自慢の愛犬だ。
その一言に、ロイはぴたりと動きを止めた。
アドベンダの背中に添えられていた手をゆるゆると肩の方へ移動させた。
その慣れない感覚に肩を揺らしたアドベンダを覆いかぶさる様に見下ろして、彼は唇を歪ませた。
「可愛くなくて結構だよ」
目が、笑っていない。
アドベンダがそう思った時、人間の唇が彼女の唇を塞いでいた。
離れていく時に、ちろりと唇を舐められた。
硬直したまま、一回、二回、三回……、と動揺を静める為に瞬きの回数を数えるアドベンダに、彼は「大丈夫」と言った。
「大丈夫、大丈夫」
ぽんぽんと肩を叩きながら、アドベンダにと言うよりは自分に言い聞かせる為に繰り返す。
「アディ、卒業までは待ってやるから」
最後の一言は、裏の無い微笑みを添えて言う。
アドベンダはその台詞にぎこちなく頷いた。取り敢えず卒業まではこの再従兄は安全なのだと、自分を誤魔化す為に曖昧に笑う。
別にロイの事は嫌いでは無いが、はっきり言って今の彼は困った事をしでかす傍迷惑な再従兄でしか無い。
今はこのままの状態が続くほうが良かった。
帰ろう、と言われて繋いだ手に、そっとそんな思いを込めてみる。
子どもの時のように自然に繋いだ手が軽く握り返されて、ロイは少し嬉しかった。
ロイに寄せられる信頼が伝わって来たからだ。
だからこそ、真実はアドベンダに隠し抜かなくてはいけなかった。
獣化はロイの意思で自由にできるなんて。
確かに魔力は美味しい『食事』だけど、アドベンダのしか欲しくないなんて。
そして、獣化した時のあの解放感の前では、今したばっかりの約束を守りきる自信が無い、なんて……。
ふと青い空を見上げて、ロイは思った。
――そろそろ結界の強化をするべきかもしれない。
嵐にまぎれた雷が降ってくる前に。
最後に、アドベンダの父は『瞬雷』の異名を持つ大魔法使いだったりすることを心に留め置いて欲しい。
短編、いかがだったでしょうか。
物足りない恋愛模様かと思いますが、後はロイに頑張ってもらうしかありません。笑。
アドベンダ父の妨害を乗り越えられるように祈るばかりです。
以下は活動報告に書いた後日談の転載になります。********
雷は、晴れた日にやってきた。
呼び鈴に応対すべく玄関扉を開いたロイの前に、男が立っていた。
濃い髭を蓄えた彫りの深い顔、ロイの二倍はある体格(ただし横方向)は見間違えるはずの無い印象深い容貌だ。
「お久しぶりです。アイゼル殿……」
ロイの丁寧な挨拶に鷹揚に頷くこの男こそ、アドベンダの父にして、『瞬雷』の異名を持つ大魔法使い、アイゼルだった。
ロイは自分の失策を呪った。
空から降ってくる災難(雷)を回避する結界は組んでいたが、歩いてやってくる親戚を排除する結界は組んでいなかったからだ。
久方ぶりに会った父を前に上機嫌のアドベンダとは正反対に、ロイは気が気ではない。
先ほどから、アドベンダがロイの話を口にする度に居間の家財道具が一個ずつ黒焦げになっていくのだ。
しかし彼女は全く気がつかない。
感覚を揺さぶる程強い魔法ではないことと、アドベンダが振り返ったときには元の状態に戻っているからだ。
例えばアドベンダがロイの寝起きの悪さを笑うと、彼女の背後で雷が走り花瓶が花ごと炭となる。ところが彼女がそちらを振り向く時には花も花瓶も炭化前の状態で麗しく咲き誇っているのだ。
――素晴らしい魔法の無駄遣いだ。
ロイは心中で毒づくが、嬉しそうなアドベンダの前では何も言えない。
アイゼルの方も娘の話には始終穏やかな表情を崩さない。
彼が帰ると言い出すまでの三時間が、ロイにとってはどれほど長く感じた事か……。
結局アイゼルは娘の顔を見に来ただけ、という風にあっさり帰って行った。
それが無言の警告であることを、ひしひしとロイは感じていた。
ところが……。
「…………やられた」
夕刻、研究室に入ったロイは頭を抱えた。
一部屋まるごと、真っ黒焦げだった。
良質の炭と化した机の上に、真っ白い紙が一枚載っていた。
手に取って、彼は絶句した。
そこには、獣化の解除魔法の魔法陣が見事に描かれていた。