「あなたが愛したのは私ではなく、聖女という立場です」〜愛を知らない聖女は、やがて家族の愛を知る〜
「聖女マリエル。あなたはこの国の希望。ですから、皆の規範となるように規律をしっかりと守り、御勤めをお願いいたします」
教皇様は今日も穏やかな笑みを浮かべる。
そのお声がけにより、今日もまた、私の仕事が始まる。
祭壇に向かい、ふぅ、と、ひとつ息を吐く。
変わらぬ日常だ。
神殿で祈り、病や怪我で苦しむ民を魔法で癒し、孤児院を回り説法を行う。
朝の祈りが二時間、癒しが二時間、孤児院が移動を含めて二時間。戻って夕方の祈りがまた二時間。
それから夜は様々な奇跡の研鑽をできる範囲で行う。
私に課せられているのは、そんな毎日だった。
私は物心ついた頃から、神殿でこの暮らしをしている。
親の顔も覚えていない。
だけれど、それが私にとっての普通であり、人生だった。
何故なら、私は『聖女』だからだ。
朝の長い祈りを終える。
目を開けると、私はステンドグラスからこぼれ落ちる虹色の光に包まれていた。
朝のこの時間になると光が入ってくるのだ。特にこの季節は煌びやかに映る。
この、私にとっては毎日の光景を、神々しい聖女の姿だと人は評した。
跪いていた祭壇の前から立ちあがろうとしたその時だった。
遠くから近づく靴音が、神殿の静謐を破る。
振り向くと、そこには婚約者のクルークス第二王子がいた。
「やあ、マリエル。今日もお祈りお疲れ様。君の素晴らしい御勤めのおかげで、我が国は平穏を保てているよ」
「いえ、私の貢献など、微力にすぎません」
柔らかな微笑みを湛えるクルークス様に、私は形式的な礼を返す。
「今日も君に会えて僕は幸せ者だ。これから『癒し』の勤めなんだろう? 大変だけど頑張ってくれ」
「はい、精一杯の努力をいたします。わざわざお越しいただいたのにもう行かねばならず、申し訳ございません」
「いいんだ、僕は君の婚約者だけど、同時にこの国の王子なのだから。困っている民を優先してくれ。また夜にでも。愛しているよ、マリエル」
クルークス様は、よく愛を口にする。
とても気軽に、とても気安く。
愛とは、何なのだろう?
私はその答えを知らない。
けれどこれが愛なのならば、私には必要がなさそうだった。
「ご配慮いただきありがとうございます」
改めて一礼し、癒しの部屋へ向かう。
私は、この『癒し』の時間が、好きでもあり、嫌いでもあった。
聖女が聖女である理由。それは、この『癒し』を代表とする数々の奇跡を起こせるという能力だった。
数百万人に一人のみ、生まれ持つ才能。
それを持っていたのが私だった。
だから、私は三歳で神殿に預けられ、この暮らしをしている。
困る人々を癒すと、相手も、私も笑顔になれる。だから好きだった。
しかし、癒しの奇跡には一人あたり十分ほどかかり、二時間では十人から十五人ほどを癒すのが精一杯だった。だから、毎日溢れる癒しの希望者のごく一部にしか対応できない。今日はお終いだと断られる彼らの絶望する顔を目にしなければならないのが、嫌いだった。
それでも、私は毎日二時間、癒しを行う。
なぜならば、私はそれができる、聖女だからだ。
クルークス様とは、初めて会った時にはもう婚約者になっていた。
聖女は王族と結婚するものだということだった。
私は当時、結婚というものをよく理解していなかった。だから受け入れた。いや、従ったという方が正しいか。
分別のつく歳となった今となっては、私は聖女であるから――
諦めたのだ。
「それでは、本日の癒しの時間はこれでお終いとなります」
係の者がそう言って扉を閉じる。
私は、十二人目の希望者を癒し終え、席を立った。
窓の外には、列を成した希望者たち。きっと彼らはこれからも日を跨ぎ順番を待ち続けるのだろう。
皆、私を見る。
声は聞こえないが、その口が「聖女様」と動いているのがわかる。
十年以上、毎日見てきた光景だった。
――諦めれば、楽になれるのに。私みたいに。
私は、そんな事を思っていた自分に気がつき、頭を振った。
いけない、そのような事を思ってはならない。
なぜなら、私は聖女なのだから。
物事を知り、分別が付く。それは良いことのはずだった。しかし、私にはそうとは思えなかった。
その日に癒す人は、基本的には順番に基づき、しかし容態の重い人は優先される。それは専門家が判断する。そう聞いていた。
しかし、どう見てもそうとは思えないような人が優先されていることも、ままあるように思えた。
もちろんこのやり方に疑問は呈した。予約制にすればよいのではないかと。しかし、「それは不正の元になる。容態に応じてきちんと優先されている。聖女は順に癒すことだけを考えなさい」としか言われず、逆にそれが聖女の分を弁えるということだと教えられた。
私はそれに従った。私の知らぬ事情があれど、きちんと容態の重い人も治せているのなら、それで良かったからだ。
孤児院での説法では、神の愛の素晴らしさを説く。
神殿で習った内容をただ話すに過ぎない。
愛の素晴らしさを説きながら、私はそれが何なのかは知らないままだった。
「それでは、本日の説法を終わります」
「聖女さま!」
ある日、説法を終えたとき、孤児院で暮らす少年が手を挙げた。
「はい? 質問ですか?」
「はい、ロッドと言います。なんでそんなに神様の愛はすばらしいのに、僕のお父さんとお母さんは死んじゃったの? なんで僕はここにいるの?」
涙を浮かべて訴える少年が、しばしの間を置いて、続ける。
「……愛って、何なのですか?」
しかし、それは、私にとってはよくある質問だった。
「大変でしたね。それは――」
お決まりの回答をしようとした瞬間、私は固まってしまった。
私は、この子、ロッドを知っていた。
どれくらい前だったか――病に苦しみながら癒しの列に並び、しかしその日の順番には入れず、絶望の目を向けていた夫婦。その間にいた少年。
絶望の目は見慣れていた。しかし、少年は、絶望にまみれていない真っ直ぐな目を私に向けていた。だから記憶に残ったのだ。
その時と同じ、澄んだ、真っ直ぐな目が、私を射抜く。
あの後で、再び少年を見た記憶はない。翌日の列にはもういなかったのだろう。
並んでいなかったのか、既に並ぶことができなかったのか。
なぜ――
私の中に、忘れていた――いや、懸命に忘れようとしていた後悔が、濁流のように溢れ出してくる。
なぜ、私は思い出してしまったのか。
なぜ、私はあの日、この子の両親を癒せなかったのか!
なぜ、私は……私は、聖女なんかになってしまったのか!!
「う……く……うわあああああ!!」
目から涙が溢れる。
止めたかったけれど、止まらなかった。
――知らない! 私だって! 本当は私だって、愛が何なのかなんて、知らない!!
全てを諦めたつもりでいた。私は聖女なのだと! だけど……だけど!
私には救えたはずだった! この子を、この子の両親を! なのに、なんで!
神がいるというのなら、なんで私にこんな運命を与えたのか! そこに愛なんて、慈悲なんてないじゃない!
ただ泣きじゃくる私は、神殿の人たちに引きずられるように、その場から離れた。
「聖女マリエル。此度の失態、神への贖罪と更なる修行で挽回するのです。祈りを増やし、より神の慈愛を受けられるように努力なさい」
翌朝、神殿。
教皇様が言う。いつもの穏やかな微笑みと共に。
「そうだぞ、マリエル。聖女としてもっと国に貢献してほしいんだ。そうすれば僕らの愛ももっと深まるだろう」
事態を知り駆けつけたクルークス様も続ける。励ましのつもりなのだろう。
愛とは。慈愛とは。
育ての親と、婚約者様。
この二人は、確かに聖女マリエルを愛しているのだろう。
だけど、私は?
マリエルを愛する人なんて、どこにもいない。
だってそうでしょう? 私は愛を知らないのだから。
だから、私は宣言した。
「今日から、私は私がやりたいように生きさせてもらいます」
「……聖女を辞めると言うのか?」
クルークス様が怪訝そうに言う。
「聖女とは何なのでしょうか。祈りとは何なのでしょうか。私の扱う奇跡こそが聖女の証だと言うのなら、私がどこで何をしても聖女であるということではないのですか?」
「マリエル、より良い聖女となるための規律じゃないか。君もそのために長い間修練を積んできたんだろう?」
「それで、癒せる人数が増えましたか? 救えた人間が増えましたか?」
私が癒しに必要とする時間は、昔も今も、十分程度。変わってなどいない。
「それは……」
二人とも知っているのだ。
この「聖女」の制度は、王家が、神殿が、その権威を示すために神の名を使い作ったものであるということを。
「お世話になりました、と言いたいところですが、私からも提案があります」
「……申してみよ」
「まず、朝晩の祈りはやめます。神の慈悲など感じたこともありません。無駄です」
「なんと……神を冒涜する気か!」
「まあまあ。即答はできませんが、まずは全てを申してみてください」
色めき立つクルークス様とは対照的に、教皇様は変わらぬ笑みを浮かべる。
考えていることは手に取るようにわかる。
聞いた上で、私を落ち着かせ、どう否定しようか。それしか頭にないのだろう。だから、平静でいられるのだ。
「私が出ていくよりは面倒がないでしょう? 次に、孤児院へ私が出向くのは週に一度とし、他の日は実用的な勉強や職業訓練をさせてやってください。そして、空いた時間に、私は思う存分困っている人々に癒しを施します」
「なんと、ずっとか」
「はい。実際にどこまでできるのかはやってみないとわかりませんが、癒しは私にしかできないのですから。神が祈りを欲するならば、それは誰かが代わりに祈れば良いのです」
「それは、神聖なる癒しの奇跡を民へ安売りするようなことになるのではないか?」
クルークス様は、ただ純然と、「奇跡とは高尚なものであり、王家や神殿の高貴な者が民草に分け与えるもの」だと思っている。
――悪意がない。だから、救いようがない。
私の眉間に、わずかに皺が生まれる。
「癒しの申込の管理と、誰を癒すかは私が決めます。何人たりとも口を挟まないでください。費用についてもです」
「……それは、できぬ相談です、聖女マリエル」
教皇様の口元は笑っているが、目から笑みが消えた。
「それが何故できないのか、ご説明いただけますか?」
私は知っていた。私の「癒し」が神殿の大きな収入源になっていることを。
申込の費用は高額だ。申込後の順番を誤魔化すための何かしらの裏取引だってあるのだろう。
それでも重篤な人は選ばれていると信じていた。だから何も言わなかった。
だけど、あの少年の両親は亡くなった。なぜか。
言うまでもない。
また一つ、私は分別が付くようになったというだけ。遅すぎる、取り返しのつかない後悔と共に。
「それは神のご意志に反する行いです。聖女マリエル、あなたは聖女であって医師ではなく……」
私は、教皇様の説明を遮る。
「では、私はここを出ます。長らくお世話になりました」
「そんなこと、させると思いますか?」
ついに、教皇様の顔から笑みが消えた。
教皇様が右手を挙げると、神官兵が続々と現れる。
――もとより、愛どころか、信頼さえされていなかったということか。
「クルークス様、あなたはどちらの味方ですか?」
「そ、そんな事を急に言われてもだな……! 神殿は国の重要な機関だ。しかし聖女だって重要なのだぞ!」
――それでは、どちらであっても「私」の味方ではないのですよ、クルークス様。
「そうですか」
私は、圧力と結界の「奇跡」の力を使う。
これまで一度たりとも人に対して使ったことがない力。それを解放した。
一瞬で、この場の私以外の全ての者は地に伏し、動けなくなった。
研鑽を積んできた私には容易いことだった。ただ、彼らのためにこうしてこなかっただけなのだから。
「マリエル、貴様、裏切るのか!」
「裏切る? 教皇様、それは信頼しあっている相手に使う言葉です」
自分でも驚くほど冷めた目で、地に伏した教皇様を見下ろす。
本当に、私を良いように使うことしか頭にないのだろう。私が従順な駒であると信じ切っていなければ出てこない言葉だった。
「僕は君の婚約者だぞ! マリエル! 僕の愛も無下にするというのか!」
「愛?」
私の提案は、私なりの譲歩であって、それはつまり知らぬ仲ではない者たちへの私からのささやかな愛だった。
その機会までふいにしたのは、あなたたち自身だというのに。
「クルークス様、愛とは、愛している者へ向ける言葉です。あなたが愛したのは私ではなく、聖女という立場です」
その時、ステンドグラスを通して、色鮮やかな光が私を包んでいった。光が差す時間だ。
これを神々しい光景だと呼んでいた者たちは、今、悪魔を見るような視線を私へ向けていた。
「貴殿との婚約は破棄させていただきます。教皇様も、どうぞ、好きなだけ神に祈り懺悔なさい。いくら祈ろうとも私は戻りませんが」
私はその言葉を残し、神殿を後にした。
*
神殿を出た足で、昨日の孤児院を訪ねた。
「あっ、聖女様……」
私は、少年、ロッドを見つけると、膝を折る。
「もう、神殿の聖女ではないの。そうね、マリエルと呼んでちょうだい」
「はい、マリエル……様」
「昨日はごめんなさい。それから、ご両親のことも、君のことも。本当にごめんなさい」
私は、謝らなくてはならなかった。
私しか救えない人を、救えなかったのだから。
「ううん、マリエル様はお父さんとお母さんのために泣いてくれたのでしょう? ありがとう」
その眼は、変わらず真っ直ぐだ。
「……ありがとう。君は、幸せになるべきです。何か私にしてほしいことはありませんか?」
「してほしいこと。うーん、じゃあもうすぐお昼だから、一緒にご飯を食べよう?」
「えっ?」
予想外の答えだった。
ロッドに手を引かれ、私は食堂に連れて行かれる。
係の大人は私が来て驚いていたが、聖女として知られていたため受け入れてもらえた。
「どう、おいしいでしょ!」
笑顔で私に語りかけるロッド。
「ええ、とっても」
私も笑顔を返す。
いただいたスープは、お世辞にも上等とは言えない。けれど、嘘ではなかった。
子供達とのうるさいくらいの会話に囲まれながら食べると、不思議とおいしく感じたのだ。
「落ち込んでいる時は、おいしいものを食べるの! ね!」
どうやら、気を遣われていたらしい。
救おうとしていた、この子に。
「ロッド」
「なに?」
「私は、君を幸せにしたい。だから、一緒に来てくれませんか」
いや、私はこの子を幸せにしなければならない。
私にしかできないことを、もう、しないままにはできなかった。
「そうしたら、マリエル様も幸せになれますか?」
また、あの真っ直ぐな眼を向けられ、私はつい目を逸らしてしまう。
「そう、だね。君が幸せになってくれれば、きっと私も幸せに思うでしょう」
「では連れていってください。マリエル様がそんなに辛そうでなくなるなら!」
ニッコリと笑うロッド。
幸せにしようと決めた子供に、不幸せそうだと思われていた。
ああ、私はまだまだ物を知らない。
「……ありがとう。よろしくね、ロッド」
私はロッドを軽く抱きしめる。
人はこんなにも、温かいというのに。
*
三年後――
「マリエル様、お昼はチーズたっぷりのグラタンです!」
「ありがとう、ロッド。わあ、おいしそう!」
ニコニコと笑みを浮かべるロッドが、料理を運んでくる。
私も心からの笑顔を返す。
私は、ロッドと共に旅をしていた。
贖罪――そんな言葉でくくりたくはない、複雑な思いの果てだった。
初めは、私に課せられた義務のようなつもりだった。この子を幸せにせねばならないという義務。
いつしかそれは、この子がたくさんの幸せを感じてほしいという想いに変わった。ロッドの笑顔を見ると、私は本当に嬉しいのだ。
ロッドも、そんな私に心を開いてくれた。彼の両親を救えなかった、この罪深い聖女に。もとより、賢い子だった。彼の方が私なんかよりもよほど大人なのかもしれない。
二人で楽しくおしゃべりをしながら、グラタンをつつく。
これが、家族。
これが、愛。
私はまたひとつ、物事を知った。
私たちは、今日も街や村を巡り、癒しを施す。旅に必要な最低限の費用だけをもらうことにしている。一日に何十人でも癒す。そうしている。
街の疫病を一週間かけて収めたときは、街に銅像を建てようと言われた。恥ずかしいので断ったけれど、代わりに、一つお願いをした。
「もしもこの街に聖女が生まれたら、神殿には預けず、私に知らせてください」
もう、家族と引き離され、私のような思いを味わう子を出してはならない。本来、聖女に罪はないのだ。それは、私が証明せねばならないことだ。
私たちは街を越え、国を越え、旅をした。
そんな折、風の噂を聞いた。
あの王国の王都で賄賂や腐敗を巡る暴動が起こり、あの国の神殿組織は壊滅したらしい。王侯貴族も相当な痛手を負ったそうだ。
クルークス様や教皇様がどうなったかは、知らない。知るつもりもなかった。
「マリエル様ー! 早く! こっちですよ!」
「ロッド、そんなに走ると転びますよ」
私は今日も、笑顔の絶えない旅をする。
私を愛してくれる、この元気一杯な少年と共に。
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